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シュレスウィヒ・ホルシュタイン問題 シュレスウィヒホルシュタインもんだい

百科事典マイペディアの解説

シュレスウィヒ・ホルシュタイン問題【シュレスウィヒホルシュタインもんだい】

19世紀半ばユトランド半島基部のシュレスウィヒ(デンマーク語でスレースビSlesvig)およびホルシュタインの帰属をめぐって生じた係争。この地方は,1460年以来不可分の公国としてデンマークと同君連合の関係にあった。
→関連項目デンマークモムゼン

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世界大百科事典内のシュレスウィヒ・ホルシュタイン問題の言及

【シュレスウィヒ・ホルシュタイン】より

…この関係は,1806年に神聖ローマ帝国が崩壊し,ウィーン会議によってドイツ連邦が結成されてからも続き,デンマーク国王はホルシュタイン公の資格でドイツ連邦の構成者となった。
[シュレスウィヒ・ホルシュタイン問題]
 しかしこのような状態は,フランス革命後各地で燃え上がった自由主義,国民主義の要求にそぐわず,シュレスウィヒ・ホルシュタインのドイツ貴族が両公国独自の憲法を要求してデンマークからの自立をはかる一方,デンマーク側でも国民自由主義的なアイダー・デーン党が,シュレスウィヒをホルシュタインから切り離してデンマークに併合しようとする運動を起こし,これはデンマーク人の多く居住する北シュレスウィヒに支持者を見いだしたのであった。この問題はデンマーク国王クリスティアン8世(在位1839‐48)とその弟で王位継承者のフリードリヒにともに子どもがなかったこと,またデンマークでは女系相続が認められていたが,ドイツ系のホルシュタインでは認められなかったという事情もからんでさらに紛糾した。…

【スリースウィー問題】より

…〈シュレスウィヒ・ホルシュタイン問題〉のデンマーク史の観点にたつ呼称。19世紀のナショナリズムの高揚のもとで対峙するデンマーク・ドイツ間の,デンマークの公爵領スリースウィーSlesvig(ドイツ語でシュレスウィヒSchleswig)の帰属をめぐる係争で,ドイツのシュレスウィヒ・ホルシュタイン主義Slesvigholsteinismeとデンマーク自由主義者のアイダー主義Ejderpolitikの双方の要求がまっこうから対立した。…

※「シュレスウィヒ・ホルシュタイン問題」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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