19世紀ドイツを代表する学者。法律学,碑文学,言語学,古銭学,歴史学に不朽の業績を残す。ライプチヒ,チューリヒ,ブレスラウ(現,ブロツワフ)の各大学教授を経て,1858年プロイセン・アカデミー会員としてベルリンに移り,61年ベルリン大学古代史教授。63-66年および73-79年にプロイセン議会の議員,81-84年には帝国議会議員となる。69年ローマ名誉市民,1902年ノーベル文学賞を受ける。
著書をおおむね年代順に挙げると,《ローマ史》(1-3巻:1854-56,5巻:1885,ローマ帝政期にあてられるはずだった第4巻はついに書かれなかった),《ローマ研究》2巻(1864,79),《ローマ国家法》3巻(1871-88),《ローマ刑法》(1899)である。最後の2著はまったく先人の業績のない〈無からの創造〉であって,ローマ国家法,刑法を,歴史的にというより体系として創り上げたものである。死後編まれた《論文集》8巻(1905-10)のうち,第1~3巻は〈法学論文集〉である。史料刊行としては《ローマ法大全》のうちの《学説集》2巻(1868-70),《モヌメンタ・ゲルマニアエ・ヒストリカ》の中の《古代著作家》,《ラテン碑文集》第3巻の一部(1902),および第5,9,10の各巻(5巻:1877,9・10巻:1883),《テオドシウス法典》(第1巻:1905,第2巻はP.M. マイヤーによる)があり,いずれも今日にいたるもその価値を失っていない。政治家としては自由主義の立場をとり,ビスマルクの強硬な反対者であった。
執筆者:弓削 達
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ドイツの古代史家。シュレスウィヒの牧師の家に生まれる。キール大学で法律を学び、のちイタリア、フランスで碑文学、考古学の研鑽(けんさん)を積む。1848年の三月革命では、郷里の新聞編集者として活発な論陣を張った。同年ライプツィヒ大学教授に招かれ、古代法を講義したが、50年反動的な政府と対立して罷免された。その後チューリヒ大学(1852)、ブレスラウ大学(1854)と移り、58年以降ベルリン大学で古代史を担当。モムゼンは当時の大学教授としては珍しく左派自由主義の立場にたち、プロイセン邦議会議員(1863~66、1873~79)、帝国議会議員(1881~84)としてビスマルクを鋭く批判。またトライチュケの国家主義的歴史学とも対決した。主著『ローマ史』(一~三巻・1854~56、第四巻は断片で未完、第五巻・1885)では、彼の政治的体験が躍動する文章となって読者を魅了し、このため後年(1902)ノーベル文学賞を受賞した。また多数の協力者を得て編集した『ラテン碑文集成』、『ローマ公法』(三巻・1871~88)、『ローマ刑法』(1889)その他の業績は、ニーブールのあと、近代におけるローマ史研究の礎石を据えた歴史家としての地位を不動のものとした。
[木谷 勤]
『ヴェーラー編、ドイツ現代史研究会訳『ドイツの歴史家 第一巻』(1982・未来社)』
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1817~1903
ドイツの歴史家。1848年故郷シュレースヴィヒ‐ホルシュタインの自由のため論陣を張り,54~56年『ローマ史』全3巻を著す。国民自由党分離派の国会議員としてビスマルクを激しく批判した。
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…刻文年代は前7世紀末から古代末期にいたるが,帝政初期への集中がかなり著しい。ラテン碑文学は,モムゼンの首唱のもとに19世紀ドイツで企てられたラテン語金石文の集成《コルプス・インスクリプティオヌム・ラティナルムCorpus Inscriptionum Latinarum》(1863‐ )の刊行によって,その基礎が築かれた。ラテン碑文の場合,刻文形式のうえで目を引くのは,省略記号を頻用することと,文の定型化が著しいことである。…
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