クリコボの戦(読み)クリコボのたたかい

改訂新版 世界大百科事典 「クリコボの戦」の意味・わかりやすい解説

クリコボの戦 (クリコボのたたかい)

1380年9月8日,モスクワ大公国のドミトリー大公(イワン・カリタの孫)の率いるロシア諸公の連合軍が,キプチャク・ハーン国ママイ・ハーン軍勢をドン川支流域のクリコボKulikovoの原野で迎え撃った会戦。約230年の〈タタールのくびき〉のほぼ中間期におこった初の武力対決。正午過ぎから3時ごろまでの短時間に,ロシア軍10万とハーン軍13万~15万が6~7km四方の原野で激突し,ロシアの大勝利に終わったが,損害も大きく,兵の半ばを失って戦場での葬儀に8日かかったという。ハーン国内の支配権争いからこの一戦に威信の確立を賭けたママイ・ハーンは敗れてトフタミシ・ハーンに滅ぼされたが,ロシア側もトベーリノブゴロドなど有力諸国は参加せず,リトアニアリャザンなどハーン軍支援の公国を振り切った上での勝利であった。モスクワ大公国の名声は大いに上がり,以来,ドミトリーは,ドンスコイ(〈ドン川の〉の意)とたたえられた。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のクリコボの戦の言及

【タタールのくびき】より

… 修道院数が増大し,ロシア府主教をはじめとする正教聖職者の指導性も向上して,ロシアの国土と歴史に対する有識者の自覚もたかまった。しかし,現実にタタールのくびきからの解放が人びとの確信となりだすのは,1380年のクリコボの戦におけるモスクワ大公ドミトリー・ドンスコイを中心としたロシア諸公連合軍の勝利からである。わずか2年後に,今度はモスクワ自体がハーン軍に蹂躙(じゆうりん)され,1万数千人の戦死者を出すが,大公ドミトリーはそれでも遺書の中で自分の長男を大公位の後継者に指定して,ハーンの意向を無視した。…

※「クリコボの戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android