ラテン語(読み)らてんご

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラテン語」の意味・わかりやすい解説

ラテン語
らてんご

ギリシア語と並んで西欧の古典語であるラテン語Latinは、古代ローマ帝国の公用語であり、中世から近代の初めに至るまでカトリック教会を中心とする全ヨーロッパの知識層の、いわば共通の文語として用いられた。また、現在のフランス、イタリア、スペイン、ポルトガルルーマニアなど、すべてのロマンス諸語の母体である。

[風間喜代三]

成立

ラテン語はインド・ヨーロッパ語族の一分派であるイタリック語派に属する。この語派に属する方言としては、ラテン語と、それに隣接するファリスキ語のほかにオスク・ウンブリア語Oscan-Umbrianと、異論もあるが現在ではベネト語Veneticが加えられている。それらの碑文の資料はいずれも紀元前数世紀のものだが、ローマの政治力の拡大とともに、すべてラテン語に吸収されてしまった。オスク語は主としてローマの南、カンパニア地方の住民の言語で、紀元79年に火山噴火で埋没したポンペイの町の落書きにもこの言語の跡がみられる。オスク・ウンブリア語はローマの北東、ウンブリア地方の言語をさすが、その主たる資料はグビオの町から15世紀に発見された9枚の青銅板に刻まれた宗教上の規約である。ベネト語の300余の碑文は、ポー川の北部からトリエステに至るアドリア海岸に近い町々から出土したものである。この言語の、ラテン語とオスク・ウンブリア語との関係は明らかでない。

 ラテン語とオスク・ウンブリア語はともにイタリック語派に共通する多くの特徴をもっているが、印欧祖語に想定されるkwの音の現れに関してquとpというはっきりとした差があり、しかも同じ違いが隣接するケルト語派の内部にも認められるところから、「イタロケルト語派」の設定に重要な根拠を与えている。

 ラテン語は本来、ラティウムLatiumとよばれた七つの丘の地からおこったローマ人の言語だが、その形成に大きな影響を与えたのはギリシア語とエトルリア語である。ギリシア語は、文化的にはるかに優れた先進国の言語であり、ローマの文人のことごとくがこれを熟知し、その文学を範として、詩型に至るまでもそれと同じ型を踏襲したほどであるから、その影響は長くて深い。ラテン人は、深い内容をもつギリシア語の単語をラテン語に翻訳しようと苦心したが、それでも訳しきれずにそのまま借用した形が、近代の諸言語に数多く伝えられている。それらをみるとacademy, gymnasium, philosophy, rhythm, theaterなど学術的な用語も多いが、purple(ラテン語の形はpurpura)、machine(ラテン語māc〔h〕ina「道具」)、lanternなどのように、日常の単語も含まれている。これは文人の手を経たものではなくて、イタリア南部にはシチリアを中心に、非常に早くからギリシアの植民市がつくられていたために、そこで民衆が商売などを通じて直接借用した語彙(ごい)である。

 ギリシア語ほど根深くはないが、エトルリア語とその文化の影響もラテン語にとって無視することはできない。ギリシア文字と同じフェニキア系のアルファベットで綴(つづ)られた万余の碑文を資料とするこの言語の全貌(ぜんぼう)はいまだ明らかでなく、その系統も確かではないが、この言語の話し手が、ローマの栄える以前に、その北部で有力な文化を誇っていたことは疑いない。ローマ史家も、前4世紀の末ごろにはエトルリア語の文書がローマの若者たちによって、後のギリシア語と同じくらい学習されていたと述べている。彼らはまずラテン人に、われわれの知っているラテン・アルファベットを供給した。このアルファベットは、Xをkhでなくksの連続にあてる西ギリシア系のものだが、不思議なことにギリシア語のgを表すΓ(ガンマ、ラテン字C)の字をラテン人は初めgとkに併用し、のちにはもっぱらkの音に用いた。GはCにを加えてのちにつくられた字である。そして、Kの字は知っていながら、ほとんど使用しない。この不可解な事実は、有声と無声の破裂音の対立を欠き、同じようなギリシア文字の使用を示すエトルリア語の話し手を仲介としたと考えることによって解決されよう。このほかGaius Julius Caesar, Marcus Tullius Ciceroのような名―姓―あだ名という人名のつけ方も、おそらくエトルリア起源だろうとされている。ローマ人の名称そのものにも、エトルリア系と思われるものが数多く指摘される。そのなかにはCato, Cicero, Pisoなど有名な人々の名も含まれるばかりでなく、ローマという名称そのものもエトルリア起源の可能性がある。このほか多くの普通名詞も借用されたし(たとえばfenestra「窓」、フランス語fenêtre)、ギリシア語の単語で、エトルリア経由でラテン語に入ったと思われる形も少なくない。われわれの知るperson(ラテン語persōna「面」、ギリシア語prosōpon「顔」)、scene(ラテン語scaena「舞台」、ギリシア語skēnē)もその一例である。ギリシアの新喜劇の伝統を継いで、前3世紀の末から前2世紀にかけて多くの喜劇作品を書いたプラウトスは、当時の生々しい口語の姿を伝えている。

 このようにギリシア、エトルリアという大きな文化圏からさまざまな要素を吸収しつつ、ラテン語は、文学に歴史に膨大な量の作品を生んだ古典期の完成された文語に向かって徐々に洗練され、充実していった。前6世紀ごろのものと推定される金のピンに彫られた銘文と古典ラテン語を比較すると、数世紀の間の変化がどのように進んだかを推測することができる。これはローマの南東にあるプラエネステの町から発見されたものである。Manios med vhevhaked Numasioi.=(古典ラテン語)Manius mē fēcit Numerioō.「マニウスがヌメリウスのために私をつくった」。まず主格単数-usはまだギリシア語と同じ-osであり、同様に与格のそれは-ōでなくて-oi(=-ōi)であった。また、人称の代名詞の対格mēは、mēdという形で示されている。またNumasioiという形では、のちに母音間でおこった-s->-r-という音変化がみられない点にも注目すべきである。vhevhakedのvhはfを表すが、この重複を用いたfaciō「つくる」の完了形は古典期にはみられず、オスク語に共通する形である。

 次に前3世紀の中ごろに書かれた、ルキウス・コルネリウス・スキピオをたたえた碑文の一節をあげると、Honc oino ploirume cosentiont R〔omane〕/duonoro optuma fuise viro,/Luciom Scipione.=(古典ラテン語)Hunc ūnum plūrimī cōnsentiunt Rōmānī bonōrum optimum fuisse virum, Lūcium Scīpiōnem.「ほとんどのローマ人はこの一人の人L・Sがよき人々のなかでもっともよき男であったことに同意する」。ここでも古典期のuはまだoで書かれ、oiはūになっていない。またduo->bo-の変化もおこっていない。この碑文で興味深いことは、Luciom以外の対格のマークである語末のmがみな書かれていないことである。またcosentiuntではsの前のnがない。これは、教養のない石屋が彫り落としたのであろう。おそらく彼らのなまの発音では、語末のmや、sの前のnが意識されないほどに弱まっていたからである。このような正書法の乱れは、古典期の碑文にもしばしばみられる現象であり、そこに当時の話しことばの実態をうかがうことができる。

[風間喜代三]

ラテン語の文

われわれが一般にラテン語というとき、その言語は散文においてはカエサル、キケロ、詩においてはウェルギリウスなどに代表される十分に練り上げられたラテン語をさしている。それは、文法家M・T・ウァローのことばを借りれば、「ローマの言語で誤りなく話すことの規則」を守った、表現にも、語彙(ごい)の選択にもすべてにみやびた趣(おもむき)を理想とする、文人によって推敲(すいこう)された文章のことばであった。名詞は男・女・中の三性を区別し、主(呼)・対・属・与・奪格をもち、動詞は現在・完了の二語幹にそれぞれ三時制(現在・未完了・未来と、完了・過去完了・未来完了)、能動と受動の二態、直接法と接続法の二法をもつ、形態論的にはギリシア語に比べるときわめて整然とした組織をもった言語である。ローマの文人はそれを駆使して、できるだけ簡潔な文章により、できるだけ豊富な内容を表現しようと努めた。このラテン語を学ぶことは、すべてのヨーロッパの知識人の必須(ひっす)の教養であったから、その文章を尊ぶ心は近代に至るまで継承され、近代諸語の表現の形成上に大きな影響を与えた。ラテン人の文章は黙読の書物のためのものではない。聴き手を予想し、彼らを説得するために、リズムと音の調和にも十分に心を配ったものでなければならない。キケロは『弁舌家』のなかで、ことばとその内容に加えて、リズムの必要性を強調している。「リズムは聴き手に気づかれずに飛び去っていく。けれどもそれが欠けていると、ことばそのものが喜びを減じてしまう」。だから、一定の韻律をもった詩よりも、散文のほうがむずかしい。しかし、散文でも詩でも「そのいずれにもあるのは材料とその扱いである。材料というのは語であり、扱いというのは語の配置である。さらにこのいずれにも三つの部分があるが、語のそれは比喩(ひゆ)・新語・古語である――本来の意味で用いられた語については、ここでなにも述べることはないのだから――。配置についてのそれをいうならば、それは配列compositiō、均整concinnitās、リズムnumerusである」。われわれはここに、文についての永遠の理想をみることができよう。

 しかし、このような完璧(かんぺき)さを求めることのできるのは、皇帝を中心とした貴族や文人たちに限られ、民衆の口にする話しことばは、先にみたように自然の変化にゆだねられていた。名詞の語末の子音の消失、あるいはhの音の消失(たとえばラテン語habēre「持つ」、イタリア語avere、フランス語avoir)などの現象は、民衆のラテン語がかなり早くから、その後裔(こうえい)であるロマンス諸語に現れる傾向をもっていたことを示している。キケロほどの人でも、友人への手紙のなかでは、日常の語彙を承知して使っている。たとえば、「よく」という副詞を、文語ではbeneという形を使うところを、bellus「よい」という形容詞からつくられたbelleを用いたり、ais-ne ?「ええ、本当?」という表現にainと詰めた形を使っている。古典期には二重母音のauはōと発音されていた。cauda「尾」については、現在のイタリア語のようにcōdaという発音が聞かれたことを、ウァローが指摘している。キケロですら、手紙のなかではauricula「耳」(フランス語oreille)に対してōriculaという形を使っている。後70年から9年間ローマを支配したウェスパシアヌス皇帝は、あるときM・フロールスFlōrusという高官に、plōstraはplaustra「荷車(複数)」というのが正しい、と注意された。そこで皇帝は、その翌日さっそく彼に向かってフラウルスFlaurusと呼びかけたという。この逸話は、のちに皇帝の伝記を書いたスウェートーニウスが伝えているものだが、これは、auからōへの変化が当時すでに宮廷にまで浸透していたことを物語っている。

 このような音変化はラテン語の構造にいろいろの影響を及ぼしてくる。皇帝ネロの仲間で、その遊興の指南役でもあったペトロニウスは、その作品のなかで、奴隷に、vinum「酒」をvinus、caelum「空」をcaelus、cornu「角」をcornumと間違えていわせている。先の2例は、名詞の中性を男性に変えてしまった誤りであり、第三の例は、cornuという数少ないタイプの中性名詞を、より一般的なそれに変えてしまった形である。これは、名詞の性別の混同、変化のタイプの統一が民衆の間ではかなり進んでいたことを示唆している。この傾向はやがてロマンス諸語にみられる中性形の消滅につながる。それには、vinum→vinusのような男性形への移行のほかに、gaudium「喜び」→gaudia(複数)から、-aを語尾にもつ女性名詞に吸収されていく二つの道があった。

 先にあげた古典期以前の碑文にみたように、古典ラテン語の-us, -umはしばしば-o(s), -oと表記されている。この傾向がその後も変わらずに口語のなかに生き続けると、dominus(主格)、dominum(対格)、dominō(与・奪格)の単数四格の区別があいまいにならざるをえない。-aを主格単数にもつ女性名詞にも、-ae(属格・与格)、-ā(奪格)、-am(対格)の格語尾を混同する危険はいっそう大きい。これは、一つの形が性・数・格の三つの文法的要素を担った屈折語タイプの崩壊につながるもので、不明瞭(めいりょう)になった格関係、語相互のつながりは、格語尾にかわって前置詞を用いることで補われることになる。つまり、dominōはde dominoに分析されるわけである。それと並行して、古典期には前置詞の格支配は一定していたのに、これが混乱してくる。そこで、post mortem「死後に」(postは対格支配)がpost morte(奪格)、inter amicōs「友人たちの間で」(interは対格支配)がinter amicīs(与・奪格)と混同されるなどの例が珍しくない。

 音変化は動詞組織の一部をも崩す原因となった。ロマンス語全体から判断すると、未来形がもっとも不安定で、完全に消滅してしまった。それは、この時制は現在形と副詞で容易に補うことができるという心理的な理由もさることながら、主たる原因は、すべての動詞の未完了過去のマークである-ba-(amābat「彼は愛していた」)のbと、多くの動詞の完了形語幹を形成するv(amāvi「彼は愛した」)との間に混同が生じたことと、第3、4類の動詞における現在形と未来形の接近(dīcit―dīcet「彼は言う」)であろう。そのためにロマンス語は、不定法+have(cantare「歌う」+habeo>フランス語chanterai、イタリア語canteroなど)、あるいはwill+不定法(volō+cantare>ルーマニア語voi cinta)のような合成的表現によって新しい未来形をくふうしなければならなかった。この未来形と並んで消滅したのが、受動態の現在・未完了・未来、「愛する」amātur, amābātur, amābitur(三人称単数)である。これは語尾の弱まりによる能動形との接近が大きな要因であろう。これらの形の後退した穴は、のちになって、完了形の受動表現であったbe動詞sum+完了受動分詞、という合成表現がそのまま現在形に移行して埋められている。

 ラテン語は比較的自由な語順をもっていた。しかし、それでも、動詞が文末にくるという傾向が強く、カエサルの『ガリア戦記』第2巻の調べでは、主文章で84%、副文章で94%の動詞が文末にたってくる。ところが、4世紀にエゲリアという名の女性が書いた聖地への巡礼記では、動詞が文末にくるのは、主文章ではわずか25%、副文章でも37%しかなく、動詞の位置が目的語よりさらに前にあがる傾向をみせている。これは、いうまでもなく、近代ロマンス諸語の語順への接近にほかならない。エゲリアは書きことばとしてラテン語で文章を綴っているが、話しことばの語順が自然に表れてしまったのであろう。

 われわれが輝かしい文学を通して学ぶ古典ラテン語は、ギボンの英語にも、ニーチェのドイツ語にも、西欧の文章の至る所に生きている。同時に、文学作品の陰に隠れてローマ時代を生き続けた民衆のラテン語が、やがて土地土地のラテン語となって独立する。これこそ現代に直結するラテン語の生命である。

[風間喜代三]

『呉茂一著『ラテン語入門』(1952・岩波書店)』『呉茂一・泉木吉著『ラテン語小文典』(1957・岩波書店)』『村松正俊著『ラテン語四週間』(1961・大学書林)』『田中秀央編『羅和辞典』(1952・研究社出版)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ラテン語」の意味・わかりやすい解説

ラテン語
ラテンご
Latin language

インド=ヨーロッパ語族イタリック語派に属する言語。最初はラチウム地方だけの言語であったが,ローマの発展とともにその国語として広大な地域に行われるようになった。前 600年頃のものとみられるブローチの銘が現存最古の文献である。前1世紀までには洗練された文章語をもつようになったが,この古典ラテン語は中世,近世を通じて学術語ならびにローマ教会の典礼用語としてヨーロッパ文化をになった。しかし一方,民衆の日常語は文章語とは次第にかけ離れたものになり,これを俗ラテン語というが,それが地方色を強めて分岐発達して現在のロマンス語派の諸言語になった。ラテン語は高度の曲用,活用の体系をもち,典型的な屈折語の一つである。ヨーロッパの諸言語に与えた影響は,特に語彙の面で著しいものがある。現在も,学問上の術語などに利用されている。

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