エストニア(読み)えすとにあ(英語表記)Republic of Estonia 英語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「エストニア」の意味・わかりやすい解説

エストニア
えすとにあ
Republic of Estonia 英語
Eesti Vabariigi エストニア語

ヨーロッパ北東部に位置する共和国。1918年の独立の後、1940年ソビエト連邦に併合され、連邦を構成する社会主義共和国の一つになったが、1991年独立を回復しエストニア共和国となった。同年9月国連に加盟。ラトビア、リトアニアと並ぶいわゆるバルト三国の一つである。

 国土の北と西はバルト海に面し(海岸線3794キロメートル)、東はロシア連邦(国境線294キロメートル)、南はラトビア共和国(国境線339キロメートル)に接する。面積4万5227平方キロメートル、総人口は137万0052(2000センサス)、129万4455(2011センサス)。首都はタリン。ほかに主要都市としては、タルトゥ、ナルバ、コフトラ・ヤルベ、パルヌなどがある。多民族国家で民族別の人口構成は、エストニア人68.5%、ロシア人25.7%、ウクライナ人2.1%、ベラルーシ人1.2%、フィンランド人0.8%、その他1.7%(2005)。

 公用語はエストニア語で、ウラル語族のフィン・ウゴル語派バルト・フィン諸語に属する。ソ連邦時代、ロシア語が第一公用語とされ、ロシアからの移住も促進されたため、ロシア語を日常語とする住民も多い。宗教は、ルター派が15万2000人、エストニア正教会が14万4000人で多く、そのほか、バプティストカトリックなどがいる(2000)。

[今村 労]

自然

東ヨーロッパ平原の北西部に位置する国土は、東部および南東部にかけてやや標高が高くなるが、総じて平坦で最高点のムナマギ山が318メートル、平均標高は約50メートルである。全長10キロメートルを超える河川は約420を数え、主要なものとして、ロシア連邦との国境をなしフィンランド湾に注ぐナルバ川、ペイプス湖(ロシア語名チュド湖)に注ぐエマヨギ川、リガ湾に注ぐパルヌ川などがある。ロシア連邦との国境をなすペイプス湖をはじめ、人造湖を含めて1400を超す湖沼があり、総面積約9000平方キロメートルとなる約1万2000の泥沼地や湿地帯を有する。植生は比較的豊かで、植林地を含め国土の約40%以上を森林が占め、原生林は針葉樹が多い。気候はやや寒冷ながらも穏やかで、年平均気温は最西部で6.0℃、最東部で4.2℃~4.5℃、月別平均気温は最低が2月の零下6℃、最高が7月の17℃である。年間降水量は約700ミリメートル、南東部では12月から、そのほかの地域でも1月から3月まで積雪がある。

[今村 労]

歴史

バルト・フィン系のエストニア人は紀元前500年ごろにはバルト海沿岸北方に住んでおり、10世紀にはいくつかの部族集団を形成していた。12世紀末からバルト海東南岸地域へ植民を始めたドイツ人帯剣騎士団にとってかわったリボニア騎士団が、現在のエストニア南部およびラトビア北部を領地としていった。エストニア北部は1219年にデーン人によって征服され、1346年にリボニア騎士団に売却された。現首都の名称タリンTallinn(デーン人の町Taani linnという意)にその痕跡(こんせき)を残している。こうして支配層がドイツ人、被支配層がエストニア人という構成ができあがった。その後、タリンはハンザ都市として発展した。教会権力を背景とするドイツ人による封建的支配は、16世紀中葉の宗教改革によって意味を失った。リボニア騎士団の弱体化とそれに伴うスウェーデンとロシアの覇権争いで1561年にリボニア騎士団領は解体、タリンとエストニア北部は1561年以降にスウェーデン領となり、1629年にはリガを含むリボニア北西部もスウェーデン支配下となった。スウェーデン領となった現エストニアの大部分では、これまでのドイツ人地主貴族による封建的支配が続いた。この時代は1632年にタルトゥ大学が創設されるなど、後に「古き良きスウェーデン時代」とよばれるが、実際には農民の負担は増大した。

 バルト海を目ざすロシアの西漸は、1700年に始まった大北方戦争でふたたび示され、1721年のニスタット条約で、同地域はスウェーデンからロシアの支配に移った。この時代はまだ都市の人口は少なく、農民は家庭で教育を行っていたが識字率は高かった。敬虔(けいけん)主義者のモラビア兄弟会の運動が1730年ころまでに伝わっている。また、啓蒙(けいもう)思想がバルト・ドイツ人地主に影響を及ぼした。さらにロマン主義の影響でエストニア人も民謡や叙事詩を集めるようになった。1710年に閉鎖されていたタルトゥ大学が1802年に再開されたが、そこではドイツ語が用いられた。

 18世紀末までに、バルト海南東岸地域はすべてロシア帝国支配下になるが、バルト・ドイツ人が支配層であったエストニア北部、リボニア、クールランドは、その後、似たような発展を遂げる。農奴解放は、エストニア北部では1816年、リボニアでは1819年であった。バルト・ドイツ人は、ロシア帝国支配下でも地主貴族として社会的、経済的、政治的影響力をもっていたが、1840年ごろまでにはバルト・ドイツ人地主貴族とロシア政府の関係は悪化し、バルト・ドイツ人の自治は侵食されていった。さらにロシア語が導入され、正教への改宗が奨励された。

 19世紀後半は、厳しいロシア化政策の実施とエストニア人の民族覚醒(かくせい)で特徴づけられる。19世紀なかばにフィンランドの民族的叙事詩『カレバラ』(『カレワラ』)Kalevalaに倣ってクロイツワルトFriedrich R. Kreutzwald(1803―1882)がまとめた『カレビポエクKalevipoeg(カレフ王子の物語)はエストニア語、ドイツ語で出版された。民族覚醒は、エストニア語の新聞や詩、演劇などを生み、言語も整えられた。民族規模の歌謡祭が1869年に始まった。成人の識字率も1897年には96%であった。ロシア帝国内の鉄道網の整備によって、産業は発展し、都市ではエストニア人労働者が生まれた。

 1905年のロシア革命は、エストニアにも波及し、自治の要求や政党の組織化がみられた。第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)でドイツとロシアとの間の争いに巻き込まれたこの地域は、1917年ロシア革命によるロシア帝国の崩壊をきっかけに、1918年2月24日にエストニアの独立を宣言した。エストニアはソビエト・ロシアのボリシェビキ軍とバルト・ドイツ人に擁護されたドイツ軍との戦闘を余儀なくされたが、フィンランドからの義勇兵やイギリス艦隊の支援で独立を導いた。1920年2月2日に結んだソビエト・ロシアとの平和条約で、エストニアの独立は承認された。

 独立国家となったエストニアは、議会制民主主義の共和国となり、土地改革でバルト・ドイツ人地主貴族の広大な所有地は再分配され、これまでの社会構造は大きく変わった。しかし議会制民主主義とはいうものの政治状況は不安定で、1919年から1933年までの政府は、平均8か月という短命であった。1930年代の不景気は、政治状況をいっそう不安定にし、1934年3月には首相パッツKonstantin Pats(1874―1956)が独裁体制を敷いた。

 1930年代の緊迫した国際環境で中立政策をとろうとしたエストニアは、すでに1923年に防衛同盟を結んでいたラトビアに加えて、リトアニアを含む3国の相互援助条約を1934年にジュネーブで締結した(バルト協商)。しかしこの協力の試みは、ラトビア、リトアニアの関心がドイツの脅威にあるのに対して、エストニアの関心はソ連の脅威にあることから、あまり有効ではなかった。1939年8月23日に独ソ不可侵条約が結ばれ、その付属秘密議定書ではエストニアがソ連の影響圏におかれることとなっていた。9月28日にソ連との相互援助条約の締結を強いられ、エストニア軍を上回るソ連軍が駐留した。1940年6月16日にソ連は条約不履行で最後通牒(つうちょう)を突きつけた。7月21日に招集された新議会はソビエト社会主義政府の設立を可決し、翌22日にソ連への加盟を決定した。8月6日にソ連最高会議はエストニアの加盟を認め、エストニアはソ連邦の構成共和国となった。

 ソ連への「編入」によってソビエト化が進められ、エストニア国民から大量のシベリア追放者がでた。バルト・ドイツ人は1939年末にはすでに大半がエストニアを去っていた。1941年6月22日に独ソ戦が始まり、侵攻してきたナチス・ドイツ軍による占領は1944年まで続いた。反撃にでたソ連軍によってドイツ軍は撤退させられ、ソビエト政府による支配がふたたび始まり、多数の亡命者も出た。第二次世界大戦後、ソ連の一構成共和国となったエストニアの政府では、モスクワから送り込まれた共産党員が中央集権的なソビエト化をはかり、農業集団化を強制的に押し進めるためにエストニア人を大量にシベリアに追放した。「森の兄弟」とよばれるゲリラの抵抗運動は1950年代初めまで続いた。エストニアはソ連内で工業地域としての役割を担い、ロシア人労働者が流入、バルト海の環境汚染も生んだ。1960年代には厳しい中央集権的支配が進められ、1970年代末に、抵抗運動は地下活動や人権運動として活発化した。

[志摩園子]

独立までの歴史・政治

1985年、当時ソ連邦書記長として権勢を振るったゴルバチョフによってペレストロイカ(改革)の意志が示されると、エストニア北東部でも環境保護を求める燐(りん)鉱石採掘反対運動が展開した。このころの共和国の人口は、エストニア人が61.5%、ロシア人が30.3%で、北部のナルバを含むコフトラ・ヤルベ地区ではエストニア人がわずか23%であった。1988年夏の歌謡祭で、およそ30万人は、民族の歌を聞きながら将来を議論し、デモや集会で禁じられていた民族の歌をうたったため「シンギング・レボリューション(歌とともに闘う革命)」とよばれた。エストニア政府指導部には改革派がつき、エストニア語を公用語に定めた。同年春に哲学者サビサールEdgar Savisaar(1950―2022)の提案で生まれたペレストロイカを擁護する「人民戦線Rahva Rinne」(設立は10月2日)は、ラトビア、リトアニアと協力して、民主化を求める声を結集し運動を展開した。3国の民主化運動の動向は、西側諸国からペレストロイカの進行を判定する「リトマス試験紙」とされた。1990年2月の選挙でも「人民戦線」は圧勝し、新エストニア最高会議は3月には独立への移行を宣言した。ソ連との分離・独立交渉は難航したが、1991年8月のモスクワでのクーデター未遂で状況は変わり、8月20日独立を宣言、9月6日にソ連の国家評議会が承認した。1992年6月28日の国民投票で大統領制を定めた新憲法が採択された。バルト三国において、1991年12月のソ連解体後も、ソ連軍はロシア軍として駐留していたが、3国は、「人民戦線」運動のように、ロシア軍の撤退問題の交渉でも協力し、1994年8月31日ロシア軍の撤退は完了した。ロシアとの国境画定については1999年、約7年にわたる交渉を経て仮調印が行われた。その後2005年5月にモスクワで正式に署名されたが、8月にロシアは署名を撤回し、国境画定条約は未発効のままとなっている。独立回復以来、EU(ヨーロッパ連合)やNATO(ナトー)(北大西洋条約機構)への加盟を望んできたが、ロシアの圧力もあって、1997年7月のマドリード・サミットでのNATOの東方拡大の第一次対象国には該当しなかった。しかし2004年、正式にNATOおよびEUに加盟した。3国のなかでは、フィンランドその他の北欧諸国との絆(きずな)がもっとも強いエストニアが目覚ましい経済発展をとげている。

 議会は一院制で議席数は101、任期は4年、直接選挙の比例代表制で決められる。大統領は議会によって選出され、任期は5年。政党としては改革党、中道党、祖国・レス・プブリカ同盟、社会民主党などがあり、独立回復後、連立政権の交代が続いている。

[志摩園子]

経済・産業

独立回復の1991年以後、通貨改革、民営化、外資導入などを柱に、市場経済への移行へ向けた経済改革が進められた。1992年にはIMF(国際通貨基金)に加盟、さらに通貨改革を行い、ドイツ・マルク(DM)に連動する独自通貨クローン(EKR)が導入され、1DM=8EKRの比率に固定された。EUにおける通貨ユーロ導入後は1ユーロ=15.64クローンに固定されていたが、2011年1月にユーロを導入した。国営企業の民営化は、1993年の民営化法に基づき、同年に設立された民営局主導で進められた。外資導入は、エストニア投資庁のもとで促進され、1994年には国民1人当りの外資受入額が中東欧諸国で最高を示した。おもな投資国はフィンランドとスウェーデンで全投資額の約60%を占め、ロシア、アメリカ、さらにイギリス、オーストリアなどのほかのヨーロッパ諸国がこれに続く。

 工業は、食品、繊維、木材加工、化学、機械、金属、エレクトロニクスなど多岐にわたり、ソ連邦時代から主要産業部門をなしていたが、独立回復後は建設業、運輸・通信業、サービス業などの伸長がみられる。農業は独立回復後、一時生産額が減少したが、国内需要はほぼ満たしている。独立回復以前は90%以上がソ連邦の諸共和国との間で行われていた貿易は、独立回復後、EU諸国、北欧諸国、バルト諸国、ウクライナなどとの間に自由貿易協定が結ばれるなど、ヨーロッパ諸国を中心に幅広く展開されている。主要貿易相手国は輸出入ともに、フィンランド、ロシア、スウェーデン、ドイツなどである。輸出品としては、繊維製品、機械、木材加工品、化学工業製品、食品などで、輸入品としては機械、鉱産物、繊維製品、化学工業製品、食品などがそれぞれ上位を占める。オイルシェール(油母頁岩(ゆぼけつがん))、泥炭、燐鉱石などの天然資源が産出され、とくにオイルシェールは火力発電のエネルギー源や化学工業の原料など、幅広く利用されている。

 外交面でもEU諸国、北欧諸国、バルト諸国との関係が緊密化し、1995年6月にEUと準加盟協定を結び、2004年5月には正式加盟している。2006年の日本への輸出額は68億円、日本からの輸入額は191億円であった。なお、2004年に大統領のリューテルArnold Rüütel(1928― )が来日、2007年に天皇・皇后がエストニアを訪問している。

[今村 労]

文学

昔からバルト海東岸地域は民間伝承の宝庫とよばれている。レキバルスregivärssという、伝統的な頭韻形式の民謡などは、その豊富な民話や伝説とともにエストニアでは「人々の書かれざる年代記」とみなされてきた。文学史はフォークロアから説き起こされるのが常であり、そこにはフルトJakob Hurt(1839―1907)やエイセンM.J.Eisen(1857―1934)らの民俗学者の名が頻繁にあらわれる。19世紀なかばに、同じウラル系民族のフィンランドの叙事詩『カレバラ』に刺激されて、クロイツワルトらの手で編まれた、叙事詩的な作品『カレビポエク』にしても、時代のロマン的民族主義の産物であると同時に、このような土壌に深く根ざしたものであったといってよい。今日、『カレビポエク』伝説をはじめとする『大きなテョル』Suur Tõll、『昔の怪物』Vana Paganの三大伝説資料集成が編まれ、膨大な『民謡大成』の事業が公に継続されてきたゆえんでもある。

 ところで、現在知られるもっとも古いエストニア語の資料は、16世紀初めにルーテル派が、低地ドイツ語と並んでウィッテンベルクで印刷した教理問答だが、以来、聖書などの宗教的出版物以外の、いわゆる文学的な記録では18世紀の大北方戦争の結果によってもたらされたカス・ハンスKäsu Hans(?―1715)の『破壊されたタルトゥの町の悲しみの歌』(1714年の写本)がある。だが、一般的にはクロイツワルトに協力した学者ファールマンF.R.Faehlmann(1798―1850)の出現こそがエストニア近代文学の夜明けとみられている。

 やがて、新聞や合唱祭を主催し、国民劇場や文学協会の創設に尽力するなど、啓蒙(けいもう)的な文化活動家であった父ヨハン・ヤンセンJohan Jansen(1719―1790)の後を受け継いで、不屈の祖国愛を歌い、国民演劇の母といわれて、いまなお人々に深く敬愛されているリュティア・コイトゥラLydia Koidula(1843―1886)が登場する。その詩集にちなんで「エマヨキ(母なる川)のナイチンゲール」ともいわれている。さらに、ゲルマンやスラブの圧迫や支配下で過ごした歳月の間に、過酷な運命を生き抜くために鍛えあげられた言語の象徴主義を駆使してエストニアのランボーとも称せられたユハン・リーブJuhan Liiv(1864―1913)、ジャーナリスト出身のエトゥワルト・ビルデEduard Vilde(1865―1933)(長編小説『寒い国に』など)らの各分野にわたる活躍がそれらに続いた。

 第一次世界大戦後に独立したエストニアにあっては、華々しく登場した西欧派の詩人、評論家のグスタフ・スイーツGustav Suits(1883―1956)をはじめ、『若きエストニア』Noor Eestiや、神話の不死鳥にちなんで名づけられた『シウル』Siuruらの文学グループに結集したビレム・リタラVillem Ridala(1885―1942)、ヘンリク・ビスナプーHenrik Visnapuu(1890―1951)、さらにはノーベル賞候補にもなった女流詩人マリエ・ウンテルMarie Under(1883―1980)(詩集『心から離れた石』など)、フィンランドとの文学の掛け橋となり、両国語で作品を書いたフィンランド出身の人気作家アイノ・カッラス(父と兄は有名な民俗学者のユリウス・クローンJulius Krohn(1835―1888)、カールレ・クローンKaarle Krohn(1863―1933)父子)らがいる。英訳で広く読まれているカッラスの作品『レイキの牧師』『テイゼンフッセンのバルバラ』はエストニアの作曲家トウビンE.Tubin(1905―1982)の手でオペラ化され、後者はヤーン・クロスJaan Kross(1920―2007)がそのテキスト化を手がけた。1940年以降のソ連時代にはさまざまな制約の下で、なかには亡命を余儀なくされるものも出てきた。が、以前からの彼らのよき理解者であったフリーデベルト・トゥクラスFriedebert Tuglas(1886―1971)は、引き続きペンクラブや作家同盟代表の重責を担いながら変わらぬ作家活動を行ってきた。

 また、大作『真実と正義』五部作や、己の「ファウスト」と名づけた『地獄農場の新しい昔の怪物』など、自らのペースで骨太の作品を世に送り続けた、アントン・タンムサーレAnton H. Tammsaare(1878―1945)、ドイツ人の侵攻と戦った歴史をテーマにした『ユメラ川のほとり』など歴史小説の分野でのマイト・メッツアヌルクMait Metsanurk(1879―1957)、ネオリアリズムの佳品で映画化もされた『春』など、さわやかな青春群像を描いたオスカル・ルッツOskar Luts(l887―1953)らの作品が生まれた。加えてフィンランド語で絵本になった『不思議な絵描き』など、エレン・ニートEllen Niit(1928―2016)の児童文学作品が注目を集めた。社会主義リアリズムを標榜(ひょうぼう)するこの時期、ロシア語で書かれて日本語訳も出された少年小説『緑の仮面』の作者ホルゲル・プックHolger Pukk(1920―1997)や、スターリン賞作家ユハン・スムールJuhan Smuul(1922―1971)などの名も知られている。

 かくして次の世代に人気を持続させつつ、内外での活発な創作活動を行い、杜甫(とほ)や李白(りはく)の訳詩集(この本の後半はラウトR. Raud(1961― )による古今集の抄訳)も出している行動的な詩人ヤーン・カプリンスキJaan Kaplinski(1941―2021)やルンモP. E. Rummo(1942― )ら、そして、かつて反体制作家の烙印(らくいん)を押されて流刑の憂き目をみながらも、着実に世界の注目を集めてきた現代作家ヤーン・クロス(『狂人と呼ばれた男』原題『皇帝の狂人』の邦訳が英語からの重訳で出ている)らの仕事ぶりもあって、体制のいかんにかかわらず、それぞれの時代をたくましく生き抜いてきたエストニア人の強靭(きょうじん)な文学精神が現代に息づいているのをみることができる。

 なお、日本との関係でいえば、早くに、エスペラント語から翻訳されたウンテルの詩や、雑誌論文などの中で、エストニアの文学作品が紹介された例は少なくないが、民話や昔話のほかに、まとまってエストニア語から翻訳されているものは少ない。一方、ラウトの日本古典詩歌の研究や翻訳のほか、タルトゥ大学で長らく教鞭(きょうべん)をとってきた日本語、中国語学者のヌルメクントPent Nurmekund(1906―1993)から指導を受けた人々が、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)、川端康成(かわばたやすなり)、三島由紀夫らの現代小説をエストニア語訳し、それらはすべて1970年代から出版されている。

[菊川 丞]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「エストニア」の意味・わかりやすい解説

エストニア
Estonia

正式名称 エストニア共和国 Eesti Vabariik。
面積 4万5336km2
人口 133万2000(2021推計)。
首都 タリン

バルト海に面するバルト3国のうち最北に位置する国。大陸部のほかサーレマ島をはじめとする島嶼部からなる。地形は全体に低平で,氷河作用を著しく受け,チュド湖など多くの湖がある。高緯度のわりには気候は温暖で,平均気温は2月-6~-5℃,7月 16~17℃。年降水量は 600~700mm。住民の 60%以上はエストニア人であり,ロシア人は3分の1近くを占める。公用語はエストニア語。 11~12世紀からデンマーク人,スウェーデン人によりキリスト教の布教が試みられ,13世紀初頭デンマーク王バルデマール2世に征服されたが,1346年ドイツ騎士団に売却された。 1558~1629年に順次スウェーデンの支配下に入ったのち,1721年ニスタットの和約によりロシアに割譲された。 19世紀末より民族意識が高まり,1918年独立。 1940年ソビエト連邦に編入され,エストニア=ソビエト社会主義共和国となった。旧ソ連で生産・生活水準の最も高い共和国の一つであったが,1990年3月独立を宣言し,1991年9月独立を達成して現国名となり,国際連合に加盟した。 2004年にはヨーロッパ連合 EU,北大西洋条約機構 NATOに加盟。オイルシェール (油母頁岩) やリン灰石などの地下資源に恵まれる。主要産業はオイルシェールの採取,加工で,コフトラヤルベでガス化され,パイプラインでタリンやロシアのサンクトペテルブルグに送られる。ほかに電子,ラジオ,造船,化学,セメント,ガラス,製紙,食品,繊維などの工業が発達。農業は畜産中心であるが,ライ麦,ジャガイモ,アマ (亜麻) などの栽培も行なわれる。鉄道,道路の路線密度は高く,海港タリンや空路により内外の各地と結ばれている。 (→エストニア史 )

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