タルトゥ大学(読み)タルトゥだいがく(英語表記)Tartuskii universitet

改訂新版 世界大百科事典 「タルトゥ大学」の意味・わかりやすい解説

タルトゥ大学 (タルトゥだいがく)
Tartuskii universitet

エストニア共和国タルトゥ市にある由緒ある大学。1632年にスウェーデン王グスタブ2世により創立され,ドルパート大学Universitas Dorpatensisと呼ばれた。24年後戦火に追われてタリンに移ったが,90年にタルトゥに戻った。1710年北方戦争のため,その活動は停止した。1802年に再開され,1800年代には医学と自然科学の面で国際的に高く評価され,バルト地方での高等教育の中心となった。天文学のF.G.W.vonストルーベ,外科のN.I.ピロゴフ,化学・物理学のF.W.オストワルトらが輩出し,講義はドイツ語で行われた。19世紀末ロシア弾圧により研究活動は衰えたが,エストニアの独立後1919年よりエストニア語で講義が行われている。ソ連に編入されていた時期はタルトゥ国立大学Tartu Riiklik Ülikoolと呼ばれた。教授数約100,学生数8000(1996)で10学部に分かれている。
モスクワ・タルトゥ学派
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

大学事典 「タルトゥ大学」の解説

タルトゥ大学[エストニア]
タルトゥだいがく

エストニアのタルトゥ市にある総合大学。スウェーデン王グスタフ2世アドルフにより,1632年に創設された。当時エストニアはスウェーデンの統治下にあった。その後,ロシア支配下の1802年に国王アレクサンドル2世によって再建された。当時はバルト・ドイツ人貴族の力が強く,講義はドイツ語とラテン語で行われ,タルトゥのドイツ語名であるドルパート大学(エストニア)と呼ばれた。1860~80年は大学の黄金時代で,周辺諸国からも多くの学生を集めた。その後,ロシアの影響が拡大するとロシア語で講義が行われ,1884年にユリエフ大学(エストニア)と改称された。1919年のエストニア独立とともにエストニア語で講義が行われるようになり,エストニア語のタルトゥが大学の名称に使用されるようになった。第2次世界大戦後,エストニアはソ連の支配下に入り,社会主義体制下でソ連型のタルトゥ国立大学(エストニア)となった。体制転換後,西ヨーロッパ型の大学へと改革されている。2014年現在13学部,学生数1万5000人。
著者: 加藤一夫

出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のタルトゥ大学の言及

【エストニア】より

…全人口中エストニア人は61.5%で,ロシア人30.3%,ウクライナ人3.2%,ベラルーシ人1.8%,フィンランド人1.1%,その他2.1%という構成をなす(1989)。エストニアには六つの大学があり,古い伝統をもつタルトゥ大学をはじめ,タリンに美術,音楽,工業,教育の各大学等の高等教育機関がある。1990年の学生数2万4000,普通教育の生徒数約22万。…

※「タルトゥ大学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

脂質異常症治療薬

血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...

脂質異常症治療薬の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android