パトリーツィ(英語表記)Francesco Patrizi

改訂新版 世界大百科事典 「パトリーツィ」の意味・わかりやすい解説

パトリーツィ
Francesco Patrizi
生没年:1529-97

ルネサンス・イタリアのプラトン主義哲学者。ダルマティアに生まれ,パドバ大学で医学,さらに哲学・文学を学ぶ。ベネチア海軍に従軍し,キプロス島の司政官となったが,1578年以後はフェラーラ大学で,92年以後は教皇に招かれてローマで,哲学を教授した。歴史・修辞学・哲学などについて多くの著述を残した。《修辞学論》(1562),《詩学論》(1582)は,当時の文学論の焦点となっていたアリストテレス詩学を論じ,そのミメーシス論をプラトン的な美のイデア論によって反駁し,有名となった。主著《新世界哲学》(1591)は,汎生命論的世界観を説く〈光の形而上学〉で,《愛の哲学》(執筆1577)とともにフィチーノの哲学を継承発展させた,ルネサンスの典型的世界観である汎心論を代表する作品である。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のパトリーツィの言及

【オランダ領東インド】より

…この制度はオランダの人道主義者たちの非難を受け,コーヒーを除いて70年に廃止された。 オランダの支配に対する原住民の抵抗は各地で頻発し,強制栽培制度実施以前にも1825‐30年,ジョクジャカルタ王族の一人ディポネゴロの指導する反乱が起こり,また西スマトラでは同じころイマーム・ボンジョールの率いるミナンカバウ・イスラム教徒の反乱(パドリ戦争)があり,37年にようやく鎮圧された。さらに73年から1912年にかけて,スマトラ北端のアチェ王国に起こったアチェ戦争はオランダ軍多数の投入を必要とし,東インド最大の戦争と言われた。…

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