翻訳|Roma
イタリア半島の中央部,現在のイタリア,テベレ河畔に都市国家として興り,のち世界史上未曾有の大帝国を築いた古代国家。
歴史上に現れた多くの国家や帝国のなかで,ローマは特別の世界史的位置を占めている。それは,ローマについていわれてきた二つの諺,〈ローマは一日にして成らず〉と〈すべての道はローマに通ず〉が象徴的に表しているように,世界史上まれにみる長年月の間に大帝国を建設し,かつそれをこれまた比類のない長い年月の間維持発展させることができたという事実,またローマを中心に帝国各地に放射し辺境から人間や物資をローマに運んだローマの公道のように,これ以前の先進文明を吸収し,それを次代の諸世界へとそれぞれ伝えていったというもう一つの事実が,ローマの世界史的位置を端的に物語っている。
紀元前をさかのぼること数百年も前に小さな集落をつくっていたローマ人は,後2世紀初めには今の東西ヨーロッパのほとんどと中近東,北アフリカとイギリスの大部分を領土とする大帝国となっていた。その領土となった地方を今の国名(地名)で挙げれば,イタリア,スイス,フランス,スペイン,ルクセンブルク,ベルギー,オランダ,ドイツ南部,リヒテンシュタイン,オーストリア,イングランド,ウェールズ,ハンガリー西部,ユーゴスラビア,ルーマニア,ブルガリア,アルバニア,ギリシア,アゾフ海周辺,地中海の島々,モロッコ,アルジェリア北部,チュニジア,リビア,エジプト,トルコ,シリア,イスラエル,レバノン,ヨルダン,イラクおよびイランの一部,カフカス,という長いリストになる。ローマはこれらの地方と諸民族を単にその支配下に置いただけでなく,それを一つの交易圏としてまとめ上げ,長い年月の間に,当初の〈ローマ人〉の〈支配〉を,〈すべての人々〉をローマ人として同化する政策へと高め,〈地中海世界〉と呼ばれる,一つの歴史的〈世界〉をつくり出した。
地中海世界は,古代オリエント文明,ギリシア文明,ラテン・ローマ文明などの高度先進文明から,いまだ金石併用的技術水準にある種族までを含む,発展度の異なる諸民族によって構成される広大な地域(ローマ滅亡後,ローマが統一した世界は再び一つの政治的統合を与えられることはなかった)を包括したという点で,全地球を覆う現代世界と多くの構造的類似性をもっている。その意味で,ローマ帝国と〈ローマの平和〉,それによってつくり出された地中海世界は,現代世界における支配と平和を考えるために絶好の思考実験の場であり,その点に現代におけるローマの世界史的意味がある。
以下においては,ローマの歴史をいわゆる西ローマ帝国の滅亡の時点まで概観するとともに,国家および社会・文化の諸相を個別的主題の下に眺めることとする。西ローマ帝国滅亡後の歴史については〈ビザンティン帝国〉の項目を,神話,文学,美術,演劇などについてはそれぞれ,〈ローマ神話〉〈ラテン文学〉〈ローマ美術〉〈ローマ演劇〉などの諸項目を参照されたい。
ローマが姿を現すはるか以前から,イタリア半島にはテラマーレ,アペニノと呼ばれる青銅器文化(テラマーレ文化)があり,これらを吸収してやがてビラノーバと呼ばれる鉄器文化(ビラノーバ文化)が生まれた。前8世紀ころには南部にギリシア人の植民が始まり,同じころ中北部にエトルリア人が移住してきた。その後から移住してきたインド・ヨーロッパ語系諸族には,ウンブリア人,サベリ人などの一群と,ラテン人との2派があった。ラテン人はラティウムの各地の丘陵の上などに定住し,相互に同族感情をもち,おそらくは同盟を結んでいた。これらの集落の一つがローマで,伝承ではアルバ・ロンガのラテン人によって建設されたという。ローマの占拠した土地が海にもイタリア中部にも近い地理的条件をもち,塩の道をも制していたことなどのため,ローマはしだいに近隣の集落より強力となり,前6世紀の初めまでに近隣7丘(ローマ七丘)の集落が合体して都市(ウルプス,ポリス)を形成した。考古学的証拠を総合すると前575年より以後ではないと考えられている。
この最初期の歴史については,考古学的証拠を除いては数百年後の歴史家や年代記作家,それに若干の史料(法律,条約,暦),大家族内の伝承が残存していないので,確実なことはわからない。そのうえローマ人は民族的誇りから自民族の歴史をギリシアの神話と結びつける傾向が強く,そこからトロイア起源説とアエネアス伝説がつくり出された。それによるとアエネアスの子孫のロムルスとレムスという双子の兄弟の前者が初代の王となり,これに続いて,ヌマ・ポンピリウス,トゥルス・ホスティリウス,アンクス・マルキウス,タルクイニウス・プリスクス,セルウィウス・トゥリウスおよびタルクイニウス・スペルブスの6人の王が立ったという(ローマ七王)。伝説はローマの建設を,前814,前753,前751,前748,前729年などと伝えている。この王政時代にはまもなくエトルリアの勢力下に入り,タルクイニウスという王の名前はエトルリア人であることを示している。最近考古学者のイェルシュタードE.Gjerstadはエトルリア支配を前530-前450年に下げ,またかつてアルフェルディA.Alföldiもこの時期の伝承を前5世紀のものとみたなど,年代決定には次々と新説が出されるが,いずれも主流にはなっていない。
→エトルリア
伝承から推定される王政時代の国制としては,王rexを補佐する元老院があり,それは有力氏族の長(父たちpatres)によって構成された。王の権力は独裁的でなく〈平等者中の第一人者〉的なものであったとみられる。人民は氏族を基礎としてティティエス,ラムネス,ルケレスの3部族(トリブス)に分かれ,各トリブスは10クリアcuriaから成っていた。1クリアは100人の歩兵,10人の騎兵を提供した。各トリブスの歩兵隊長tribunus militumと騎兵隊長tribunus celerumは政治的にも重要であった。重要な国事や個々の氏族の裁量を超える問題はクリア民会comitia curiata(民会)で決められた。伝承によるとセルウィウス・トゥリウス王が新しい国制を導入したことになっているが,今伝えられているものは後代の発展した形のものであると思われるので,後述に回す。
最後の王タルクイニウス・スペルブスが専横化すると,ローマ人はこの王を追放し(前510),共和政を始めた。初めの250年は貴族(パトリキ)と平民(プレブス)の両身分間の争いと,ローマの近隣諸種族との戦争によって特徴づけられる。貴族と平民の区別が,いつどのようにして始まったか明らかではないが,共和政に入ったころから貴族はその身分を閉鎖し自らを特権化したので,これに対して平民の反発が起こった。平民の中の有力者は貴族との同権化を欲し,貧民は土地と,貴族の政務官(マギストラトゥスmagistratus)の横暴からの安全と自由などを求め,平民は大挙してローマ市から退去して近くの聖山(モンス・サケル)に立てこもった。貴族は譲歩し,その結果平民の権利を守る護民官と市場管理官(アエディレスaediles)の2役と,平民だけの集会(平民会。コンキリウム・プレビスconcilium plebis)の設置を認めた。王を追放した後の共和政は,民会と民会で選出される任期1年の2人の貴族の政務官と,元老院とを3本の柱とした。政務官は民会で命令権imperiumを与えられた国家全体の役人であるのに,護民官やアエディレスは政務官ではない点で劣ったが,平民はこのとき以後しだいに国政に発言力を強めていった。2人の政務官はまもなくコンスル(執政官)と呼ばれるようになる。
民会については,セルウィウス・トゥリウス王の改革とされる兵員会(ケントゥリア会comitia centuriata)が伝えられるが,これは前5世紀前半につくられたものであろう(ケントゥリア)。ケントゥリア会は市民団の新しい編制を基礎とした。すなわち,伝承によると全市民は財産評価に従って騎士(貴族)と歩兵に分けられ,騎士は18ケントゥリア(百人隊)に編制され,歩兵はさらに財産評価に応じて5級(クラシス)に区分され,第1級は80ケントゥリアに,第2,3,4級はいずれも20ケントゥリアに,第5級は30ケントゥリアに編制される。このほか工兵2ケントゥリア,器楽兵2ケントゥリア,等級以下1ケントゥリアがあり,総計193ケントゥリアであった。兵員会はこの部隊編制別で集まり,各ケントゥリアが1票をもって投票をする一方で,武装の仕方も級ごとに定められ,第1級が重装歩兵で出陣する富裕農民であった。第1級80票と騎士18票で98票となり,これだけで193票の過半を制したから,この民会は貴族と平民上層が国政を動かしていたことを示している。
セルウィウス・トゥリウス王の事業とされるもので,実は同じく前5世紀前半のものとみられている重要な改革に,旧来の氏族を基礎にした3トリブスを廃して地域を基礎にした新しいトリブス(区)制を設置した改革がある。市域4区のほかは農村区で,はじめはおそらく20区であったものが,前241年に35区に拡大された(以後トリブスの増加はない)。ローマ市民はすべていずれかの区民として登録され,財産に従っていずれかのケントゥリアに属した。民会は兵員会のほかに,同じ全市民民会でトリブス単位で2票(若者組と老年組が各1票)を投ずるトリブス(区)民会があった。
平民はこの両民会に出席するほか,平民会をも国家全体を拘束する決議機関とすることを目ざし,前287年のホルテンシウス法によってこれを達成した。この法律で貴族と平民の間の身分闘争は終結したが,それまでに十二表法の制定(前451-前450)やさまざまな法律によって平民の立場はしだいに上がってきていた。とくに前367年のリキニウス=セクスティウス法は重要で,この法によってこれ以後2人のコンスルの1人は必ず平民たることとされ,平民に最高の政務官への道が開かれたのであった。しかし実際にコンスルに就任したのは平民の最上層の家柄に限られ,これ以後は旧来の貴族ではなく,コンスルを出す平民の最上層と貴族から成る名門(ノビリス)という新しい支配層が共和政末期までローマの政治を支配した。前366年にはプラエトル(法務官)という新しい政務官が設置されたが,平民は前337年これへの就任も許された。また前351年にはケンソル(戸口調査官)に就任を許されていた。
このように身分闘争において貴族が譲歩し続けたのは,この時期の近隣諸種族との戦争のゆえであった。前5世紀には北方のエトルリアの圧迫は続き,ラテン諸都市との戦争もあり,他方サビニ人,アエクイ族,ウォルスキ族など東方の山地帯に拠る諸種族のラティウム平原地帯への進出と戦わねばならなかった。世紀末にはこれらを押し返し,前396年には最強のエトルリア都市ウェイイを攻略した。ウォルスキ族との戦いでは英雄コリオラヌスの悲劇的伝説が生まれ,アエクイ族との戦いでは16日間だけ独裁官(ディクタトル)となって敵を破り,直ちにもとの農民の生活に戻ったというキンキンナトゥスLucius Quinctius Cincinnatusの物語が伝えられている。前387年には北からケルト人がイタリアに侵入,カピトルの丘を除くローマ市を放火略奪した。
これらの惨事から生じた国内の対立を前367年の法律で解決した後,ローマはラテン諸都市との全面戦争に入るが,前338年これを抑え,ラティウムを勢力下に入れた。その平定の仕方は,ラテン諸都市に,ローマの民会で投票権を行使しうる完全なローマ市民権を与え,非ラテン系の諸市には,投票権は欠くが,ローマ人と対等の通婚・通商権をもつ不完全なローマ市民権を与え,その他の都市を同盟市とするというもので,こうした等級づけられた市民権の付与と同盟関係の網の目による統合は,後の〈帝国〉の支配構造の原型をなすものであった。
ラティウムの平定後まもなく,前326年より前275年まで数次にわたって南東の山地種族サムニテス(サムニウム人)と激しく戦い,北東部のピケネス族,マルシ族,ウンブリアの諸都市と同盟を結んだ。サムニテスの服属後,南部に進出し,タレントゥムと戦い,後者の救援に遠征してきたエペイロス王ピュロスを敗退させた(前275)。こうしてローマは北部のガリア・キサルピナを除いたイタリアを制覇し,プトレマイオス王国と友好条約を結ぶ(前273)など,ギリシア世界と直接関係をもつまでになった。イタリア制覇はラティウム制覇の場合と同様な市民権政策に加え,新獲得地への植民により成し遂げられた。植民市(コロニア)はローマ市民権かラテン市民権(投票権なきローマ市民権)を与えられ,土着民(サムニテスも含め)も土地とローマ市民権を与えられた。
西地中海の雄となったローマは,カルタゴ,東部のヘレニズム諸王国,スペイン(ヒスパニア)などとの衝突と戦争の時代に入る。まずカルタゴとは3次にわたるポエニ戦争(前264-前241,前218-前201,前149-前146)を戦い,これを徹底的に破壊した。この間にローマは初めて海外に属州を獲得した。シチリア(前241),サルディニア(前238),スペイン(前197),アフリカ(前146)がそれである。一方イタリア北部に対しても,ボイイ族(前224-前220),インスブレス族(前200-前191)を破ってガリア・キサルピナを確保し,リグリア族(前197-前154),ヒストリア族(前178-前177),およびダルマティア海岸(前156-前155,前129)を制圧,マッシリア(現,マルセイユ)からバルカン半島西岸に至る一帯を勢力下に入れた。
他方東部地中海に向かっては,アドリア海の海賊撲滅に続き,イリュリクム王国と2度の戦争(前229-前228,前219)でこれを破ってイリュリクム海岸を勢力下に入れ,カルタゴの将軍ハンニバルの同盟者マケドニアの王フィリッポス5世と戦い(第1次マケドニア戦争。前214-前205),これを制し,マケドニアの勢力回復におびえたロドスとペルガモンの求めに応じてローマは第2次マケドニア戦争(前200-前196)に踏み切り,将軍フラミニヌスはテルモピュライでマケドニア軍を破った。続いて,ハンニバルがそのもとに亡命していたシリア王国のアンティオコス3世と戦争に入り(前192-前189),これをマグネシアの地で破った。この戦争でローマは初めてアシア(小アジア)に軍を進めたが,戦後処理においては領土的関心を示さず,シリアの領有した小アジアの領土はすべてペルガモンとロドスに与えられた。
次のマケドニア王ペルセウスの挑戦にこたえて,ローマは第3次マケドニア戦争(前171-前167)に入り,ピュドナの戦(前168)に勝利した。戦後処理においてローマの政策は一転して硬化し,マケドニア側についた諸都市に課税し,なかでもアカイア同盟から1000人の人質をローマに送らせ,エペイロスでは15万人の住民を奴隷とし,さらに,起こった抵抗運動を鎮圧して,前147年マケドニアを属州とし,前146年コリントスを完全破壊し,全住民を奴隷に売った。こうして樹立された東地中海におけるローマの圧倒的優位を前にして,ペルガモン王アッタロス3世は,その死に当たって王国をローマに遺贈し(前133),その遺領は前129年ローマの属州とされた。
海外領の獲得と支配はローマ自体の社会を変質させた。海外領からの徴税を請け負った騎士身分の金持ちや,属州総督になった元老院議員身分は,ますます富裕となり私腹を肥やした。兵士として長期間出陣した農民は農地経営に行き詰まり,彼らの土地を元老院議員や騎士が買い集めた。こうして生まれた大土地所有では,大量の奴隷を使ってオリーブ,ブドウなど商品作物の生産を行い,牧畜が拡大した。家庭内でも奴隷は増加し,奴隷制は最盛期を迎えた。土地を失った貧民は大都市とくにローマに集まり,国家の扶養に頼る遊民と化した。一方,有産者のぜいたくはひどくなり,女性は自由となり,ヘレニズム文化が流入して往年の質朴な農民的気風は薄れていった。こうした社会的変質はローマ軍の弱体化となって現れ,そのことはとくにスペイン戦線で深刻な形をとった。ここでは長くケルト・イベリア(ケルティベリア)族やルシタニア族の反抗に惨敗を喫し続けたが,ヌマンティアの攻略(ヌマンティアの戦。前133)をもってようやく終止符が打たれた。リグリア族,アロブロゲス族,アルウェルニ族の制圧(前125-前121)以後,南ガリアもローマの属州となった。
海外領支配によるローマ社会そのものの変質と,ローマ軍の弱体化という深刻な問題を解決すべく,グラックス兄弟(兄ティベリウス,弟ガイウス)は相次いで護民官となり(兄は前133,弟は前123),土地の再分配政策を掲げて改革運動を行ったが,いずれも反対派によって殺された。このためローマは,北アフリカではヌミディア王ユグルタとの戦争(前112-前105)に苦戦し,ゲルマン人のテウトニ族,キンブリ族の侵入の前にも相次いで敗れ(前114,前113),ついに前105年アラウシオの戦でキンブリ軍のために全滅した。名門出身ではない新人のマリウスは将軍となってユグルタを降し,また,貧民から志願兵を徴募するという兵制改革を行ってゲルマン人を敗退させることに成功した(前102,前101)。
この時期には地中海地方各地で奴隷反乱が続発した。ことに前130年代にはアテナイ,デロス,ペルガモン,シチリアでほとんど同時に起こった。シチリアのそれは2回にわたって(前139-前131,前104-前99)本格的奴隷戦争となり,一時は奴隷の王国が生まれ,イタリア半島でも剣闘士奴隷スパルタクスを首領とする蜂起(前73-前71)は一時4万の軍勢を集め,いずれもローマ正規軍によってかろうじて鎮圧された。これらはローマの海外領支配の悪しき結果であったが,ローマの征服戦争に力を貸したイタリア半島内の同盟諸市はローマの利己的政策に怒り,これまた蜂起した(前91-前87)。この同盟市戦争は,ポー川以南の全イタリアへのローマ市民権付与によって鎮まった。こうして,これ以後イタリア人はすべてローマ市民となり,ここに旧来の都市国家としてのローマは形態上終りを告げた。
今やローマの国家構造と支配の一大変革期であった。この変革期を乗り切るために,ローマの支配層は,民会を基礎にして政治を動かそうとする民衆派(ポプラレス)と,元老院の権威を背景に事を進めようとする閥族派(オプティマテス)に分かれて,権力闘争を繰り広げた。こうして,マリウス派を一掃して殺戮し恐怖政治を敷いた閥族派スラ,スラの外征中に一時政権を握った民衆派のキンナ,スラの死(前78)後,再び民衆派路線に復帰した,かつてのスラの領袖ポンペイウスとクラッスス,そして再び元老院に接近したポンペイウスを倒すカエサルらが相次いで現れた。
彼らは権力闘争に勝つための権力基盤を外征にも求めたため,この時期にはかえってローマの支配領域は拡大した。ポントス王ミトリダテス6世に対してはスラがカイロネイアの戦(前86)でこれを破り,ついでポンペイウスは前63年ミトリダテスを攻めてこれを自殺に追い込んだ。この間にガリア・キサルピナ,ビテュニア,キリキア,クレタ,キュレネが相次いでローマの属州として組織されるとともに,前64年シリアもポンペイウスによって属州とされ,アルメニア,アラビアの一部までローマの勢力下に入れられた。
カエサルは初めポンペイウス,クラッススと私的な政治的同盟(第1次三頭政治。前60)を結び,それに基づいて前58年より前50年までガリアに滞在し,そこのケルト人諸族を鎮圧してこれを属州とし,ライン川,イギリス海峡までローマの支配領を拡大した。三頭政治はルカの会談(前56)によって延長されたが,クラッススがパルティア遠征に失敗してカラエで戦死(前53)すると,閥族派に傾いたポンペイウスとカエサルとの間に内戦が勃発した。カエサルはまずスペインのイレルダでポンペイウス軍を破り,次いでポンペイウス自身をギリシアのファルサロスで破った(ファルサロスの戦。前48)。カエサルの勝利は小アジアのゼラ(前47),アフリカのタプソス(前46),スペインのムンダ(前45)と続く。ファルサロスの戦の後エジプトに逃げたポンペイウスは,その地に上陸前に殺され,彼を追って来たカエサルはプトレマイオス王国の女王クレオパトラ(7世)を保護下に置き,エジプトをもローマの勢力下に置いた。
こうしてカエサルはローマの唯一の権力者として残ったが,彼が独裁的傾向を強め,王位への野望もみせたので,カッシウス,ブルトゥスらの共和主義者は前44年3月15日彼を元老院議場で暗殺した。
カエサルの甥で遺言により養子・相続人となったオクタウィアヌスはカエサルの領袖アントニウスと結んで公式に国家再建三人委員(いわゆる第2次三頭政治)に就き(前43),カエサルを暗殺した共和主義者の軍隊をフィリッピの戦(前42)で破った。レピドゥスはポンペイウスの息子セクストゥスの征討に功があったが,やがて失脚し,オクタウィアヌスとアントニウスの両雄が残った。アントニウスはクレオパトラと結婚し帝国の東半分を私したので,オクタウィアヌスは西半分の軍勢を率い,アクティウムの海戦(前31)でアントニウス=クレオパトラ連合軍を敗走させた。翌前30年のアントニウス,クレオパトラの自殺で,内乱は終わり,オクタウィアヌスのみが残った。
以上のような政治的混乱期は,ラテン文学の盛期でもあった。前63年のコンスルであったキケロをはじめ,ルクレティウス,カトゥルス,カエサル,ウァロ,サルスティウスら多くの文人が輩出した。
オクタウィアヌスはこのようにして事実上の一人支配を確立したが,カエサルの先例に学んで,一人支配を国制に定着させることにはきわめて慎重な態度をとった。彼が用いた方法は,皇帝とか王位に就くことなく,伝統的な共和政的官職の職権を官職から抽象化し,官職に就任することなく多くの職権を一手に集めることであった。そのような職権として彼の権力の法的基礎として重視されたものは,護民官職権,プロコンスル大命令権(いずれも前23),コンスル命令権(前19)であった。前27年の元老院会議で,帝国の全属州が元老院と彼との間で分掌されることが決められた。元老院管轄の属州へは元老院議員が総督となって派遣され,彼の管轄する属州は彼が本来の総督であるたてまえの下に彼の使節が派遣された。この分掌の結果,その大部分が彼の属州に駐屯する軍隊の指揮権をも彼は握ることになった。同年元老院は彼に〈アウグストゥス〉の尊称を与えた。彼自身は自らの地位をプリンケプス(〈第一人者〉)と呼んだ(そのため彼の始めた国制をプリンキパトゥスと呼び元首政と訳される)が,このような彼の地位は〈皇帝〉の名にふさわしいので,われわれは彼を皇帝と呼び,ここにローマは帝政期に入ったとみるのである。
一般的には共和政期の官制がそのまま続いたが,彼の周囲には皇帝顧問会(コンシリウム・プリンキピスconsilium principis)が置かれ,新たに親衛隊長(プラエフェクトゥス・プラエトリオpraefectus praetorio)などの官職がつくられた。ローマ市には消防隊,水道管理官,食糧管理官が置かれ,新しい建造物(例えば〈平和の祭壇(アラ・パキス)〉,アウグストゥス広場など)も建てられて,帝国の首都にふさわしいものに生まれ変わった。アウグストゥスはまた,貴族の結婚と出産・育児を奨励し,風紀の立直し,古来の国家宗教の復興を図った。この時期,ラテン文学も頂点に達し,ウェルギリウス,ホラティウス,リウィウスらは文筆を通してアウグストゥスをたたえた。
彼は征服戦争を極力避けたが,北方ではドナウ川まで国境を広げ,ラエティア,ノリクム,パンノニア,モエシアなどの諸属州を置いてバルカン半島を北部に対して守った。しかしライン国境をエルベ川まで広げる企図は,ウァルスの率いる軍団がトイトブルクの戦(後9)でアルミニウスの率いるゲルマン人に全滅させられたことによって挫折した。東部ではパルティアと和解し,ガラティア(前23),ユダヤ(後6)を属州化し,スペインも最終的に平定された。属州統治においてはとくに西部では旧来の都市同盟(コイノン)を属州会議(コンキリウム・プロウィンキアエconcilium provinciae)として利用し,皇帝礼拝を許可して帝国の統一を図った。
続く皇帝ティベリウス(在位,後14-37),カリグラ(在位37-41),クラウディウス1世(在位41-54),ネロ(在位54-68)は,アウグストゥスのユリウス家と,妻リウィアのクラウディウス家の枠内で帝位が移ったのでユリウス=クラウディウス朝と呼ばれる。ティベリウスは元老院との協調性において欠けるところがあり,親衛隊長セイアヌスの専断のゆえもあって,政治的密告と恐怖政治が続いた。カリグラは狂的に独裁的傾向を強め,プリンキパトゥスが潜在的帝政にほかならないことを露呈した。クラウディウスは自己の解放奴隷を用いて直属の文官による官僚制の整備に努め,他方ローマ市民権を属州民に多く与え,帝国のローマ化を進めた。この間に,カッパドキア(17),マウレタニア(42),ブリタニア(43),リュキア(43),トラキア(46)が属州として加えられた。ネロはその治世の初めは哲学者セネカや親衛隊長ブルスの指導の下に善政を敷いたが,やがて独裁的となり,ガリアでのウィンデクス,スペインでのガルバら,将軍の反乱のなかで自殺した。この間,ブリタニアではボウディッカBoudicca王の反乱があり,第1次ユダヤ戦争下(66-70)の大反乱があった。
ウィンデクスとガルバに続いてオトー,ウィテリウスがそれぞれ軍隊によって皇帝に擁立されて,69年は〈四帝年〉となった。この一連の事件は,皇帝がローマ以外の地で,しかも属州駐屯の軍隊の意思で擁立されることを示したが,彼らは元老院による承認を必要とするということは認めていた。しかし結局ユダヤ戦争を戦っていたウェスパシアヌスが部下の軍隊とパンノニア軍に擁立されて正式に帝位に就いた。彼はエルサレムを攻略し,他方四帝並立のすきに蜂起していたライン地方のキウィリスGaius Julius Civilisの反乱,ガリアのクラッシクスJulius Classicusの独立運動も破砕された。こうして内乱鎮圧者として〈世界の再建者(レスティトゥトル・オルビスrestitutor orbis)〉として権力を確立したウェスパシアヌスは,自分(在位69-79)と2人の息子,ティトゥス(在位79-81)とドミティアヌス(在位81-96)の帝位を確立し,フラウィウス朝を開いた。
この王朝の下で皇帝はしだいに絶対主義的になった。それは,皇帝のみがケンソル職を独占したり,何度もコンスル職に選ばれたり,ドミティアヌスが自分を〈主にして神〉と呼ばせたりしたことに表れている。他方,元老院にはしだいに多くの属州出身者が入り,全帝国の代表たるの性格をもつに至ったが,皇帝は元老院を軽視し,むしろ皇帝顧問会を重用した。前代の解放奴隷の皇帝役人は騎士身分の役人に替えられた。ウェスパシアヌスは国庫を豊かにしたので2人の息子の浪費をもちこたえることができた。国境では,ラインとドナウの線を長城(リメス)によって固め,ブリタニアではスコットランドにまで征服を進めた。しかしドミティアヌスの専制的傾向はストア学派などの哲学者の批判を呼び,元老院と対立し,密告と反逆罪処刑との連続という恐怖政治の中で暗殺された。
そのあと老齢のネルウァが元老院に推されて帝位に就いた。この登極の経緯から彼は軍隊の統制に難渋したため,後継帝として兵士出身のトラヤヌスを指名し,養子として採用した。トラヤヌスも,続く3人の皇帝も息子がなかったため,後継帝をあらかじめ指名して養子としたので,ネルウァ(在位96-98),トラヤヌス(在位98-117),ハドリアヌス(在位117-138),アントニヌス・ピウス(在位138-161),マルクス・アウレリウス(在位161-180)の5代の養子皇帝時代が続いた。これをアントニヌス朝というが,彼らは〈五賢帝〉と名づけられ,E.ギボンによって〈人類の最も幸福な時代〉と褒めたたえられた。その能力について証明済みの人物のみが帝位に就いたこと,スペイン出身のトラヤヌスやハドリアヌスのように属州出身者が帝位に就いたこと,などが安定の重要な条件であった。ストア哲学者マルクス・アウレリウスは,即位とともに強い義務感から帝国の危機の重荷を自らに引き受けたが,すでに絶頂の時代は過ぎつつあった。彼が治世当初ウェルス(在位161-169)と共同統治したことは,のちに一般的となる帝国分治の初めての先例であった。彼の治下,北部国境が危機に陥り,全国にわたるペストの流行で人口が大減少したことは帝国衰退の予徴であった。彼が暗愚な息子コンモドゥス(在位180-193)を後継帝とし,養子制を廃したことは一時代の終焉を確実なものとした。
アントニヌス・ピウス時代を通じて元老院と皇帝との関係は良好であったが,それは元老院が往年の権力を回復したことを意味せず,むしろ皇帝が皇帝顧問会を背景に発する〈勅法〉が立法の最重要形態となった。すでに69年を最後として民会が立法した記録は残っていない。元老院議決は立法の形態としてなお重要であったが,その重要なものの大部分は皇帝の提案によるものであった。帝国の財政は比較的豊かで,アリメンタalimenta,コンギアリアcongiariaなど農民の子弟の教育費を支出する制度を多くの町に対して導入した。
属州においては村落の都市化や都市へのローマ的制度・外観などの導入など〈ローマ化〉が進んだ。帝国の繁栄とは属州諸都市の繁栄で,都市参事会員(デクリオネス)を務める大地主層の経済的負担で都市の行政や美化が進められたが,そのため都市財政が悪化するものも現れた。皇帝が属州都市の繁栄に精力を注いでいるさまは,トラヤヌスとビテュニア総督小プリニウスとの間の125通に上る往復書簡や,〈旅行皇帝〉といわれたハドリアヌスの努力から十分に知られる。属州出身の皇帝が属州人へのローマ市民権付与に積極的であったことはいうまでもない。
アントニヌス朝時代を通じ,トラヤヌス治下を除いては領土の拡大はほとんどなかった。彼は2回のダキア戦争(101-102,105-106)によってデケバルス王を破りダキアを属州に加えた。東部では彼はアラビア(ナバテア)を加え,ペルシアからアルメニア,メソポタミア,アッシリアの諸州を奪って国境をユーフラテス川の東にまで広げたが,次のハドリアヌスは征服政策を捨てユーフラテス川の線にまで後退した。東部ではさらにユダヤ人が反乱を起こし(116),それはすぐ鎮圧されたが,132-135年,第2次ユダヤ戦争が起こり,反乱軍殲滅後破壊されたエルサレムのあとにローマ市民植民市アエリア・カピトリナが建設され,ユダヤ人はすべてエルサレムから追放された。ブリタニアではスコットランドが放棄され,国境に〈ハドリアヌスの壁〉(122-127),次いでさらに前進した線に〈アントニヌスの城壁〉(142-143)がつくられた。北部ではドナウ諸属州にマルコマンニ族,クアディ族らのゲルマン人が侵入し北イタリアにまで達した。マルクス・アウレリウスはこれと戦い,カルパティア,ベーメン山地帯まで国境を押し戻す計画を立てたが,コンモドゥスはこの計画を放棄した。ゲルマニアではリメスが強化され,ゲルマニア,パンノニア,ダキア各州はそれぞれ2または3州に分割されて防衛の密度を濃くした。
一方,ハドリアヌスの軍制改革は,軍団(レギオregio。ローマの正規軍でローマ市民より成る)駐屯地での徴募制を導入したため,軍団は駐屯地との結びつきを密にし属州的性格のものとなった。しかし親衛隊のみはイタリアで徴募したのでラテン的伝統を保持した。
この時代,帝国内の平和と道路網の発達によって経済活動は最高潮を迎え,属州の農業や手工業はイタリアを凌駕するまでになった。遠隔地貿易も栄え,スカンジナビア,中国,インド洋を通って極東方面にまで商品は流通した。属州の軍団駐屯地の近くにはカナバエcanabae(商人集落)が生まれ,それらはしばらくして都市に成長した。各都市に学校や図書館が設置され,ラテン文学は〈白銀時代〉を謳歌した。マルティアリス,ユウェナリス,タキトゥス,スエトニウス,クインティリアヌスらの作品は今も残っている。このほかキリスト教護教文学という新しいジャンルも現れ,法律学も盛期に入った。キリスト教は小アジア諸都市のほか,イタリア,アフリカ,ガリアにも浸透し,土着宗教を信じる民衆によってしばしば迫害され,殉教者を出した。ギリシア・ラテン両言語を公用語とするローマ帝国は,この時代にこの両言語を中心に最も高度の文化的統一に近づいた。
元老院と対立し,正常な神経を失っていったコンモドゥスの殺害(193)をもって,帝国の様相は一変した。元老院の立てた皇帝ペルティナクスは親衛隊に殺され,各地の軍隊は69年の〈四帝年〉のときのように,次々と皇帝を挙げた。ブリタニアでクロディウス・アルビヌス,シリアでペスケンニウス・ニゲル,そしてパンノニアでセプティミウス・セウェルスが挙げられ,このうちセプティミウス・セウェルスがローマを占領して競争者を倒し,セウェルス朝の開祖となった。彼の統治(193-211)は,軍隊にのみ基礎を置く軍事政権で,元老院はほとんど無視した。なかでも従来のイタリア人から成る親衛隊を解散し,パンノニア兵から成る新しい親衛隊を創設し,隊長に絶対の権力を与えた。他面,国境の守りは固められ,属州統治はよりきめ細かく定められた。スコットランドの領有は無理とみてそこからすべての軍を引き上げた。彼の息子カラカラ(在位211-217)は父の政策を受け継ぐとともに,212年帝国の全自由民にローマ市民権を与える勅法(カラカラ帝告示)を発して,従来のイタリア人と属州人との支配・被支配の関係をなくした。しかし,アラマンニ族とゴート族はドナウ国境を脅かしていた。次のマクリヌスの短い在位(217-218)のあと即位したエラガバルス(在位218-222)は,エメサの世襲的太陽神神官で,ローマに二つの太陽神神殿を建立した。次のセウェルス・アレクサンデル(在位222-235)は元老院に接近し,つかのまの平和をもたらしたが,結局彼も兵士によって殺された。セプティミウス・セウェルスの妻ユリア・ドムナがエラガバルスの祖母ユリア・マエサの姉であり,セウェルス・アレクサンデルの母ユリア・ママエアはユリア・マエサの娘であった。彼女らはこの王朝の政治に口出しする実質的な支配者であった。
セウェルス・アレクサンデル殺害後,めまぐるしく皇帝が交替する。すべて軍隊によって擁立された軍人なので,284年までの内外の混乱期を〈軍人皇帝時代〉と呼ぶ。トラキア人マクシミヌス(在位235-238),ゴルディアヌス1世,同2世,プピエヌス,バルビヌス(在位238),ゴルディアヌス3世(在位238-244),フィリップス・アラブス(在位244-249),デキウス(在位249-251),トレボニアヌス・ガルス(在位251-253),アエミリアヌス(在位253),ウァレリアヌス(在位253-260)と続く。
この間に国境は各方面とも危機的であった。東部ではアルサケス朝パルティアに代わったササン朝が攻勢に出てシリアを席巻し,皇帝ウァレリアヌスを捕虜として(260),小アジアに攻め込んだ。これをくいとめたのは隊商都市パルミュラであったが,その女王ゼノビアはやがて反ローマに立つ。西部ではローマの将軍ポストゥムスが独立の〈ガリア人の帝国〉をつくり,ブリタニアとスペインも輩下に入れる。フランク族はライン川下流を脅かし,ゴート族はバルカン半島からエーゲ海方面を荒らし,アラマンニ族もラインを渡り,北イタリアを劫掠してラベンナに達した。
ウァレリアヌスの息子ガリエヌス(253-268)の治下にも各地に異民族の侵入が続き,《ヒストリア・アウグスタ(皇帝伝)》で〈三十人僭主〉と呼ばれる多くの帝位僭称者が現れたが,彼は軍隊を騎兵中心の機動軍を中核にすえるものにつくりかえ,危機のどん底からようやくはい上がった。彼にイリュリクム出身の皇帝が続き帝国再建の努力を続ける。ゴート族を退けたクラウディウス2世(在位268-270)に続いて,アウレリアヌス(在位270-275)はダキアを放棄したがパルミュラを破壊して女王ゼノビアを捕虜とし(273),ガリアを回復し,ローマに〈アウレリアヌスの城壁〉を築いて首都の守りを固めた。彼はシリアの太陽神の加護によってパルミュラ戦に勝利したと信じて,エラガバルスのあとローマ市から戻されていた太陽神の神体を再びローマに運び国家神とした。次のタキトゥス(在位275-276)は小アジアでゴート族を破り,プロブス(在位276-282)は北部国境の守りを固め,カルス(在位282-283)はメソポタミアに侵入した。283年にはさらにカリヌス(在位283-285),ヌメリアヌス(在位283-284)が立ったが,ディオクレティアヌス(在位284-305)の即位をもって,混乱の軍人皇帝時代は終わる。
ディオクレティアヌスは統治と防衛をより効果的なものにするために,帝国を4分割し,自分とマクシミアヌスの2人を正帝とし,ガレリウスとコンスタンティウスを副帝とする四分治制(テトラルキア)を敷いた。彼の自発的退位(305)に際して再び起こった内乱のなかからコンスタンティヌス1世とリキニウスが勝ち残り,再度(313,314)の内戦ののちコンスタンティヌス1世が単独皇帝として残った(在位306-337)。すでにディオクレティアヌスは首都をニコメディアに移していたが,コンスタンティヌス1世はビュザンティオンの地に新首都コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス。現,イスタンブール)を建設し(330),帝国の重心を東に移動させた。
すでに3世紀後半,帝国の立直しのために帝権のイデオロギー的正統化が求められ,アウレリアヌスは太陽神の加護を求めたが,ディオクレティアヌスは古ローマの伝統に戻って〈ユピテルの地上の代表者(ヨウィスJovis)〉と称し,古ローマ宗教に賛成しないキリスト教徒の全国的な大迫害を始めた(303)。国家の命令によるキリスト教徒の処罰はすでにデキウス,ウァレリアヌスが始めていたが,その後それは鎮静化していたものであった。コンスタンティヌス1世は一転して,キリスト教に改宗し,キリスト教徒の神の地上における代表者と自覚し,この立場でキリスト教会を保護し,4世紀の間にキリスト教がローマの国教となる道を開いた。コンスタンティノープルは,異教的ローマに対抗する新しいキリスト教的ローマ帝国の首都として出発した。宗教的聖化を得て今や皇帝はプリンケプス(元首)ではなくドミヌス(専制君主)となった。帝政はプリンキパトゥスから専制的なドミナトゥスへと完全に変質したのである。
宮廷内儀礼にも皇帝の神性を強調する制度が取り入れられ,皇帝顧問会は今や皇帝の前では全員が起立しているので聖起立会議(サクルム・コンシストリウムsacrum consistorium)となった。ローマ元老院は名目的な威信のみをもつ一都市参事会と異ならなくなり,コンスタンティノープル元老院がこれに競うようになった。属州統治はますますきめが細かくなり,その数は116にまで増加し,数属州をまとめて管区(ディオエケシスdioecesis)が,数管区の上に道(プラエフェクトゥラpraefectura)が置かれ,帝国は3または4道に分かれ,各道の担当として,今や財政を主とする文官となった親衛隊長が1人ずつ置かれた。そしてこの時代には文官経歴と武官経歴が完全に分離された。軍隊は国境を守る国境防衛軍(リミタネイlimitanei)と,皇帝に直属し危地に急行する騎兵機動軍(コミタテンセスcomitatenses)に分かれた。
こうして肥大化した官僚群と拡大した軍団を保持するために,国家財政はほとんど破綻に瀕した。すでに3世紀の間に,政府による貨幣の改悪のため貨幣価値は下がり,インフレーションは天文学的数字となり,貨幣経済は事実上機能しなくなった。コンスタンティヌス1世はソリドゥス金貨の鋳造開始など部分的に貨幣を改良し,ソリドゥスそのものは国際信用を回復することができたが,国内取引とくに税としては現物を課することが原則となった。ディオクレティアヌスが始めた新税制(カピタティオ・ユガティオ制)は全帝国の農地と農民に対してさまざまな現物課税を行った。この税収を確保するために農民や小作人(コロヌス)は農地からの移動を禁じられ,徴税責任者とされた都市参事会員も世襲身分(クリアレスと呼ばれた)とされた。332年の勅法は逃亡したコロヌスを鎖で縛ることを命じた。次々と勅法が出され,職人も船主も商人も兵士もすべて世襲とされたので,ローマは一種のカースト制的国家となった。
このような国家による強制は経済全般に深刻な影響を与え,耕地面積も都市の規模も縮小に向かった。税を逃れようとする人は,教会聖職者になったり,有力者は徴税の手の届かない都市領域の外で大土地所有を行い,封建領主のような自立性を獲得した。皇帝や信者の寄進によって教会が今や特権的な大土地所有者となった。ローマの元老院議員のなかには異教に固執する者が多く,彼らが古典文学を継承していったが,しだいにキリスト教神学や聖書注解,さらには説教集,聖人伝などのキリスト教文学がそのかたわらで成長した。
コンスタンティヌス1世が置いた新しい帝国の構造の基本は,4世紀を通じて変わらなかった。彼の死後起こった内乱を克服して帝国を再統一したコンスタンティウス2世(在位324-361)の死後,ユリアヌス(在位361-363)が親異教,反キリスト教,再自由化の反動政策をとったが,彼のペルシア戦線での戦死で基本線を変えるに至らなかった。この時期の主要な対外問題はササン朝であった。次に帝国を担ったのはウァレンティニアヌス1世(在位364-375)とその弟ウァレンス(在位364-378)で,この時期の危機は北方国境にあり,ウァレンスは侵入した西ゴート族に敗れ(378),遺体もみつからなかった。ウァレンティニアヌスの息子グラティアヌス(在位367-383)を補佐したテオドシウス1世(在位379-395)は,西ゴートを国境外に追えないと悟り,彼らにトラキア管区の北部2州に防衛義務と交換に定住地を与えた。彼らは自分たちの王を戴き,自分たちの指揮官の下でローマ軍に参戦したのだから,事実上は帝国内に定住したゲルマン国家にほかならなかった。
ウァレンティニアヌス朝とテオドシウスの時代には,異教知識人とキリスト教聖職者との最後の論争が行われた。前者の代表はローマ元老院議員シンマクスであり,後者の代表はミラノ司教アンブロシウスであった。392年,フランク人出身ローマ軍司令官アルボガストを後ろ盾に,ウァレンティニアヌス2世(在位375-392)を除去してローマに蜂起したエウゲニウスの奪(在位392-394)は,テオドシウスによって鎮圧された。
テオドシウスの死(395)後,帝国の東半分をその長男アルカディウス(在位383-408)が,西半分を次男ホノリウス(在位393-423)が分治した。この分治の当初は従来しばしば行われた分治と同一性格のもののはずであったが,これ以後の両帝国の政治関係,侵入異民族との異なった関係などのゆえに,両帝国はしだいに独自の道を歩き始める。東の帝国は1453年までいわゆるビザンティン帝国として存続するが,西の帝国は476年をもって皇帝が存在しなくなり,それ以後しばらくはおおむね東帝の権威を認めるゲルマン人の諸王が支配する。西では,ホノリウスの死後,奪者ヨハンネスの間奏曲を挟んで,ホノリウスの異母妹ガラ・プラキディアの息子ウァレンティニアヌス3世(在位425-455)が帝位を占めた。ホノリウス治世の前半はバンダル出身のローマ軍司令官スティリコが政治の実権を握り,ウァレンティニアヌス3世の治世は母ガラ・プラキディア(450没)の影響下にあった。このテオドシウス朝期の西の帝国は相次ぐゲルマン諸族の侵入と帝国領内での建国,帝国政府の直接統治領の縮小,そして税収の枯渇によって特徴づけられる。
この間に西の政府は自らの固有の軍隊をもてなくなり,ゲルマン人の同盟部族(フォエデラティfoederati)の力で他の侵入ゲルマン人と戦うほかはなくなっていく。侵入の最初の波は4世紀の末から始まる西ゴートのそれで,ホノリウスとスティリコの不和,後者の処刑(408)というローマ側の内紛に乗じて,410年アラリック王の下,ローマ市を占領し3日にわたって劫掠した。西ゴートはその後南イタリアにいたが,ローマと条約を結んでガリアに移動した。その地でアタウルフ王は人質として連行していたガラ・プラキディアと正式に結婚した。彼女はアタウルフ王の死後ローマに送り返され,将軍コンスタンティウスと結婚,のちのウァレンティニアヌス3世を生んだ。第2の波は406-407年の冬,ラインを渡りガリアを席巻したバンダル,スエビ,アランの諸族で,彼らは409年にはスペインに入り,バンダルはさらに429年マウレタニアに渡り,漸次東進し,カルタゴを占領(439),442年のローマとの条約で今日のチュニジアとリビア西部に独立国(バンダル王国)をつくった。この間にガリアのアルモリカでは農民反乱であるバガウダイの乱が鎮圧されず,ブルグント族もライン下流を渡り進出し,ガリアに入った。ローマの将軍アエティウスはフン族にブルグンドを討たせて2万人を殺戮した。そのフン族もアッティラ王の下に大軍をもってガリアに攻め入ったので,アエティウスは少数のローマ正規軍のほかガリア定住の同盟部族,個別的定住の異民族(ラエティ)を総動員し,451年カタラウヌムの戦でこれを退けた。フンはアッティラの急死(453)で瓦解した。
アエティウスはウァレンティニアヌス3世によって殺された(455)が,後者もアエティウスの部下に刺殺され,西の帝国は最後の急坂をころげていった。ペトロニウス・マクシムス(在位455),アウィトゥス(在位455-456),マヨリアヌス(在位457-461),リビウス・セウェルス(在位461-465)と皇帝は続いたが,政治の実権は456年秋以後,スエビ出身の軍人リキメルが掌握して,リビウス・セウェルスの死後18ヵ月皇帝の空位期間が続いた。次のアンテミウス(在位467-472)は東帝から送り込まれた皇帝であるが,リキメルと対立して殺され,リキメルもその6週間後に死んだ。次の皇帝ネポス(在位474-475)も東から送り込まれたが,彼も将軍オレステスに追い出され,オレステスは息子ロムルス・アウグストゥルスを帝位に就けた。しかし,同盟部族との交渉が決裂してスキラエ人将校オドアケルはオレステスを殺し,ロムルス・アウグストゥルスを廃位した(476)。ロムルス・アウグストゥルスはもともと東帝によって承認されなかった皇帝で,ネポスは480年殺害されるまでダルマティアで帝位を主張していた。
したがって476年という年に特別の意味はみいだされないが,しばしばこの年をもって西ローマ帝国の滅亡としている。事実はすでに少なくとも20年前に西ローマは死に体になっていた。そして455年にはバンダル王ガイセリックはアフリカに残るローマ領とサルディニア,コルシカを占領,さらにローマ市をも占領・劫掠していた。オドアケルは帝冠を東に返却し東帝の権威の下に立つことを選んだ。
476年には西の帝国のほとんど全域がゲルマンの諸王によって支配されていた。バンダル族はアフリカの旧ローマ領全部とサルディニア,コルシカ,バレアレス諸島,シチリアを征服,ブルグンドは北は上部ライン川,西はソーヌ川,南はデュランス川まで拡大,西ゴート領はスペインの大部分と南西ガリアを包括,スペインでは北東部のガラエキアにスエビが残存するのみであった。ガリアでは西ゴート王エウリックがロアール,ソーヌ,ローヌに至る領域を完成し,アルルとマッシリアも占領しイタリアと境を接していた(西ゴート王国)。ブルグンドと西ゴートの北にはブリタンニ(アルモリカ人)とフランクの間に,かつてのローマの将軍アエギディウスの息子シアグリウスの支配するローマの飛地があった。オドアケルの領域はイタリアと,ラエティア,ノリクムの一部に加えて年金支払と交換にバンダル王ガイセリックからシチリア領有を譲られたが,ラエティアの大部分はすでに異民族に荒らされており,ノリクムも488年には完全に放棄した。これが西ローマ帝国の滅亡といわれる状態であった。
→ビザンティン帝国 →ローマ没落史観 →ローマ理念
執筆者:弓削 達
共和政初期のローマの国家財政についてはほとんど知られていない。ギリシアのポリスと同様に公有地,鉱山,製塩所などの国有財産からの収入が主たる財源であったと考えられているが,ローマ市民はポリス市民とは異なって,国家が必要とする場合には,財産額に応じた税を納めた。共和政中期以後のローマの拡大により,多額の賠償金と属州からの税収入が重要な財源となった。その結果,前167年以後,イタリア内のローマ市民の完全な私有地は免租とされた。
属州からの直接税には,人間のあたま数と財産額に基づいて課せられる税制と,穀物生産高の10分の1を基礎とする税制とがあった。前者は西部の諸州に対して課され,財務官(クアエストルquaestor)とその部下の下で都市が税の徴収を行った。シチリア州や東方の多くの属州では後者の税制が継承された。それはヘレニズム諸国の王たちが案出したもので,膨大な官僚群を用いて徴収されるものであった。しかし,ローマはそのような官僚群をもたなかったので,その徴収を公共事業請負人に請負わせた。共和政期の間接税には,関税と5%の奴隷解放税が知られている。
元首政期になると,元老院管轄属州からの収益は従来通りサトゥルヌス国庫(アエラリウム・サトゥルニaerarium Saturni)に入ったが,皇帝管轄属州からの収益や国有地あるいは新設の税などの収益は皇帝金庫(フィスクスfiscus)に入った。間接税は帝政期に種類が多くなった。アウグストゥスは退役兵に除隊金を支給するため,6年に軍人金庫(アエラリウム・ミリタレaerarium militare)を設け,その財源として5%の相続税と1%の売上税を新設した。帝政期にはすべての直接税が財務官や皇帝役人を通して集められるようになった。元首政初期まで徴税請負人により徴収された間接税も,のちに皇帝役人により徴収されるようになった。その他の財源として皇帝一族の莫大な私有財産(パトリモニウム・カエサリスpatrimonium Caesaris)があり,セプティミウス・セウェルスのときには没収財産やアントニヌス朝の財産を中心にして皇帝財産(レス・プリウァタres privata)が設けられ,財政機構はいっそう複雑になった。
3世紀には通貨の下落,物価騰貴が著しく進行した。その結果,属州からの現金による定額の税は価値を失い,国家は現物で税を納めることを要求するようになった。現物による不規則な徴発はディオクレティアヌスにより制度として整えられた。課税のため全帝国に厳格な土地測量と人頭の申告が行われ,税は人口の単位と土地の単位に基づいて査定された。この制度は地域により差異があったが,支払能力のより公平な評価をつくり出し,後期ローマ帝国に財政基盤を与えた。後期ローマ帝国の財政は3部門で運営された。皇帝財産はおもに皇帝領を管理し,聖恩賜局(サクラエ・ラルギティオネスsacrae largitiones)は鉱山,鋳造所,国営工場を管理し,現金税を徴収し,軍隊に賜金を払った。3部門のうち最も重要なものは親衛隊長官の役所で,兵士や役人への食糧配給,帝国公共便や公共建築の維持,毎年の現物税の徴収額を計算する任を負った。
→徴税請負[ローマ]
執筆者:市川 雅俊
前3世紀初頭,ローマによるイタリア半島支配が確立した頃,貨幣三人委員が設けられ,規格の定まった青銅貨が鋳造されるようになった。その後,ギリシア貨幣の流通力との対抗上,銀貨の鋳造が始まり,前3世紀末のデナリウス銀貨(デナリウス貨)の発行によって通貨制度の基礎が築かれた。地中海諸地域への進出の過程において,デナリウス銀貨の量目が徐々に減少していき,流通力の安定性が揺らぐ傾向がみられた。このため,アウグストゥス帝は通貨改革を試み,アウレウス金貨とデナリウス銀貨との両本位制に基づく通貨制度を確立した。アウレウス金貨=25デナリウス銀貨=25×4セステルティウス貨=25×4×4アス貨という貨幣体系が整備され,政治的に統合された地中海世界の各地で圧倒的な有効性を発揮していく。
帝国支配下における都市化の進展,交易の活発化,財政支出の増大などによって,イタリア以外の地域でもローマの貨幣に対する需要が高まり,通貨発行量の増大は鋳貨の品位(純度)の低下を招いた。とりわけ,デナリウス銀貨にこの現象が著しく,アウレウス金貨の品位がほとんど変わらなかったのに比べて,デナリウス銀貨は長期低落傾向を示している。このため,デナリウス銀貨は流通手段の主役を果たしながらも,名目価値と実質価値との乖離(かいり)によって,アウレウス金貨とデナリウス銀貨との間には強制的な交換関係が設定されるに至り,国家は3世紀中葉までこの関係を維持するように余儀なくされた。3世紀初頭から,デナリウス銀貨の品位改悪はさらに著しくなり,デナリウス銀貨に代わるアントニニアヌス銀貨も漸次的に量目・品位を下落させたので,3世紀後半には未曾有のインフレーションに陥り,この時期の政治的・軍事的混乱に加えて,経済危機が著しかった。このため,ディオクレティアヌス帝に続いて,コンスタンティヌス帝による通貨改革が断行され,312年ソリドゥス金貨が創設された。ソリドゥス金貨は量目・品位の維持に努力が払われたので,後期ローマ帝国からビザンティン帝国の時代にかけて,地中海の国際交易において高い通用力を誇った。
執筆者:本村 凌二
当初,ローマのすべての兵士は民兵であり装備を自弁した。王政期に装備を調達できる資力をもっていたのは貴族であり,貴族は戦士としての軍事的価値を背景に政治を独占した。セルウィウス・トゥリウス王は,経済の発展により興隆してきた新たな富裕者層を軍事・政治面で利用することにより貴族に対抗しようとして軍事改革を行い,財産の多寡により軍事的義務の大小が決まり,軍事的義務の大小により政治的権利の重さが決まる制度(ケントゥリア制)を採用した。ローマでは前500年ころに重装歩兵の密集隊形が定着しており,この戦法が貴族の騎兵を凌駕するようになると,重装歩兵として出陣する有産平民の軍事的価値が高まった。有産平民はこの軍事的価値の向上を背景に,貴族に対して政治的平等を求めて闘った。初期の兵役期間は民兵制に対応して,種まきが終わる3月初旬から収穫の始まる8月末ないし9月初旬までの期間であったが,前400年ころに行われたエトルリアの都市ウェイイとの戦争では,戦争が長期にわたったため兵士に給与が支払われ始めた。
前4世紀後半のサムニウム戦争の間に,ローマの戦術は密集隊形から中隊を基本単位とする散開隊形に変わった。これに伴って重装歩兵の武器も長槍から投槍と剣へと変わっている。この頃には重装歩兵の部署は財産額によってではなく年齢により決められるようになっている。イタリアにおけるローマの同盟諸市は全体でローマの兵員とほぼ同数の兵員を提供し,ローマの指揮の下で戦った。戦闘がイタリア全土に及んだサムニウム戦争は,早くも軍隊の中核を構成する中小土地所有者に過大な負担を課するものであったが,戦争が海外で何年間も続くとなれば,なおのことであった。そのような対外戦争の直接的・間接的影響により,多くの中小土地所有者は没落して無産者となり,軍事力の低下が生じた。この問題に対処すべくグラックス兄弟は没落した無産市民に土地を与えて農民層を再建しようとしたが失敗した。
そこでマリウスは無産市民をも徴兵の対象とし,それを志願兵として採用することにした。このこと自体はなんら革命的行為ではなく,以前から例外として行われてきたことを通例として認めたにすぎなかった。しかし,この改革がもたらした結果はきわめて大きかった。将軍=政治家と募兵の間に保護者と被護民の関係が生じ,軍隊は国家のために戦うのではなく,将軍個人のために戦う私兵集団となった。そして将軍たちの政争は私兵を使った軍事的対決へと発展し,〈内乱の1世紀〉と呼ばれる状況をつくり出した。この時期は国内の内乱状態にもかかわらずローマの領域が著しく拡大した時期でもあったが,これは将軍たちが国内の政争を闘うための軍隊と富と名声を求めて対外戦争を積極的に進めたためである。マリウスの頃に,軍団から騎兵と軽装兵が消え軍団は重装歩兵だけからなる集団となるとともに,軍団兵の装備はすべて同じものとなった。軍団付騎兵と軽装兵が果たしてきた役割は,属州民からなる補助軍により行われることとなった。この頃軍団の戦術単位も2小隊よりなる中隊から6小隊よりなる大隊へと変わっている。
共和政末期の内乱の間に,軍隊の数は著しく増加した。内乱を終結させたアウグストゥスは,著しく増加した軍隊を平和が維持されるのに必要な規模で財政的にも維持できる規模にまで削減し,給与,兵役期間,除隊金などの勤務条件を定めて常備軍として組織した。常備軍の主体はローマ市民から集められた軍団兵約15万人と,それとほぼ同数の外人から集められた補助軍であり,これらは辺境に配置された。ローマには親衛隊,首都警備隊,消防隊が置かれた。元首政期にはアウグストゥスのつくった制度に大きな変更はなかった。しだいに軍隊の駐屯する地域で兵士が集められるようになり,地域ごとに軍隊の人種構成が偏ることとなった。このことは,各地の軍隊がそれぞれつごうのよい者を皇帝に就けようとする軍人皇帝時代の内乱へとつながった。またアウグストゥスの防衛体制は,防衛線を突破して侵入した敵を撃退する軍隊に欠けていた。そこでガリエヌスやアウレリアヌスは,帝国内の予備軍として一定地に駐屯しない皇帝直属の機動軍をつくり,内外の敵に対処しようとした。
その後ディオクレティアヌスは国境の軍隊をアウグストゥス時代の約2倍に増強した。コンスタンティヌス1世は国境の軍隊から大きな兵力を割いて強力な野戦機動軍をつくった。これ以後ローマの軍隊は国境防衛軍と野戦機動軍に分けられることとなった。後期ローマ帝国の軍隊の特徴は蛮族化であり,その主要なものがゲルマン人であった。いくつかの部族はローマと同盟を結び,彼らの首長の下でローマのために戦ってローマ正規軍と同じ額の年金を受け取った。テオドシウス時代のあるものは全部族をあげてローマ領内に移住し,自治権をもつ独立国家にさえなった。
執筆者:市川 雅俊
ローマ共和政初期の土地制度は,自営農民の私的土地所有を主体としたものであった。ローマの完全市民は,自らの土地をもち従軍義務を負うということが,国制上の原理となっていたのである。この私有地と並んで公有地アゲル・プブリクスがあり,実際に経営する者が低い地代でこれを占有した。ローマが征服によって領土を拡大するにつれ,公有地も拡大した。これらの公有地は,土地を失った市民を入植させるためにも用いられたが,しだいに占有にまかされる部分が多くなった。これに対して,前367年のリキニウス=セクスティウス法は,公有地占有面積と公有地への放牧家畜数を制限した。しかし,征服戦争に従事した中小の農民が没落し,土地の集中が進むと,大土地所有者たちは,やはり征服戦争の結果生じてきた大量の奴隷を使って大規模な経営を行うようになり,リキニウス=セクスティウス法の規定は有名無実化した。
前133年に始まるグラックス兄弟の改革運動は,大土地所有者の一定限度以上の占有地を没収して土地のない市民に分配するという法を成立させたが,兄弟が反対派との抗争のなかで倒れた後,彼らの法はなしくずし的に効力を奪われた。前111年の土地法では,占有地の私有地化が大幅に認められた。ここに至ってローマの土地制度は根本的に変化し,大土地所有ラティフンディウムの無制限な拡大をみることになるのである。しかし,小農民は完全に姿を消したわけではなく,また数百ユゲラの広さをもつ中規模の所領が,農業構造全体のなかで重要な役割を演じていた。
大所領や中規模の所領において展開した奴隷制農業は,農業史上きわめて特異な地位を占めるものである。前2世紀の大カトー,前1世紀のウァロ,後1世紀のコルメラらの著述と,ポンペイ周辺をはじめとするウィラ(農園の屋敷)の考古学的発掘の成果によって,この奴隷制農業の姿は,かなり詳細に推定される。所領主の目的は,奴隷労働をできるだけ合理的に使用することによって最大の利益を得ることであり,そのために,何重もの監視要員を含むきわめて整備された奴隷の労働組織がつくり上げられた。作物も,市場向け商品作物としてのブドウ,オリーブに重点が置かれ,利潤獲得を目ざす姿勢がうかがえる。しかしその一方では,小作制も併用され,時代が下るにつれ重要性を増していった。奴隷制から小作制への移行の原因としては,帝政期に入って征服戦争がやみ,大きな奴隷源であった捕虜が得られなくなったこと,属州が経済的に発展し,オリーブ油やブドウ酒を自給し始めたために,イタリアの奴隷制農業の重要な条件の一つであった商品生産の市場が狭まったこと,大土地所有のいっそうの拡大により,大所領が奴隷制に適合する規模を超えてしまったこと,所領主の経営精神が変化して,小作制のもたらす小さくとも安定した収入を求めるようになったこと,などが挙げられている。ここで注意しなければならないのは,大所領といっても,いくつもの土地片(フンドゥスfundus)を集積したものであって,経営の面からみても,いわば中小の経営の複合体であったことである。奴隷制から小作制への移行は,一挙に起こったものではなく,この複合体のなかでの重心の移動という形で徐々に進んだと考えるべきである。この過程と並行して小作人(コロヌス)の地位は,経済的な弱さ,とくに地代の滞納によって,劣悪化していった。
一方,属州においては,奴隷制は支配的な生産方法とはならなかった。東方の小アジアやエジプトでは,ローマによる征服以前からの隷属的農民が,先祖代々の土地を耕していた。西方においては,ローマ化のとくに進んだ地域で奴隷制農業がある程度導入されたが,支配的地位を占めたのは小作制であった。ここにおいても大土地所有が成立し,原住民の多くが小作人となった。
政治的・社会的混乱期であった3世紀には,人口の減少や,税・徴発の負担に耐えかねた農民の逃亡のために,放棄された土地(アグリ・デゼルティagri deserti)が増大した。政府は税収の確保のために,これらの土地の耕作の責任を近隣の土地所有者などに負わせようとしたが,零細な農民にとっては,このことは負担の増大を意味した。一方大土地所有者は,この状況を利用して,さらに所領を拡大することができた。
ディオクレティアヌス帝に始まる後期ローマ帝国の体制は,農業構造にも大きな変化をもたらしたが,これは,これまでの発展の帰結でもあった。新しい税制ユガティオ-カピタティオの導入を契機として,所領に登録されたコロヌスを法的に土地に縛りつけるコロナトゥスcolonatusが成立する。都市の衰退と反比例して大所領は経済的自立性を高める。大土地所有者は,自分の所領内のことに関しては,半ば公的な力をもつようになる。このような大所領の自立性は,東方におけるよりも西方において著しく,この相違は,古代末期から中世初期にかけての東西ヨーロッパの発展の差を生み出すことになるのである。
執筆者:坂口 明
ローマは自営農民を中心とする農業国家であったが,古くから物資の交換も行われていた。すでに前7世紀にはエトルリア沿岸都市にギリシアから陶器が輸入されている。またエトルリア人は商人としてローマに定住し,ローマの都市建設も彼らの資本と技術によるところが大きかった。ローマは南のカンパニア地方やテベレ川をさかのぼった奥地との取引のため,かっこうの商業中継地だったのである。
都市ローマの発展とともに消費も活発となった。すでにヌマ・ポンピリウス王の時代(前8世紀末~前7世紀)に,黄金細工師,大工,染師,靴屋,皮なめし職人,鍛冶屋,陶工といった職人が知られており,このほかパン屋,武具製造職人,指物師など社会的分業の形態をみることができる。その大部分はまったくの家族労働かせいぜい数名の奴隷を用いた小規模な生産者であり同時に商人でもあった。彼らの顧客は都市の住民および周辺の農民に限られていた。前4世紀半ばにはカルタゴとの間に通商条約が結ばれ,ローマ人は北アフリカ,サルディニア島などカルタゴの勢力圏での通商や都市建設を制限されている。ローマがこのような条件を受け入れたのは,当時海外との大規模な取引に熱心ではなかったためであるとされているが,このような通商に関する条約の存在自体ローマの海外交易活動を前提しなければ成立しえず,また前4世紀にティレニア海を中心にイタリアの海賊が出没したこととあわせて,共和政期のローマが海外との取引活動に消極的であったと断定することはできない。前218年のクラウディウス法では,元老院議員身分の者が大型船舶を所有することが禁じられており,貴族の海外交易は禁止されていた。国政に携わる上層の貴族が商業に関与することはふさわしくないと思われていたが,このような禁止をしなければならなかったところに当時の現実がよく表れているともいえよう。
共和政末期には奴隷制による大規模工業が出現し始めた。とくに前30年ころから後1世紀半ばまでアレティウム(現,アレッツォ)を中心に生産された赤い光沢のある陶製容器(アレッツォ焼)はギリシア,小アジア以外のほぼ地中海全域(スペイン,北アフリカ,ガリア,イリュリアなど)で発見されており,広範な流通があったことを示している。このほかアンフォラ,ランプ,煉瓦などの焼物工業(北部・中部イタリア),銅細工(カプア),製鉄(プテオリ)などが知られている。これらはいずれもある程度の技術を身につけた数名から数十名の奴隷や解放奴隷の存在と,これに資本を投下して経営にあたるローマの富裕者の存在とを前提としている。また鉱山業ではとくに大量の奴隷が過酷な労働条件で使用されていた。こうした製品はイタリア商人の手によって広く地中海世界に運ばれていった。前166年デロス島の自由港化で東地中海域における通商活動はさらに盛んとなり,ここにはイタリア商人はもとよりギリシア,シリア,エジプトなどの商人が集い,出身地別の商人団体や同業団体(オリーブ油商人など)も結成された。イタリアにおける大土地所有者の所領で労働力とされた奴隷も,デロスでは1日に万余の数が取引されていたという。前129年小アジアに属州アシアが設けられると,ローマの騎士階級は徴税請負人,商人,高利貸などとして属州経済を牛耳り,属州民,周辺諸王国の犠牲のうえに自らの繁栄を築いた。
戦乱の収まった後1~2世紀にかけて海外交易も繁栄期を迎え,アラビア半島からインド洋方面に南海貿易路が開かれて真珠,黄金,各種香料などが輸入され,金貨,青銅器,ブドウ酒などが輸出された。さらに黒海,ライン川,ドナウ川の沿岸地帯とも取引がなされていた。しかしながら繁栄の陰には必ず衰退の萌芽が隠されている。商業の発展は属州経済の活性化をもたらした。このため属州にイタリア半島と同種の工業が興り,ついにはイタリア産のものを駆逐することすらあった。とりわけ後1~2世紀のガリアの発展はめざましく,とくに南ガリア産の陶器やブドウ酒は大量に輸出され,ついにはイタリア産のものをしのぐほどにまでなった。また共和政末期以来の中小土地所有農民の没落(長期の従軍に伴う耕地の荒廃などのため)とその遊民化は都市の下層民を大量につくり出すこととなり,そのため一般の購買力は上がらなかった。そのうえ大土地所有者の所領では衣服など簡単な日用品は一般的に自給自足だったことも小規模商工業の発展にとって不利であった。
一方,大規模工業衰退の原因は奴隷制そのものが抱える矛盾に求められる。技術を備えた奴隷に生産を依存することは必然的に奴隷の地位の向上,最終的には身分解放に行き着く。解放奴隷は旧主人のもとにとどまることもあったが,独立して新たに工場を興す場合も多く,その結果旧主人のもとから優秀な技術が失われ,新たに技術をもった奴隷を補充しなければならなかった。さらに経営規模の拡大は奴隷数の増加を伴ったが,数が増えるにつれて彼らを効率よく働かせるための監督は難しくなった。前103年にギリシアのラウリオン銀山で起こった奴隷の反乱はこの盲点をついたものであった。こうして後3世紀の動乱を経て帝国の商・工業ともにかつての生彩を失っていったのである。
執筆者:田村 孝
古代ローマの大土木事業の多くは,国家および帝国内都市当局が公費をもって行う公共事業であった。その重点が上下水道,バシリカ(裁判,商取引用の集会所),公共浴場,神殿など,都市機能維持のための公共設備建設にあり,〈建築学〉が陣地構築や攻城器械製作まで含む軍事技術体系としての性格を帯びた一方で,これらの技術の生産点での利用(灌漑設備,鉱工業用器械など)は思いつき程度にとどまったところに,古代オリエント専制国家や近代社会における土木技術の位置との根本的差異が認められる。奴隷制社会としてのローマの特質というべきかもしれない。
都市空間のための公共設備建設は王政期にさかのぼり,タルクイニウス・スペルブス王時代と伝えられる大排水溝クロアカ・マクシマCloaca Maximaはローマ市北東部の沼沢の水をテベレ川に導いてローマ中央広場フォルム・ロマヌムを誕生させた。つづく共和政期に公共事業はローマ国家の対外進出と軌を一にして飛躍的展開をみせた。ローマ市を囲む不連続な塹壕線はガリア人による劫掠を機に幅4.5m,高さ8.5mを超す城壁に替えられ(いわゆる〈セルウィウスの城壁〉,前378),ラティウム地方制圧に続いてイタリア半島征服が始まる前4世紀後半には,ローマ市を中心とする放射線状の軍用道路網(前312年のアッピア街道が最古)や上水道(前312年のアッピア水道Aqua Appiaが最古。ただし地下式)の敷設も緒についた。前3世紀には東方ヘレニズム世界との接触によりアーチ構造の使用が始まり,コンクリート工法(砕石をモルタルで固める)と結びついて以後のローマ建築の骨格を形づくる。
こうして前2世紀中葉,地中海世界制圧による戦利品収入を財源としてローマ市は最初の建設ブームを迎える。倉庫として使われた〈アエミリウスの柱廊Porticus Aemilia〉(前193),テベレ川最古の石造橋アエミリウス橋Pons Aemilius(前179),中央広場のバシリカ群(前184年の〈大カトーのバシリカ〉,前179年のバシリカ・アエミリアBasilica Aemilia,前170年のバシリカ・センプロニアBasilica Sempronia),ギリシア式神殿をまねた最古の大理石製神殿(前146年のユピテル・スタトルJupiter Stator神殿),初の地上式上水道(前144年のマルキア水道Aqua Marcia)などがこの時期に属する。これらの施設の建造および補修はケンソルほかの役人と契約した公共事業請負人プブリカニpublicani(競争入札による)の手で行われ,工事完成後は役人の査察を受けた。それゆえ公共事業は役人となったローマ貴族の名声獲得の舞台であり,建造物は担当役人の名(氏族名)を冠して呼ばれる例が多かったが,他方,地位利用による不正蓄財もまれではなかった。工事の労働力は戦争捕虜などの奴隷と考えられるが,神殿建設の場合を中心に自由人日雇労働者もみられ,この点建設ブームは当時ローマなど大都市に流入しつつあったイタリア没落農民層の都市での生活を支えると同時に,その流入を加速したといえる。
地中海世界支配の矛盾が中小自作農層解体の形で顕在化した共和政末から帝政成立期にかけては,土木事業の対象も劇場(前50年代のポンペイウス劇場),円形競技場(常設のものは前29年が最古),公共浴場(前20年が最古)など,ローマ市貧民を意識したものとなる。他方マリウスら実力者による退役兵植民に伴い,属州でのローマ風都市の建設が進み,帝政期には属州名望家層の出費によって地中海世界各地の都市空間は一様にローマ的諸施設を備えるようになる。これと並行して道路網も帝国全土に拡大するが,これらは軍団の高速移動を第一義として,軍事拠点間をほぼ一直線に結ぶものであり,属州各地方の域内交通発達には必ずしもつながらなかった。
この時期はまたローマ市過密化(交通機関の未熟さのため外延的拡大には限界があった)対策としてスラ,カエサル,アウグストゥスにより中央広場再開発が進められた時期にあたる。首都をはじめとする大都市の地価高騰を背景に,富裕な私人は賃貸アパート(インスラ)建設による蓄財を図り,帝政期を通じて都市は高層化の一途をたどったが,結果として街路はますます狭くなり,上下水道が1階までしか通じていなかった(公衆便所は有料)こともあってスラム化は深刻であった。アパート倒壊の例も多く知られる。建築材料としては煉瓦が多用され,首都近郊の農場での煉瓦製造業が隆盛となった。
アウグストゥス以来の諸帝は最大の公共事業施工者として上下水道など衛生設備や円形競技場など娯楽施設の充実を目ざすとともに,中央広場に隣接して新たに広場を設け(アウグストゥス,ウェスパシアヌス,トラヤヌスら),首都景観の美化に努めた。神殿や図書館,戦勝記念円柱,凱旋門をめぐらしたこれらの広場は,その配置自体各皇帝の統治理念の反映であり,帝国の支配イデオロギー宣伝の舞台であった。皇帝による土木事業はこのほか,港湾(クラウディウス帝のローマ港,ネロのアンティウム港,トラヤヌスのケントゥムケラエ港など)や運河(ナイル川と紅海を結ぶもの。トラヤヌスによる)にも及んだが,農業用水路などの整備は依然として各農場所有者にゆだねられていた点に注意しなければならない。
〈蛮族〉に対する帝国の劣勢が明らかとなった五賢帝時代後半からは,属州防衛のための長城建設(ブリタニアのハドリアヌス帝およびアントニヌス・ピウス帝時代のものが有名)が本格化し,さらに3世紀後半からは共和政期以来拡大したローマ市域全体を囲む城壁(いわゆる〈アウレリアヌスの城壁〉,後271-)の建設が開始されるが,これは帝国がもはや長城線を維持しきれなくなったことの目に見えるあかしであった。
→ローマ水道 →ローマ道 →ローマ美術[建築]
執筆者:栗田 伸子
古代ギリシアとローマの社会は,奴隷制が非常に発達した社会であるという点で共通している。どちらの社会においても奴隷は法律上〈物res〉とみなされ,人格を認められなかった。さらに奴隷所有が広く普及し,一般の市民でも最低2~3人は奴隷を所有していた点でも両者は共通している。奴隷の職種も多岐にわたり,とくにローマにおいては,奴隷は家内労働一般や農業,鉱工業や商業活動はもとより,剣闘士(グラディアトル),俳優さらに教師や建築家,医者としても使役された。また水道の管理などの下級官吏として,国家によって所有される公共奴隷の数も多かった。
しかしローマの奴隷制には,ギリシアの場合と比べて際だった相違もみられる。まず第一に奴隷所有の規模である。ギリシアにおいては,特別な場合を除いて一般に個人の大規模な奴隷所有は少なかった。一方,ローマの上流階級の間では500人から1000人以上の奴隷所有者も少なくなかった(ローマ皇帝は,いうまでもなく最も大規模な奴隷所有者であった)。とくに前2~前1世紀の共和政末期のローマは,対外征服による領土拡大と戦争捕虜などによる奴隷の数の急増により(ポエニ戦争中,前206年のタレントゥム陥落では3万,前167年にはエペイロス人の捕虜15万人が奴隷とされた),ローマの上流階級は広大な農地を保有し,大量の奴隷を使役してオリーブ,ブドウなどの商品作物を栽培する奴隷制大農場(ラティフンディウム)を経営し,奴隷制が最も発達した社会を生み出したが,これは一方でローマ市民の上層市民と下層市民の分解を引き起こし,他方,大量の奴隷の過酷な使役に対して奴隷反乱が各地で起こった。2度にわたるシチリアの反乱(前139-前131,前104-前99),スパルタクスの乱(前73-前71)など,反乱はラティフンディウムの発達していたシチリアとイタリア半島においてとくに激しかった。しかし,これらの反乱は奴隷の待遇改善や故郷への帰還などを目ざしたもので,奴隷制そのものの廃止を目的としたものではなかった。
ギリシアとローマの奴隷制の相違は,奴隷解放においてもみられる。大規模な奴隷所有者であったローマ人は,同時にギリシア人に比べてはるかに多く奴隷を解放した。しかもギリシアにおいては,解放奴隷は一般に在留外人(メトイコイ)と同身分とされたのに対し,ローマにおいては,正式な解放手続(遺言など)による解放奴隷にはローマ市民権が与えられた。もっとも市民権を得ても解放奴隷はリベルティヌスlibertinusと呼ばれ,生まれながらのローマ市民ingenuusとは区別された。また元の主人に対して,解放後も一定の奉公と服従の義務を負い,また彼が子どもなしに死んだ場合,遺産は元の主人のものになるなど不利な立場にあった。しかし彼らは,たとえ非正式な手続による解放であっても再び奴隷身分に落とされることはなく,さらに市民権を得た解放奴隷の子孫はingenuusとみなされ,ローマ市民社会に同化していった。彼らのなかには莫大な財産をもつ者もあり,とりわけ皇帝の解放奴隷のなかには,絶大な権力を振るう者も現れた。
元来奴隷には法律上財産所有権はなかったが,事実上奴隷が彼の自由をあがない取るために自分の私有財産peculiumを蓄えることは認められていた。こうした可能性は農業奴隷や鉱山奴隷よりも,家内労働や商工業に従事する奴隷の方が高かった。商工業奴隷のなかには,独立した営業活動を任されるほど主人の信頼を得た者もあった。また乳母(うば)や教師として,主人の子ども時代から忠実に仕えた奴隷と主人の間には,しばしば愛情関係が生じた。このような主人の奴隷の有能さに対する尊敬や信頼,あるいは友好的な人間関係は,奴隷解放を促進する大きな動機となり,一方,奴隷に対する虐待を禁ずる法が出されるなど,法律的,社会的にも奴隷の地位は向上した。しかし,こうした解放を通じての奴隷出身のローマ市民の増加は,ローマ支配の拡大に伴う外人出身のローマ市民の増加とともにローマ市民社会の変質を促し,帝政期以後市民団内の不平等が拡大し,上層市民と下層市民の格差はますます広がっていった。
一方,帝政期以後,ラティフンディウムにも大きな変化がみられる。もともと多数の奴隷を使役する大農場経営は,経済的には決して有利ではなかった。奴隷労働自体生産性が低く,十分な監督体制も必要であった。とくにいわゆる〈ローマの平和〉の結果奴隷源が枯渇し,奴隷価格が上昇すると奴隷労働はますます経済的に不利となっていった。さらに奴隷反乱に対する警戒心もあって大規模な奴隷労働による大農場経営は衰え,代りに奴隷や,没落して土地を失った自由人などを小作人(コロヌス)として使役し,おもに穀物などを栽培する小作制が主流となっていった。とくにローマ市民社会の上層と下層の分解の進行に伴って,コロヌスとなる下層市民の数が増えると,彼らと奴隷の立場は接近していき,帝政後期,コロヌスは奴隷と同様移動の自由を失って土地に縛りつけられるようになると,両者の区別は事実上ほとんどなくなった。こうして帝政期以後ローマの奴隷制はしだいに衰退していった。
→奴隷
執筆者:島 創平
ローマの家族familiaは,家長pater familias,家長の妻,息子夫婦,未婚の娘と息子の子,および奴隷たちからなっていた。家長は奴隷に対しては所有権,奴隷を除く家族に対しては家長権patria potestasをもっていた。十二表法にみられるように,家長には子どもを強制的に結婚させたり,養子に出したり,売却したりする権利,さらに生殺与奪の権利までも認められていた。このほとんど無制限とも思える権利が実際にどの程度まで行使されたかははっきりしないし,その権利も時代とともに緩やかになったとみられるけれども,少なくともローマ社会は絶大な家長権によって支配された家族を単位としていた。家長権は成人した家子にも及んでいたから,家族は,家長の生存中は,養子縁組あるいは娘の場合には結婚によって本来の家族結合から離れて他の家族に入らない限り,家長の支配下にとどまった。彼らが本来の家族を離れた場合でも,本来の家族から別な家族に移っただけで,別な家長の支配下に入ったにすぎない。家族はもちろん自由人であったが,彼らが家長から解放されるのは,家長が死亡した(あるいは自由または市民権を喪失した)場合だけであった。そして家長が死亡したとき初めて,それまで家長の支配下にいた家族はおのおの新しい家族を形成することができた。家長の死によって家族が自由になれることと,相続が認められることは,奴隷の場合とは大きく異なっていた点である。
家長権が家族を支配していたことは,教育の面にも反映している。ローマ人にとって,教育は基本的には個人あるいは家族の問題であった。家長権と教育権とは本来結びついており,家長は家子の教育に決して無関心ではなく,家長は可能な限りわが子を自分の手で教育しようと努めた。その結果,ローマ独特の父子関係に基づく家庭教育が行われた。少年は父から読み書きを習ったばかりでなく,常に父と行動をともにし,父の言行を徹底的に模倣することを通じて実生活に必要な知識を学んだ。さらに父といっしょに宴席にも出席したり,フォルム(広場)での討論を聞きに父とともに出かけたり,父が元老院議員だった場合には元老院にも同行し,議場の扉の近くにまで入って元老院内のできごとを見聞し,政治について学ぶことが許された。ローマ人の家長がわが子の教育にいかに熱心であったかは,プルタルコスの大カトーについての記述にみられる。大カトーは初期ローマの質朴な父親像を示している。だがローマ社会の変質とともに,家長自らが教育者である家庭教育は忠実に実践されることが少なくなった。ヘレニズム世界との接触を通じて,ギリシア的教育を受けたギリシア人が現実にローマにやってくるようになったが,とりわけ第3次マケドニア戦争以後,多数のギリシア人がローマ人の家庭に入り込むことになり,ヘレニズム文化は急速に広まった。こうしてしだいにパエダゴグスpaedagogus(奴隷の家庭教師)やギリシア人教師たちに子どもたちの教育が任されるようになった。
ローマの学校制度は完全にギリシアの影響を受けて発展した。各地に初等学校が設立された後,次々とギリシア語とラテン語の文法学校や修辞学校が開校された。ローマはギリシア語・ラテン語併用国家であり,生徒たちは両国語の学校に通った。初等学校(初等学校教師はludi magisterあるいはlitterator)に関する用語がおもにラテン語が使われたのに対し,文法学校(文法家はgrammaticus,ギリシア語ではgrammatikos)や修辞学校(修辞学者はrhetor,ギリシア語ではrhētōr)に関する用語は,学科名を含めてほとんどが直接ギリシア語から借用された語であることは,文法学校や修辞学校がローマ人にとって外来のものであったことを示している。生徒たちの多くは初等学校修了後そのまま社会に出たため,文法学校に,さらに修辞学校に進む者はごく一部であったと思われる。文法学校では詩歌が重視され,文法家の仕事は主として詩人を解釈し,批評することであったが,それに付随して詩人を理解するのに必要な範囲内で,テキストに含まれている歴史や自然科学など文学以外の学問の知識についても説明した。最初は文法学校と修辞学校の区別がはっきりしなかったようであるが,学校制度が定着するにつれて文法学校の教育は修辞学校の予備教育の性格が濃くなった。修辞学校の目的は演説の訓練にあったが,共和政から帝政に変わるにつれて修辞学の社会的機能も変わり,帝政期の修辞学校では政治の後退がみられ,自己目的化した練習演説declamatioが中心となった。われわれは当時の理想的な雄弁家像をクインティリアヌスの著作《弁論術教程》にみることができる。
幼児の教育は元来は母親の責任であり,グラックス兄弟の母コルネリアのように,優れた母の影響は子どもの成長後も続いた。初等学校には女子も男子といっしょに通学していたし,上流階級の家庭では女子も家庭教師から高い教育を受けることができた。だが婦徳の鑑ともいえる貞淑な女性たちがいた反面,帝政期には〈知性と教養〉を誇示し,性の自由を謳歌する資産家の女性たちが登場した。家長権の衰退と法律が彼女たちに有利になっていったことが,精神的にも経済的にも独立したマトロナmatrona(既婚夫人)を生み出したのである。
執筆者:小林 雅夫
古代ローマの都市住宅は一戸建邸宅(ドムスdomus)と共同住宅(インスラinsula)の二つに大別される。典型的なドムスでは,玄関に続いて天窓を有する中央広間(アトリウム)があり,左右には開放された翼室(アラala)が配されていた。元来はこのアトリウムが家の中心で,寝室,食堂などもそのまわりにあったが,やがて奥庭部分が列柱廊式になり,それを囲んで寝室,食堂,厨房,浴室などが配されて,接客用のアトリウムに対し,ペリステュリウムperistyliumと呼ばれるこの列柱廊を含んだ一画が居住の中心となった。ドムスは外に対しては入口以外に開口部がなく,扉や窓はすべて中庭に面していた。このドムスが多くの庇護民(クリエンテス)の訪問を受ける有力者,富裕者の住宅であったのに対し,一般の庶民はインスラに住んだ。4世紀のローマ市には1797のドムスに対し,4万6602のインスラがあったという。
すでに共和政期,増大する首都の人口はインスラの高層化を招き,前3世紀には3階建てのものが現れ,やがて5~6階建てが普通になった。しかし,セウェルス朝時代の記録ではローマ市のインスラの建面積は平均300~400m2しかなく(ちなみにポンペイのドムスの平均建面積は800~900m2),当時の建築材料(木材,煉瓦,漆喰など)と技術をもってしては,この建面積であまりの高層化は危険である。現にインスラの倒壊はローマ市民にとっての重大脅威であり,アウグストゥス帝はその高さを約20mに,トラヤヌス帝はさらに約18mに規制した。
インスラの1階部分は裕福な市民が借り切るか(カエサル時代,年間家賃は3万セステルティウス),あるいは各種店舗,工房,食堂などが賃借りした。貧しい市民は上層階の数部屋から成る貸間(ケナクルムcenaculum)を借りたが,カエサル時代最も安い所で年間家賃は2000セステルティウスだったという。ドムスと違ってインスラは通りに面して窓が開き,バルコニー付きのものもあり,ツタや鉢植えの花がその外観を飾っていた。だが内部の居住環境は劣悪で,有名なローマの上・下水道の恩恵にあずかれるのは1階までで,上層階には給水設備はもとより便所もなく,住民は公衆便所や尿瓶(しびん),室内便器を使用していた。窓はあっても採光は不十分で,暖房・炊事設備も可動式の小型ストーブや木炭火鉢以外にはなかった。これらの火や照明用のたいまつ,ランプは頻繁に火災をひき起こし,火事は建物倒壊にも勝るローマ市の重大脅威であった。オスティアの遺跡が当時のインスラのようすをよく伝えているが,古代ローマには豪壮な宮殿や公共建築物,瀟洒(しようしや)な個人邸宅と並んで,このようなインスラがひしめき合っていたのである。
古代ローマの男性は膝丈のトゥニカの上にトガを着用したが,トガは重いうえにひだ取りも難しかったため嫌われるようになり,皇帝たちは公式行事の際のトガ着用を命じる勅令を出さざるをえなかったほどで,トガに代わってパリウムpalliumというギリシア風外衣が好まれるようになった。また,袖なし・貫頭衣型の羊毛製外套(パエヌラpaenula)も旅行用・雨天用として好まれた。セウェルス朝時代には袖つきトゥニカから発展したダルマティカが流行した。これは羊毛や亜麻,半絹,絹などで作られたゆったりした長袖つきの丈長の衣服で,キリスト教の聖職者はこれを典礼用衣服とした。女性はくるぶしまで届くトゥニカの上に外衣(ストラ)を着てウェストをベルトで締めた。さらに,肩から足まで達する長いショール(スッパルムsupparum)や,パラpallaという幅広の長マントをブローチで留めて着用した。ダルマティカは女性にも好まれた。
履物としては,兵士や農民用のカリガcaliga(釘打ちしてある革底に細帯状の革を何本かわたしたもの),くるぶしの上までを柔らかい革で覆う短靴(カルケウスcalceus)があり,トガやトゥニカに身分を表す縞があったと同様,このカルケウスもパトリキウス用のものは最初赤い色で,のちには黒で区別されていた。またギリシア風サンダルも好まれた。
ローマの貴婦人は腕輪,首輪,耳飾,指輪,踵飾,ヘアピン,バックル,ブローチ(フィブラfibra)など多様な装身具を愛好した。これらは高価な金属製で,さらにダイヤモンド(指輪),真珠(耳飾),オパール,エメラルドなどの珠玉がちりばめられていた。カメオ浮彫のようなより大衆的な装身具には,オニックスや碧玉などの準宝石が用いられた。彼女たちはまた髪形の流行にも敏感で,黒髪をはやりの金髪に変えようと脱色したり,かつらを使ったりもした。結髪人による念入りな結髪と化粧は貴婦人が欠かさぬ朝の日課であったが,男性のなかにも身体中の毛をそぐか抜き取るかして女性のような肌になろうと努める色男や,化粧をする者までいて,詩人マルティアリスやユウェナリスの毒舌を浴びている。
ローマ人の元来の食生活は質素なもので,スペルト小麦のオートミールを主食とし,それに野菜,ニンニク,羊やヤギの乳から作るチーズ,果物が加わる程度で,肉をとることはまれだった。パン焼きは前2世紀ころ広まった。ローマ人は一般にパンとチーズのみの朝食,同じくパンとチーズのみか,それに冷肉,野菜,少量のワインを加えた昼食をとったが,どちらも軽い質素なもので,一方を抜く人もいた。
彼らの主餐は夕食(ケナcena)で,これは普通3コースから成り,最初のコース(グストゥムgustumあるいはプロムルシスpromulsis)では卵やサラダ,塩漬魚,腸詰,ヤマネなどがオードブルとして供され,蜂蜜入りのワイン(ムルスムmulsum)を飲んだ。次にケナ・プリマcena primaといわれる主菜が続き,普通はローストあるいはボイルした魚・鳥類や獣肉(豚,兎,猪,鹿,野生のヤギ,羊など)から成り,水で割ったワインを飲んだ。最後はケナ・セクンダcena secundaと呼ばれるデザート・コースで,リンゴ,柘榴(ざくろ)などの果物や甘味が供された。
富裕者の家にはトリクリニウムtricliniumと呼ばれる食堂があり,そこには方形テーブルを囲んで3台の臥台(トリクリニウム)がコの字形に配され,普通1台の臥台を3人が使用した。ローマ人はこの臥台に横たわり,ナイフと数種のスプーン,そしておもに指を使って食べた。食前とコースの間に奴隷が差し出す香り付きの水で指を洗い,ナプキンも使用していた。ただし,これは富裕者の食事風景であり,小型ストーブや火鉢以外の調理設備をもたないインスラの貧しい住民たちは,屋台で売られる持帰り用料理や食堂を利用するなどしていた。
一方,ローマの支配が拡大してその果実が流入してくると,上流階級の食卓はぜいたくになっていく。客人を招いての宴席では,孔雀,雷鳥,紅鶴の舌,鯔(ムルスス),ヤツメウナギ,スカルスという魚の内臓,牡蠣(かき),雲丹(うに),豚の子宮や乳房,松露,ナツメヤシの実など,帝国各地から取り寄せられた珍味が競われ,ワインはアペニノ山脈から運ばれた雪で冷やされた。古くはウァロ,また帝政期にはマルティアリスやユウェナリス,セネカや小プリニウスらが痛烈に批判した,このような浪費的奢侈の光景は凄絶で,満腹した胃にさらに珍味を入れるために吐瀉を故意に行い,セネカをして〈食べるために吐き,吐くために食べる〉と憤慨させている。また尿意を催しても臥台を立つことすらせず,奴隷がささげ持つ尿瓶で用を済ませてしまう横着者もいた。
財力を誇示するためのばかげた浪費の極致は,ペトロニウス作《サテュリコン》に登場する解放奴隷トリマルキオTrimalchioの宴席であろう。そこでは単に珍味にとどまらず,たとえば大盆を天空に模して各星座にちなんだ料理を載せたり,木製鶏の下から取り出された孔雀の卵のなかに調理された小鳥が丸まっていたりなど,さまざまな奇趣を凝らした料理が供され,宴は終わるかと思えばまた始まり,総計62種の料理・飲物が出されている。しかし,このような贅沢三昧の飽食は一部の権勢家,成金,美食家に限られたもので,同時代人からも厳しい批判を浴びていた点を忘れてはならないであろう。
執筆者:後藤 篤子
帝政期のローマ社会について,風刺詩人ユウェナリスは揶揄(やゆ)する。〈市民は政治的関心を捨ててしまって久しい。いまでは縮こまり,たった二つのことばかりをくよくよ切望している--パンとサーカスばかりを〉。
しばしば,〈パンとサーカス〉と呼びならわされているローマ人の世相は,〈ローマの平和〉の時代における民衆生活の堕落ぶりを象徴するものと考えられてきた。この表現のなかで,パンの意味するところは,民衆への穀物給付である。ローマによる地中海世界の支配が確立してくるにつれて,穀物を低廉な価格あるいは無料で給付する法案が提出されるようになった。最初の穀物法案は前123年G.グラックス(グラックス兄弟の弟)によって提出され,全市民あるいは貧民を対象として低価格で小麦を売却するというものであった。穀物の無料給付は前58年の護民官クロディウスPublius Clodius Pulcherの提案によって初めて実施され,これ以後,平民身分のローマ市民のすべてを対象とする無料給付が徐々に制度的体裁を整えるようになった。カエサルは穀物担当按察官職を設け,アウグストゥス帝の改革では穀物長官職が常設されて,騎士身分の帝室官僚のなかでも最も重要な職務とみなされた。このような穀物の無料給付にあずかった人々の数について,32万人まで増加した受給者がカエサルによって15万人に減じられたと伝えられているが,帝政期を通じてほぼ20万人前後であったと考えられている。これはほぼ成人男子ローマ市民数に当たり,その家族を含めたローマ在住の数十万人が穀物の無料給付の恩恵を受けていたわけである。
サーカスという言葉で表現されるところは,今日の曲芸ではなく,見世物興行一般である。これらの見世物は,円形競技場での戦車競技や競馬,闘技場での剣闘士競技をはじめとするさまざまな格闘技,円形劇場での演劇や黙劇に大別される。このような催物は,農耕民の戦士団による都市国家としての元来の性格から,軍事や収穫に関連した祝祭と結びついていたが,しだいに祭日つまり見世物の開催日が設けられ,2世紀後半のマルクス・アウレリウス帝の時代には,1年で135日にまで増加したと伝えられている。
ところで,〈パンとサーカス〉という表現で示唆されるローマ社会の特徴は,施与者と享受者との政治的関係から,しばしば,共和政期には官職候補者の票集めのための,帝政期には為政者による人心掌握のための,人気取り政策として考えられてきた。それは,施与者つまり為政者の側からの次のような発言に基づいている。〈施与や買収,あるいは国家の手による穀物の給付で籠絡された民衆が国家の安寧を妨げないように,暇つぶしの仕事を与えることを為政者は配慮しなければならない〉(サルスティウス),あるいは〈ローマの民衆をとくに二つのこと,“穀物供給”と“見世物”で掌握すること〉(トラヤヌス帝)。しかし,このような施与者と享受者との相互依存を民衆の物質的満足による脱政治化あるいは政治の腐敗としてとらえるのはあまりに近代的な解釈にすぎないことが指摘されている。
近年における社会学や文化人類学の発展は,新しい観点からこのような歴史現象の深層を掘り起こすことを促している。そこでは,ギリシア語の〈恩恵を施すeuergetein〉から造語された〈恩恵施与慣行évergétisme〉という観点が重視される。元老院貴族の寡頭政による共和政期においては,政治にあずかる人々は民衆の主人である。彼らが民衆に恩恵を施すのは,民衆の前で尊大にふるまうのではないことを装い,統治が民衆の幸福を目的としていることを理解させることによって,政治の尊厳さと彼らの権威を維持するためである。富裕者は権力の獲得のために〈恩恵を施す〉のではなく,権力を保持しているがゆえに〈恩恵を施す〉のであり,それによって民衆に敬愛され,統治は重厚さを増す。ローマ国家のような身分制的秩序の濃厚な社会では,権力の獲得という合理的目的のためではなく,権威の認知という非合理的気分のゆえに恩恵が与えられるべきであった。帝政期における皇帝の恩恵施与は,国家は皇帝であるとみなされることによって,ますます重要となる。神の恩寵を浴びる者はまず寛大な恩恵=人間の徳を施しうる者でなければならない。君主は恩恵を施す者として統治し,その善行によって神格化される。そこには,公生活と私生活との交錯する生活空間としての祝祭の世界が,近代社会よりもはるかな重みをもって登場する。このような恩恵施与慣行を生活する人々の意識あるいは心情といった観点から読み直してみるとき,〈権力による民衆の馴致〉あるいは〈再分配による集団の衡平〉といった政治的・経済的説明は一面的にすぎないことが理解されるのであり,社会学的・文化人類学的観点から〈パンとサーカス〉を再検討することは,ローマ社会の特質を考えるうえできわめて重要である。
執筆者:本村 凌二
ローマ(ラテン)人はインド・ヨーロッパ語系諸族に共通の,アニミズム観念を長く保持し,あらゆる事象に宿る霊を信じた。共和政初期までのローマ宗教についての資料は乏しいが,ローマ人の宗教が国家・社会ときわめて密接なつながりをもっていたことがわかる。彼らには来世や冥府の観念は薄く,神霊観念も現世の生活に結びついており,彼らの宗教行為は,自分たちの家を,そこに宿る神霊の力で守ってもらい,繁栄していくための祭祀を行うことであり,家(または耕地)の守り神ラレス,戸棚(貯蔵庫)の神ペナテス,家父長の守護霊ゲニウスなどの家内の神々が最も身近で尊ばれ祭られた。これらは家の祭祀(サクラsacra)として家父長を中心に怠りなく守り続けるべきものとされ,家系の継承はすなわちサクラの継承であった。
このような宗教観は国家の段階においても同様で,伝承では第2代の王ヌマ・ポンピリウスによってもたらされたとされる宗教儀礼は,国家の存立にとっても不可欠のものと信じられた。つまりここには神々に崇敬を払い,そのための祭儀をなすことによって,恩恵としての安寧と繁栄が与えられる,という神と人との相互授受の観念,ラテン語でdo ut des(〈神々たる汝が与え給わんがために我は与える〉の意)と表現される観念が見いだされ,このような観念は古代末期に至るまでのローマの宗教の根底をなしたといえる。ローマでは王自体が祭司の機能を果たしていたらしく,建国神話においても都市の起源がポメリウムpomeriumと呼ばれる神聖な円い土地に求められ,共和政期を通じて,そこは神聖な領域として保持され続けたこともローマ国家と宗教の強固なつながりを示す。国家の成長に伴って神官も増えた(サリ神官団,ユピテル祭司団,ウェスタの巫女)。古くは神官は貴族が独占し,のちになってもよい家柄の市民の就くべきものだったが,それは特殊な専門職ではなく,他の役職と同じく市民の公的政治経歴の一部をなしていた。
市民生活のあらゆる面において宗教儀式は重要な役割を果たした。農耕に結びつく国家的な祭典(ルペルカリア,サトゥルナリアなど)が数多くあり,一年の暦はそれら祭りや禁忌によって民会や裁判の開廷できぬ日を定めていた。民会も元老院も神意をうかがったうえでなくては開会しなかった。政務官の選出も神慮にかなって行わるべきものとされ,就任に際しても祭儀は不可欠であった。これらのことから,鳥の飛翔や動物の内臓によって吉凶を占う卜占官が必要とされた。これら卜占や犠牲の方式,祭司の衣服などにはエトルリア人の影響が大きい。その他宣戦に際しても神意が問われ,敗戦や災害のときには神々をなだめる祭儀やローマ市の清祓が行われた。戦争や大事業に際して将軍や政務官が神殿や,ときには身命を奉献する旨の誓願(デウォティオdevotio)をなすこともまれではなかった。
市民の崇敬を受けた神々は時代とともに具体的な像をもち,その数も増えた。最も古い女神の一つウェスタは元来私人の家のかまどの神であるが,国家の守護神に上昇した。このように個人の守神が国家神となった例には,門口の神ヤヌス,土地の境の神テルミヌスなどがある。自然を支配すると信じられたユピテルは早くより大神としてあがめられカピトル丘に神殿があった。ここにはのちユノ,ミネルウァの女神も合祀された。また軍神マルス,クイリヌス,サトゥルヌスなども主神と目され,それぞれに権能と特性をもち,さまざまの事象をつかさどるとされ,神殿がささげられた。しかしローマ神話は貧弱で,前4~前3世紀以後のギリシア文化流入により,ギリシアの神々がそのまま受容され,ローマの神々との同一化が行われて神話も借用された。シビュラの予言書も同様に伝えられてずっと重視され続けた。そればかりか治癒神アスクレピオス,大地母神キュベレも東方から入り,公認の神となった。しかし密儀と乱脈を伴うディオニュソス(バッコス)礼拝は厳しく弾圧された。
拡大に伴ってローマは自らの支配をイデオロギー的に強化すべく新たな守護神に頼ることになった。その代表がローマ女神であり,ほかに幸運の神格化フォルトゥナ,勝利の女神ウィクトリアが重視され,被支配民族の多くもこれを受容した。元首政を創始したアウグストゥスは共和政末期に衰退・退廃した一般の宗教・道徳を改善しようと神殿の再建や国家祭儀の復興に努め,ウェルギリウス,オウィディウスらの詩人も呼応して建国伝説や神々の体系をうたった。またアウグストゥスは自らのもたらした安寧を誇って〈平和の祭壇(アラ・パキス)〉を築き,そのうえ義父カエサルの神化を進めた。あたかも東方では現存の元首アウグストゥスを神としてあがめる,皇帝礼拝の動きが興り,皇帝の正統性の主張,帝国の統合に資した。以後の皇帝もイタリアやローマで現存の皇帝を礼拝することは許さなかったが,属州では共同体の連合などにより盛んに皇帝礼拝が行われた。他方皇帝の多くは死後神格化され,そのための神殿や祭司団がつくられ,これはローマ市において盛んに礼拝された。
帝政期にはこのように伝統の神々と,支配の手段とされた新たな神々の礼拝が公的宗教として存在し,それが上から奨励され,強制されるようになっていった。しかし一般国民はしだいにギリシア・ローマの神々から離れ,イタリアでも,より神秘的で現実の生活に密接にかかわり,来世の救いをも示す,東方起源の諸宗教が受容された。こうしてアスクレピオスなどに加えイシス,セラピスの崇拝,ミトラス教およびキリスト教その他多種の神々や宗教がローマ市にまで流入した。また広大な帝国各地では土着の神々が礼拝されていた。帝国は国家神と矛盾しない限りこれら諸宗教には寛大で,占星術すら宮廷に取り入れ,またミトラス教は軍隊で盛行し,3世紀後半の諸帝はこれを不敗の太陽神と重ねてその祭礼を推進した。しかし反ローマの民族運動と結びついたドルイド教やユダヤ教は徹底的に弾圧した。
無神論と解され,他の宗教慣習になじまないキリスト教は大衆の迫害を受けたが,帝国当局の本格的迫害は宗教統一を求めた3世紀後半ようやく着手された。キリスト教徒は東方・アフリカを中心に信者数を増やし,4世紀初めの大迫害をも失敗に帰せしめた。結局コンスタンティヌス1世によってキリスト教は公認され(ミラノ勅令,313),以後は国家の手厚い保護を受けて,ついには皇帝の理念的支柱になっていった。キリスト教は帝国各地に広まったがローマ元老院には4世紀末まで伝統宗教に固執する勢力が存続し,その他の神々もなお根強く礼拝された。
→キリスト教徒迫害 →ローマ神話
執筆者:松本 宣郎
ローマおよびローマ帝国の人口は,古くからの戸口・財産調査(ケンススcensus。英語センサスの語源)についての記事をもとにして,ある程度のことが推定される。戸口・財産調査は課税と軍事奉仕の基礎として行われ,初めは王,やがてはコンスル,そして前443年以降はケンソルの職務となった。それは5年ごとに行われ,トリブスとケントゥリア所属に従って,名前(ローマ市民の三つの名),年齢,財産が申告された。女性と子どもは数だけが家長によって申告された。共和政末になるとケンススは不規則となり,イタリアで行われた最後のケンススはウェスパシアヌスとティトゥスの治下であった。属州についてはシチリアのように共和政期から地方的なケンススが行われた所があるが,帝国政府の命令によるケンススはアウグストゥス以後である。都市化の早くから進んだ地方では,その遂行は容易であったが,それ以外の所は,新しい機関をつくって始めたので,土着民の抵抗にあうことも少なくなかった。
こうした制度のもとで登録されたローマの市民の人口について,共和政期には37万人の数字が残っているが,成人男子人口が前5世紀には平均12万人,前4世紀には16万人,前3世紀には30万人に近くなった。申告は1市で行われたので,ローマより遠隔地に住んでいる市民の不申告者は少なくなく,その数は領土の拡大とともにますます大きくなったと思われるから,上の数字は実数より低いとみなされる。前167年にローマ市民への課税が廃されたことは,ケンススの重要な理由がなくなったことを意味した。戦死者の増加,ラテン市と共同の植民に加わってラテン植民市に出て行った者はローマ市民権を失ったから,そのための減少,奴隷解放による市民数増加,ローマ市民権付与による増加など,さまざまな要因があるので,出生による自然的な増減の傾向を確かめることはできない。
前131/130年の市民数31万8823人は前125/124年に39万4736人へと6年間で24%の増加をみ,これはグラックスの改革によってこれまで申告しなかった市民が申告したためであると考えられ,この数は前115/114年にも39万4336人とほぼ維持されている。前89年ポー川以南の全イタリアへのローマ市民権付与の結果は,前86/85年には46万3000人であったが,前70/69年には90万人となって現れた。これらはローマ市で申告が行われて現れた結果であるが,前28年に行われたより組織的なケンススの結果は406万3000人であった。5倍近い増加の理由はケンススの組織化のほかに,前49年ガリア・キサルピナへの市民権付与,海外の植民市居住ローマ市民が含まれたためであろう。それより前の前225年に関して,ポリュビオスの伝えるイタリア半島の総兵員数を基礎にして,この年の半島の総自由人人口を約300万とする推定があるが,前28年の数字とともにイタリア半島の人口の程度を推し量る手がかりとなる。その後,前8年423万3000人,後14年493万7000人,47年598万4072人(タキトゥスによる)の数字が伝えられるが,アウグストゥスは市民の出生数を増加させようと苦心をしていることから考えると,上の数字は自然増よりもむしろ,属州人や解放奴隷へのローマ市民権付与によるところが多いと思われる。
ローマ市民以外の数字は断片的で,若干都市(周囲の農村地帯居住者を含む)についてのみ伝えられる。共和政末期のアレクサンドリアが自由人30万人以上,アウグストゥス時代のアンティオキアがこれよりやや下,後2世紀のペルガモンが約14万人,エフェソスもこれとほぼ同じ,後6/7年のケンススによるシリアのアパメイアが自由人11万7000人,カルタゴは30万ないし40万人などである。最大のローマ市については直接の数字が伝えられていないが,一般に約100万人と考えられている。これらの数字はすべて奴隷を含まないことが記憶さるべきである。
帝国全体の総人口についても数字は残されていない。しかしアウグストゥスの死の年,総人口は5400万であったろうとするベロッホK.J.Belochの推定(1886)は,多くの人によって今も従われている。後160年代の疫病の全帝国への蔓延によって,帝国人口は減少に向かう。4世紀にもこの傾向が変わらなかったことは,都市の縮小,農耕地の放棄などによって推定される。
執筆者:弓削 達
イタリア共和国の首都。人口255万(2005)。イタリア中部,中部アペニノ山脈に発するテベレ川の下流部の両岸に位置している。市の中心部は,河口から約25kmの所にあるが,ローマ市の行政領域は,イタリアの諸都市の中でも例外的に広く,海岸にあるレオナルド・ダ・ビンチ空港,フィウミチーノ漁港,リド・ディ・ローマの海水浴場も市域に含まれる。1929年のラテラノ協定により,市域内にバチカン市国(約44ha)が成立した。スプロール状に宅地化が進んでいるが,市域内には耕地や放牧地がまだかなり残っている。
古代ローマは,テベレ川の左岸,いわゆる〈ローマ七丘〉の谷間に発達したが,2000年余りの間に,丘の形そのものにも人工的改変が加えられ,また,浸食作用により丘が削られ,谷間が埋められた。この古代ローマの中心部からアニエネ川にまで至るローマ台地は,アルバノ山地の溶岩流の末端部であって,溶岩および火山灰から成っている。左岸部の丘陵は,カンピドリオの丘の標高59m,パリオリの59m,モンテ・アンテンネンの64mのようにそれほど高くない。これに対して,砂岩および砂礫からなる右岸部には,標高88mのジャニーコロの丘をはじめモンテ・マリオが139m,モンテ・ベルデ71mというように,かなり高い丘が住宅地になっている。ローマの都心部でテベレ川の水位は約12mであり,市街地の低い部分は標高14~16mのテベレの谷底部に発達しているから,現在でも,ローマは起伏が非常に大きな都市であるということができる。ローマ市内でテベレ川はかなり蛇行しており,また,その流量の変化もかなり不規則なので,古代以来何回か氾濫を繰り返した。洪水の危険がほぼなくなったのは20世紀になってからのことである。
執筆者:竹内 啓一
伝承では,ローマの建国つまり都市国家ローマの建設は前753年であるが,すでに前10~前9世紀ころ,パラティヌス丘にラテン人,エスクイリヌス丘にサビニ人が居住しており,その他カピトリヌス,クイリナリス丘にも集落がみられた。前650年ころ,エトルリア人支配の影響下,ラテン人とサビニ人の個別的集落が合体し,〈集住〉によって,七丘を中心に,カピトリヌス丘を砦,共同の神域とし,その下の低地を広場とする都市国家ローマが成立した。ポメリウムpomeriumという特別な儀式で聖別された境界線が町を囲み,市域と市外を分けたが,最古の町は四つに区分された。神聖不可侵のポメリウムの内が宗教的な意味での〈市urbs〉であり,国家的な儀式が行われ,ローマ市民の完全な自由が守られるのは市内に限られ,市域と市外は画然と分けられた。
一方,しだいに市壁や大下水溝も設けられ,地方商業の中心としての町の外形も整っていく。その間,貴族と平民の身分闘争,近隣の諸共同体に対する戦争により国家ローマの力も伸長していき,前390年ガリア人の侵攻で一時町が破壊されたが,アッピウス・クラウディウスによる水道(ローマ水道)と街道(アッピア街道)の建設は,都市ローマの民生の安定と経済的発展に資し,ラティウム地方の政治的・経済的中心としての地位も確立する。次いでイタリア半島の平定,対外戦争の勝利により国家ローマが地中海世界の覇者となるとともに,ローマの町の経済的繁栄もめざましく,政争が渦巻き,半島各地からの無産者の蝟集(いしゆう)するところとなる。それに対するグラックス兄弟以降の貧民対策は,結局,穀物の無料給付と大々的な催物の開催という形の人心収攬策の展開となった。とくに共和政末期の有力政治家の覇権争いの一つの焦点は都市ローマにあった。その間,中心広場であるフォルム・ロマヌムの整備や各種の公共建築物の建設もスラやカエサルの手で進められていく。
次いで秩序を回復したアウグストゥスの手で,ローマは〈煉瓦造の町から大理石の町〉に変えられたばかりでなく,都警大隊,夜警大隊を設けて治安・防災に意が配られ,水道を整備する一方,穀物の無料給付と見世物の開催で人心を収攬しつつ,100万以上の人口を擁する町の民生の安定が講じられた。このような政策の基本線は諸皇帝に継受され,市民は〈パンとサーカス〉を与えられて,太平を謳歌することができ,諸皇帝のフォルムや公衆浴場,競技場,円形闘技場,劇場,諸神殿も建てられ,町は世界帝国の首都たるにふさわしい外観を呈し,帝国の津々浦々からの人を吸収することになった。しかし,コンスタンティヌス1世(大帝)は首都をビュザンティウム(コンスタンティノープル。現,イスタンブール)に移し,さらに410年には西ゴート族のアラリックの,455年にはバンダル族のガイセリックの侵攻を被り,町もしだいに荒廃し,以後は教皇の町ローマになっていく。
執筆者:長谷川 博隆
5世紀におけるゲルマン系諸族の侵入によって政治的中心としてのローマは衰退し,その後ゴート族とビザンティン帝国との戦いにより,イタリアの他の都市と同様,古代ローマの主要な建物や建築物は破壊され,ローマはほとんど廃墟と化した。政治的中心としての役割を失ったローマにおいて,教会および教皇の役割が大きくなっていった。7世紀から8世紀にかけてのローマは,バチカンとラテラノ教会の周辺に門前町風に市街地が形成され,古代ローマの市街地のあった所には,何人かのローマ貴族が,古代の建造物を要塞風に造り直して相争っていたのである。当時の人口は約3万5000にまで減少していたと推定される。ローマの覇権を握った貴族あるいは豪族は,フランクやランゴバルドなどの外部勢力の支持を得ていたので,教皇の政治的な影響力はかなり限定されたものであった。ローマがランゴバルドの侵入を完全に退けたのは,カール大帝の支持を受けた教皇ハドリアヌス1世の時代のことである。しかしその後も,教皇はローマ貴族の反乱に悩まされ,教皇レオ3世が,800年にカール大帝がローマに戴冠式に来たおりに,今も残るノメンタナ橋まで出迎えたのは,フランク王の力を借りて自らの政治的権力を確立しようとしたからにほかならなかった。
カール大帝の戴冠は5世紀の西ローマ帝国滅亡後,最初の西方における皇帝の出現であり,同時に,ローマがビザンティン皇帝から分離して西方キリスト教世界の中心になったことを意味した。政治的・軍事的には,カロリング朝の衰退とともに,ローマはイスラム教徒の侵入やスポレト公の支配を被ることになった。962年のオットー1世の戴冠と神聖ローマ帝国の成立により,以後ローマでは,教皇権と皇帝権の対立という問題が起こり,ローマおよびその周辺の貴族および豪族の抗争がこれにからんだ。12世紀になると,ローマ,ラチオの貴族を主体にしてローマのコムーネが成立し,神聖ローマ皇帝から自治権を獲得して,教皇としばしば対立したが,イタリアの他のコムーネと異なり,ローマは産業的にほとんどみるべきものをもたず,教皇庁の存在と聖職者,ローマへの巡礼たちに経済的に依存していたので,ローマのコムーネは弱体であった。古代ローマのアウレリアヌス帝時代の城壁内の大部分は,中世を通じて牧草地や農地や荒地となっていた。13世紀初めのインノケンティウス3世がローマにおける教皇の地位の確立を図ったが,オルシーニ家やコロンナ家などのローマの主要な貴族は互いに熾烈な争いを繰り返し,また教皇とも対立し,さらに歴代教皇は神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世との厳しい闘争を経験しなければならなかった。ボニファティウス8世は1300年を最初の聖年に定め,ローマは巡礼であふれ,ローマ大学が創設された。しかし,教皇首位権を主張したボニファティウス8世は,フランス国王と対立することになり,1309年教皇庁はアビニョンに移され,教皇権の衰退とともにローマ市もさびれていった。これを助長したものとして,貴族の抗争とそれに反発したコラ・ディ・リエンツォの共和革命による混乱,48年に始まるペストの流行,49年の大地震などがあった。77年グレゴリウス11世はアビニョンからローマに戻ったが,1417年のシスマ(教会の分裂)解消のときまで,ローマにおいては貴族の対立,さらにはナポリ王の干渉が続いた。
1417年,コロンナ家出身のマルティヌス5世が,コンスタンツ公会議において教皇に選ばれ,宗教上の権威のみでなく世俗的勢力の拡張に努めた。以後,ローマの主要貴族のみでなく,イタリアの政治的有力者の関心は教会勢力と対立することではなく,一族の中から枢機卿や教皇を出して,教会勢力との結びつきを強めることにあった。16世紀前半のパウルス3世のころまで,バチカンでは,いずれもイタリア大貴族出身の,いわゆる〈ルネサンス教皇〉が続き,ローマ市は飛躍的な発展を遂げた。
ローマは,中部イタリアに広大な領土をもつ教皇領(教会国家)の首都としての性格をもつようになり,経済的にも大いに繁栄した。文化的にみた場合,ローマはフィレンツェなどより少し時期的に遅れるが,15世紀末から16世紀前半にかけてルネサンス期を迎え,古代ローマの廃墟の後に,新しい都市計画に従って多くの宮殿や教会の建設が開始された。古代ローマの廃墟にあった大理石やエジプト製のオベリスクもそのために利用された。サン・ピエトロ大聖堂の再建が教皇ニコラウス5世(在位1447-55)の時代に着手され,17世紀後半に完成した。シクストゥス4世はシスティナ礼拝堂を建立して,当時のイタリアの第一流の画家に腕を振るわせたし,買収によって教皇になったアレクサンデル6世も,ブラマンテ,ラファエロ,ミケランジェロらを庇護した。ルネサンス期のローマは,ユリウス2世によって計画されたジュリア通りからクイリナリスの丘にまで至る地帯であって,バチカンの門前町的性格が強い。有名なルネサンス建築としては,そのほかファルネーゼ宮殿などがある。
ローマの人口も,ルネサンス期に急速に増大した。しかしフランス王フランソア1世と皇帝カール5世のイタリアをめぐる争いで教皇がフランス王と結んだために,ローマはスイス人・スペイン人傭兵からなるカール5世の軍隊によって,1527年〈ローマ劫掠〉と呼ばれる侵略を受け,教皇はサンタンジェロ城に逃げ込み,多数の聖職者や市民が殺されて,一時的に人口は9万から3万に減少したが,16世紀中葉には,再び10万近い人口を回復した。
16世紀後半のローマは,多くの面で反宗教改革運動の影響を受けた。イエズス会が創設され,教皇庁は海外伝道に力を注ぐようになった。厳しい宗教裁判も行われるようになり,1600年には,ルネサンス期ローマの一中心,カンポ・デイ・フィオリ広場で,G.ブルーノが火あぶりの刑に処せられた。ローマ市民の重税に対する不満はあったが,シクストゥス5世などにより,コルソ通りを中心にした地区に,いくつかの道路網が計画され,後のバロック時代のローマの基礎がこの時期に造られた。
反宗教改革の運動にもかかわらず,ローマにおいてルドビジ,ボルゲーゼ,バルベリーニ,パンフィリなどのローマの名門が,教会国家の支配機構を担って富を蓄え,血縁関係によって権力を手に入れるネポティズモは,ルネサンス期から現代に至るまでのローマの伝統にさえなった。17世紀のローマにはバロック文化の花が咲き,多くの宮殿,広場,教会が造られたが,その富の源泉は,これらのローマ貴族であった。しかし,17世紀を通じて西ヨーロッパの政治および文化の中心は北西ヨーロッパに移り,教会国家の政治的中心としての地位を保ちつつも,ローマは徐々に宗教的および文化的巡礼の対象としての意味が大きくなってきた。
17世紀末のローマは住民の貧困,教会国家の財政困難など多くの問題を抱えていたが,ルネサンス教皇とバロック貴族とによって創られ蓄えられた多くの文化遺産をもったヨーロッパ有数の文化都市であった。そしてこのころから,古代ローマの遺跡に対する関心も,ローマを訪れる外国人の間に高まってきて,18世紀になると古代遺跡の発掘も行われるようになった。しかし,ローマを訪れた北西ヨーロッパ諸国の文人や貴族が接したのはローマの貴族社会であり,トラステベレやポルトゥエンゼ門付近に住む,半ば浮浪者風の細民はせいぜい彼らのエキゾティシズムの対象であるにすぎなかった。
1775年に教皇に選ばれたピウス6世は,いささか時代錯誤的に教権の強化とローマ市の新しい都市改造を企てて,神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世と争った。他方,時代はフランス革命の精神が全ヨーロッパに影響を及ぼしつつある時期にはいっていた。教皇領内でも,ジャコバン分子の活動が活発化していく中で,教皇はフランスの国民議会が決定した教会憲法を退けたため,フランス国民軍の攻撃を何回か受けていくつかの教皇領を奪われた。さらに98年には,ローマをフランス軍に占領され,短期間ではあるが,カンピドリオにローマ共和国の成立を許し,ピウス6世はフランスのバランスに連行されて,そこで没した。
ローマ共和国の経験は,新しい教皇ピウス7世に,教会国家の社会問題に目を向けさせる契機になったし,北西ヨーロッパの都市に比して,ローマ市のまったく見劣りのする保健・衛生その他の公共サービスの改善に対して,多少は関心がそそがれるようになり,1809年のフランスの直接統治下において,このための努力がさらになされた。すなわち,ナポレオンによって知事に任命されたカミーユ・ド・トゥルノンは,それまでの教会国家の美的および建築家的観点からのみする都市計画に対して,機能的に道路および公共施設を配置し,パリの例にならって,老朽化し不衛生なスラム地区の再開発を図ろうとした。フランスの統治は5年しか続かなかったので,この計画はほとんど実現されなかったが,ローマでの最初の近代的都市計画として,とくにイタリア統一後のローマの都市計画にかなりの思想的影響を与えた。ナポレオン没落後のローマにおいては,ピウス7世,レオ12世のように綱紀を粛正し,華美な生活を戒めて,上からの近代化を図ろうとする教皇が続いたが,寄生的貴族上層階級の退廃的な生活は依然として続き,他方,民衆の間では,カルボナリ党の活動の影響がみられるようになり,リソルジメントの理念が浸透していった。48年から49年にかけては,一部中産階級の支持をも得て,ガリバルディなども参加した共和政体がローマに成立したが,教皇はフランスの軍事力の支持を得て,ようやくこれを鎮圧することができた。61年,イタリア王国成立後も教会国家がフランス軍の支援を得て,ローマとその周辺部を支配し続けた。ローマが,イタリア王国軍によって占領されたのは,70年,普仏戦争のためにローマ防備のフランス軍が手薄になったときである。翌71年,イタリア王国の首都はフィレンツェからローマに移された。
当時のローマの姿といえば,アウレリアヌスの城壁の内部でも,各所に羊がさ迷い,ディオクレティアヌス浴場をはじめとする古代ローマの廃墟が,十分発掘されることもなく各所に散在していた。貧しい人家が集中していたのは,テベレ川に沿った地域で,ルネサンスおよびバロック地区には,豪華な宮殿と貧しい民衆の住居が混在していた。サンタ・マリア・マッジョーレ教会,クイレナーレ宮殿,1862年に建設された旧終着駅(現在の駅前広場)などは,市街地のはるかかなたに孤立していて,まわりにわずかな民家を集めていたにすぎない。
教皇ピウス9世は,イタリア国王の保障法を認めず,自ら〈バチカンの囚われ人〉になった旨を宣言して,イタリア王国と対立し,ここに1929年ラテラノ協定によって解決されるまでの〈ローマ問題〉が生じた。すでにイタリア王国では,1866年および67年の法律によって,教会財産を没収することが決定されていたが,ローマ市にこれが適用されたのは73年6月のことである。
十分な都市施設をもたないローマが,イタリア王国の首都になったことによって生じた最初の大きな問題は,膨大な官僚機構をどこに吸収するかということであった。結果として,市内各所に散在する旧修道院などの没収した教会財産および買収した宮殿などにまったく無秩序に各省が割拠することになった。第2次大戦後,いくつかの省の建物が郊外部に建設されたが,旧市街地の各所に官僚機構が無秩序に分散していることによる非能率な状態は,現在でも解消していない。
1870年に約21万であった人口は,ローマが首都になることによって急増し始めた。81年には27万2000,1911年には50万6000,36年には109万という急増ぶりである。当然のことながら市街地は拡大していった。1873年,イタリア王国首都として最初の都市計画が立案された。この都市計画は,旧市街地と終着駅との間,ナツィオナーレ通り,九月八日通りなどの目抜通り,プラト地区に中産階級向けの住宅地区を整備することであった。産業といえば,トラステベレのタバコ工場などごく限られたものしかなく,教会国家時代からの細民地区には失業者があふれていたので,当初の流入人口は,官僚を主とする中産階級であり,建築労働者はローマ市内に事欠かなかった。
このようにして,ほぼ10年の間にローマ市はその姿を大きく変えたが,同時にいくつかの新しい問題が生じてきた。人口の急増に比して市場などの公共施設が不足し,食糧の供給が少数の特権商人に集中したこと,ラチオ地方およびアブルッツィ地方などから貧しい農民が流入し始め,彼らにより周辺部にボルガータborgataと呼ばれるバラック群が造り出されたこと,コロンナ広場を中心とする都心部の交通渋滞などがそれである。そこで,83年新しい都市計画がローマ市議会で採択された。ルネサンス・バロック地区を通り抜けるビットリオ・エマヌエレ2世通りが建設され,クイレナーレの丘の下を通り抜けるトンネルとトリトーネ通りが開かれることによって,都心部の交通難はかなり緩和された。他方,郊外のボルガータと旧市街地との間に新しい住宅地の建設が進み,これが不動産投機の対象となってブームを引き起こした。ボルガータのようなバラック地区に関しては,イタリア経済が繁栄を迎えるジョリッティ時代まで,その改善にはほとんど手がつけられず,これらの地区では80年代には,5歳までの乳幼児死亡率は50%を超えたという報告がある。
90年代になると,社会主義者やアナーキストのグループの活動がみられるようになり,ジョリッティ政府のもとで,いくつかの改良主義的な法律がつくられた。1909年にはエルネスト・ナタン市長のもとで,新しい都市計画および建築基準が設けられたが,このとき開発地区に指定された93万km2のうち,55%の土地が八つの不動産会社の所有地であったことからも明らかなように,この都市計画は不動産投機を助長するものであった。しかし他方では,11年に市営のバス・電車会社(ATAC),12年には市営電力会社(ACEA)が設立されて,市民の一般的条件もかなり改善されていった。
第1次大戦後の経済不況に対して,政府は土木事業などの公共投資,住宅融資および住宅建設をもって対処しようとした。近代工業を欠くローマにおいては,中産および上層階級のためのお屋敷町と低所得または半失業状態の人々の住むボルガータとの二重構造は,容易に解消されなかった。ファシスト政権の下,25年より低所得者向けのアパートの建築が本格的に開始されたが,他方,古代ローマ帝国の再建をスローガンとしたファシスト政権は,いくつかの記念碑的な建造物や広場・道路で首都ローマを飾りたてた。また,流入する低所得者層に対しては,画一的な建築のボルガータを計画的に建設した。35年ムッソリーニは,ローマ南郊で万国博覧会を42年に開催することを決定し,土地の整備およびローマ市と万国博予定地EUR(エウル)との間の道路の建設に着手した。また,終着駅の東部に広大な大学都市を建設した。
ファシスト政権時代にローマの姿は大きく変わったし,外延的にも大きな発展を遂げた。権力者の権威を示すために,町を飾りたてたという面はあるが,低所得者階層向けの住宅建築など福祉面でかなりの貢献があったことも見のがせない。また,地下鉄の建設やいくつかの道路の拡張によって,都市内交通の改善も行った。しかし,アフリカ侵略から第2次大戦へと戦時経済の泥沼に落ち込んでいく中で,ローマの近代都市への改造にはおのずと限界があった。
第2次大戦中の空襲によるローマの被害はごくわずかであった。連合軍がイタリア半島を北上してきたとき,ローマは無防備都市を宣言し,44年6月4日,ローマは連合軍により無血占領され,たくさんの貴重な文化財は戦争による破壊から免れた。
第2次大戦後のローマの発展および変化はきわめて著しい。人口は1951年の155万6000から80年には約2倍の280万台に増大しているし,通勤圏を含めたローマ大都市圏は人口約350万と考えられている。
第2次大戦後,何回か都市計画が立案され,また,建築基準,文化財の保護に関する法律の改正も何回かなされた。ファシスト政権の遺産であるEURは,官庁および高級住宅からなる副都心として生まれ変わり,1960年,ローマでオリンピックが開催されたのを契機にして道路網の整備がなされた。1950年以降,イタリア政府が工業の北部集中に歯止めをかけて,低開発地域の経済発展を図る政策を実施した中で,それまで工業をほとんどもたなかったローマの郊外に,ローマという大市場を目当てにした工場が多数建設されるようになった。また外環状道路が完成し,ここからイタリア各地に高速自動車道路網が延びて,ローマはイタリアの陸上交通路の拠点となった。
混合経済体制をとる第2次大戦後のイタリア共和国において,ローマの官僚機構はますます肥大化した。マス・ツーリズムの発展によって,ローマを訪れる観光客の数は飛躍的に増大した。このように,第2次産業の発展はいくらかみられるものの,その大部分は建設業であり,ローマは基本的に第3次産業の都市である。1970年のデータについてローマ県をみると,就業人口の72%が第3次産業であり,所得について第1次,第2次および第3次産業の比率をみると,それぞれ3%,20%,77%になっている。
世界の大都市と同様に,ローマも多くの都市問題を抱えている。とくにローマにおいて深刻化している問題をあげれば,1960年代および70年代を通じて,アパート建設という形で不動産投機が盛んになされ,市街地がローマ平原にスプロール状に拡大したことである。そのための,道路,上・下水道,電気,ガス,交通機関の整備のために,ローマ市は巨大な赤字を抱え込んでいる。第2にあげられるのは都心部の交通難である。文化財の保護という観点から,歴史的都心部の再開発は不可能で,都心部への普通車の乗入れは原則として禁止されているが,それでもバス,タクシーおよび都心居住者の車で,ローマの都心部はヨーロッパの都市の中で最悪の交通渋滞を引き起こしている。地下鉄の建設は遺跡にぶつかるたびに中止されるので,非常な年月と経費を必要とする。第2次大戦後ローマを東西に横断する路線の建設には20年以上を要したのである。第3に,イタリア経済の慢性的かつ構造的な不況の中で,ローマは失業および半失業者の累積する町となっている。麻薬の売買やさまざまな犯罪など社会病理的現象が,近年ますます顕在化しているし,ローマ大学は収容能力の10倍近い登録学生を抱え込み,そのかなりの部分は実質的には若年失業者である。
〈永遠の都〉という言葉が,しばしばローマに冠せられるが,詳細にローマをみるならば,古代ローマの部分がみごとな廃墟として残っているのは,そこにおける居住が中世以降放棄されていたからなのであり,ルネサンス・バロック期のローマは,そこにたくさんの文化財を集めているが,現在のローマの住民の大部分にとっては,そこはもはや生活の舞台ではない。1975年以降,市政は左翼勢力によって担われているが,財政赤字をはじめとする諸困難に直面しており,短期的にはこれらの問題は解決されそうもない。長期的には,管理中枢機能を外縁部のエウル,チェントチェレ,ピエトララータにまとめ,これらを高速自動車道で結びつけることなどをはじめとする都市計画が立てられている。
執筆者:竹内 啓一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イタリア共和国の首都。イタリア中部、ラツィオ州の州都で、ローマ県の県都でもある。英語名Rome。市域(コムーネ)の面積は1507.6平方キロメートルで、イタリアの都市のうちでもっとも広い。人口245万9776(2001国勢調査速報値)。市内に面積0.44平方キロメートルのバチカン市国があり、カトリック世界の宗教中心地ともなっている。また、古代のローマ時代から続く古い歴史を反映して「永遠の都」と称される。ローマ歴史地区は教皇領、サンパオロ・フォーリ・レ・ムーラ教会とともに世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。
[藤澤房俊]
地中海の一部をなすティレニア海に注ぐテベレ川が市内を貫流し、市域は河口から約25キロメートル上流の平野と丘陵地帯に広がっている。ローマ発祥の地であるテベレ川左岸(東)の旧市街は、カンピドリオ、パラティーノ、アベンティーノ、エスクイリーノ、クイリナーレ、チェリオ、ビミナーレの標高50メートル内外の七つの丘に囲まれた洪積台地からなる丘陵地帯に位置している。最高点はモンテ・マリオの239メートル。東にアペニン山脈、北東にサビーネ丘陵、東部にアルバーノ丘陵が控えている。
気候は地中海性のため温暖であり、夏は気温が高いが湿度は少なく、冬は零下4℃以下に下がることは少ないが、トランスモンターナとよばれる北風のために天候が荒れることもある。降水量は9~12月にもっとも多く、年降水量は653ミリメートルである。月平均気温は1月が8.1℃でもっとも低く、7~8月は24.5℃でもっとも高い。年平均気温は16.1℃である。
[藤澤房俊]
市内あるいは近郊を結ぶ主要な交通機関は、市電・市バス公社(ATAC)とローマ電鉄会社(ACOTRALEFER)の経営するバスと市電である。地下鉄は、テルミニ(終着)駅経由で郊外のチネチッタとバチカン市国に近いオッタビアーノとの間、およびテルミニと副都心エウルのラウレンティーナとの間の2路線がある。市街地と周辺近郊を結ぶ道路に「オリンピック環状道路」があり、国内の主要地に通じる道路としては、イタリアを南北に縦断する高速道路「太陽自動車道路」(アウトストラーダ・デル・ソーレ)があり、ローマ―ナポリ、ローマ―フィレンツェを結んでいる。鉄道網は、第二次世界大戦直後に完成したテルミニ駅を起点に、幹線がイタリア各地に、また国際列車がヨーロッパ各地に発しており、近隣都市との連絡線も付設されている。空港は、南西約35キロメートルのフィウミチーノにレオナルド・ダ・ビンチ・ディ・フィウミチーノ空港があり、ローマに発着する国内線および国際線の大部分を取り扱う。また、南東約15キロメートルにチアンピーノ空港があり、近距離の国際線・国内線に使用される。
[藤澤房俊]
ローマは消費的都市の性格が強く、産業は郊外に存在する中小規模の機械、自動車の車体、鉄道車両、自転車、オートバイ、繊維、食品加工などの工場がみられるにすぎない。市内には皮革製品、銀細工、宝石、象眼(ぞうがん)、モザイク細工、彫刻、鋳金、製本、ファッション関係などの小規模な伝統的手工業が存在する。農地はローマ市域にかなり広く存在するが、疎放な放牧地が多い。農産物の大部分は、ラティーナの農業集散地やフィウミチーノの干拓地で行われる集約的農園のほかに、イタリアの各地から供給されている。
ローマの労働人口のほとんどが官公庁関係、建設業、手工業、商業、サービス業などに従事している。とくにローマのもっとも重要な産業である観光サービス業は、「永遠の都」ローマの歴史的遺産とバチカン市国の存在によるところが大きく、国の内外からの観光客・巡礼者が年間1000万人以上も訪れ、ホテルや商店などの観光関連産業を潤し、ローマの経済を支えている。
[藤澤房俊]
ローマは、その発祥の地であるテベレ川左岸にある七つの丘を中心につくられた旧市街と、皇帝アウレリアヌス(在位270~275)の時代につくられた市壁の外側に広がる新市街からなる。テベレ川の右岸にカトリックの総本山で、教皇庁の所在地であるバチカン市国、2世紀にハドリアヌス帝が墓としてつくり、その後教皇の住居、牢獄(ろうごく)と変遷を重ねて現在は武器博物館として利用されているサンタンジェロ(聖天使)城、最高裁判所などがある。旧市街は、市内の交通の結節点であるベネチア広場を中心に多くの道路が放射状に広がっている。まず、ベネチア広場の南側に、イタリア王国の初代国王ビットリオ・エマヌエレ2世記念堂がある。無名戦士の墓もある白大理石でつくられたその巨大な建物は、ローマ市民から「世界最大のタイプライター」あるいは「クリスマスケーキ」とよばれている。その建物の背後に、ローマ発祥の地として有名な七つの丘の一つカンピドリオの丘がある。ベネチア広場の西側に、かつてムッソリーニが官邸とし、そのバルコニーから民衆の歓呼にこたえたベネチア宮殿があり、現在は美術館として利用されている。広場から北に向かって長さ1500メートルのコルソ通りが延び、楕円(だえん)形のポポロ広場に至る。この広場にはアウグストゥス帝がヘリオポリスから持ち帰ったオベリスクが立ち、ローマの北の門とされるポポロ門がある。コルソ通りには、ローマでもっとも交通量の多いコロンナ広場があり、そこにはマルクス・アウレリウス帝によるゲルマン遠征のオベリスク(高さ30メートル)が立っている。その広場に面して、総理府となっているキジ宮殿がある。
コロンナ広場から東にトリトーネ通りを抜けると「海王トリトンの泉」のあるバルベリーニ広場に至る。この広場の近くに、国立絵画館となっているバルベリーニ宮殿がある。その付近のバルベリーニ広場からボルゲーゼ公園に抜けるピンチャーナ門までをベネト通りとよぶ。この通りはローマ第一級の繁華街として知られ、ホテル、航空会社、カフェーが並んでいる。ボルゲーゼ公園は17世紀につくられ、ボルゲーゼ家出身の枢機卿(すうききょう)コレクションを中心にしたボルゲーゼ美術館や馬場などがある。この公園は、ローマの中心に位置し、広大な敷地で緑も多く、市民の散策、憩いの場となっている。バルベリーニ広場からシスティナ通りがあり、この通りの行き着くところにトリニタ・ディ・モンティ教会がある。その前のスペイン階段を下りると「小舟の噴水」のあるスペイン広場に出る。この広場からコルソ通りに至るのがコンドッティ通りで、衣類や装飾具を売る高級品店が並んでいる。
ベネチア広場から南東にフォリ・インペリアーリ通りが延びており、その右側に古代ローマの政治・経済の中心地で公会場であったフォロ・ロマーノの遺跡がある。その通りの到達点に巨大な円形闘技場コロッセオ(コロセウム)がある。それと並んで、パリの凱旋門(がいせんもん)など多くの他の凱旋門の原型となったコンスタンティヌス帝の凱旋門があり、315年にマクセンティウス帝を破ったのを記念してつくられた。そこから南約1キロメートルにカラカラ浴場跡があり、夏の夜にはここで野外オペラが催される。また、その近くに国連機関の国連食糧農業機関(FAO)の本部がある。ベネチア広場から北東にナツィオナーレ通りを進むと、中央に噴水のある共和国広場、別名エセドラ広場に至り、さらに進むとテルミニ駅に至る。エセドラ広場に面して、ディオクレティアヌスの浴場跡につくられたローマ国立美術館、通称テルメ(浴場)美術館がある。ベネチア広場から北西にビットリオ・エマヌエレ2世通りを抜けるとバチカン市国に至る。その間に、天体の7神を祀(まつ)ったローマ神殿として紀元前27年に建てられ、その後改築されて紀元後609年にキリスト教の教会となったパンテオン、また17世紀につくられたバロック期ローマの代表的広場であるナボーナ広場がある。そこには、ベルニーニの手になる世界の四大河川(ドナウ、ナイル、ガンジス、ラ・プラタ)を意味する四つの彫像(河の噴水)がある。
教会堂には、バチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂(326創建、1452~1626改築、ルネサンス様式)のほかに、ローマ市内にサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ教会(6世紀創建、1646~50改築、バロック様式)、サンタ・マリア・マッジョーレ教会(432創建、ファサードは1741~43年のネオ・クラシック様式)、サン・ロレンツォ・フォーリ・レ・ムーラ教会(4~13世紀、バシリカ)などがある。また、ローマからイタリア半島南端のブリンディジまで続くアッピア街道(前312建設)には当時の敷石が残っているが、その街道のサン・セバスティアノ門から10キロメートルほどのサン・カリストに、カタコンベとよばれる大きな地下墓地がある。ここはキリスト教徒が迫害の難を逃れたところでもあり、現在では巡礼地の一つとなっている。
市の南10キロメートルに副都心エウル(EUR。ローマ万国博覧会の略称)がある。ムッソリーニ時代の末期の1942年に予定されていた万国博覧会会場として建設が開始されたが、第二次世界大戦後は副都心として新しい都市計画に基づいて整備された。ここには厚生省、ENI(エニ)(全国炭化水素公社)などの政府・公社諸機関、ローマ文明博物館、1960年の第17回オリンピック大会のためにつくられたスポーツ宮殿など、ローマ市内ではみられない現代建築物がある。
[藤澤房俊]
1303年創立のローマ大学はボローニャ大学(11世紀創立)に次ぐ古い歴史をもち、イタリア最大規模の13学部を擁する。ほかに、カトリック大学医学部、教皇庁管轄の諸大学(グレゴリアーナ、ラテラネーゼ、アンジェリコ、アントニアーノなど)、美術アカデミー、サンタ・チェチーリア音楽学校、修復専門学校、演劇学校、舞踊学校など数多くの高等教育機関や専門学校が存在する。また、リンチェイ・アカデミー(イタリア・アカデミーの後身)のほかに、世界の多くの国が学術研究・紹介の機能を果たすアカデミーをローマに置いている。
博物館や美術館も多く、エトルリア人の遺物を中心に展示するビラ・ジュリア美術館、ギリシア・ローマの彫刻などを収蔵する(ローマ国立)美術館、ルネサンス期の絵画など豊富なコレクションを有するボルゲーゼ美術館、バルベリーニ美術館、イタリアのみならず世界中の近・現代美術の豊富なコレクションを誇る国立近代美術館などがある。図書館には国立図書館、国立公文書館、ローマ大学内のアレッサンドリーナ図書館のほかに、美術史、中世史、近・現代史などの専門的図書館が数多くある。さらに、バチカン市国にも、世界屈指の美術館、博物館、図書館が置かれている。
音楽・演劇関係では、1671年に創設されたローマ国立歌劇場をはじめ、数多くのコンサート・ホールや劇場がある。また、イタリアの映画製作のメッカともいえるローマ郊外のチネチッタからは、多くのイタリア映画の傑作が生み出された。テベレ川右岸には5000人近い職員が働くイタリア放送協会(RAI(ライ))があり、テレビ、ラジオを放送している。スポーツ施設としては、1960年のオリンピック・ローマ大会のメイン・スタジアムがフォロ・イタリコにあり、サッカー試合などが盛んに行われる。テベレ川沿いには多くの私設のスポーツ・クラブがあり、ボートやテニスが盛んである。
[藤澤房俊]
イタリア王国が1871年に首都をローマに置いたとき、人口は22万であったが、その後出生率の上昇やイタリア各地からの人口流入によって、約13倍の284万(1981)となった。しかし、1970年代以降の人口流入の減少、出生率の低下によって、急激な人口の増大はおさまっている。住民の産業別人口構成は、農業約3%、工業約20%、輸送・金融など約56%、行政機関に勤務する者約20%である。ローマに滞在する外国人は約10万人といわれる。ローマ人の気質は大幅な人口流入などによって失われたといわれるものの、テベレ川右岸のトラステベレ地域には、旺盛な生活力や明るく庶民的な雰囲気など、ローマ人の特徴がまだ生き生きと残っている。
[藤澤房俊]
伝説によればローマは紀元前753年(他の伝えもある)ロムルスによって建設された。しかし考古学的には前一千年紀の初めにすでにパラティーノ丘にラテン人の、またクイリナーレ丘とエスクイリーノ丘にサビニ人の住居が認められ、両者によってローマ市が築かれたのは前7世紀中ごろとされる。伝えによれば、建国以来7代にわたって王に支配され、最後に数代のエトルリア人王朝の支配を経て共和政になる。したがってローマ市には最初からエトルリアの影響が強い。ローマ市そのものも正式にはエトルリア系の儀式によって設けられた市壁に囲まれた特定の空間をさし(これはのちに拡大される)、市民の生活空間がその外に拡大しても、そのたてまえは変わらなかった。政務官の管轄も市内(ドミー)と外地(ミーリティアエ)に2大別され、市内では特別の場合(たとえば凱旋(がいせん)式)のほか武装することは許されなかった。市のほぼ中央の広場をフォルム(現在のフォロ・ロマーノ)といい、市民生活の中心をなし、民会はだいたいここで開かれたが、武装民会である兵員会(コミティア・ケントゥリアータ)は市外の「マルスの野」で開かれた。カエサル(シーザー)の晩年以来、広場はいくつか新設されたが、その廃墟(はいきょ)は現在フォリ・インペリアーリ通りの周辺にみられる。
ローマの地中海世界支配の確立とともにローマ市は全地中海世界の政治的中心となり、諸国の使節は争ってローマ元老院の謁見を求め、海外からの略奪品はローマ市を飾った。やがて「ローマ女神」は海外各地で宗教的礼拝を受けるに至った。しかし共和政期のイタリア農業経済の不健全な発展の結果、イタリアの多数の農民が没落してローマ市に蝟集(いしゅう)し、深刻な社会問題となった。前2世紀末以来、国家は彼らに安価に(のち無償で)一定量の穀物を配給したが、前1世紀にその受給者は32万人に達した。帝政期にもそれは続けられたが、受給者数はカエサル以後15万、帝政初期に20万、古代末期に12万と制限された。また政治家たちは、帝政期の皇帝まで含めて、市民の人気を得るため戦車競技、剣闘士競技、演劇などの催し物を行った。ローマの支配拡大は巨大な富の流入をもたらし、ローマ市は豪壮な神殿やバシリカなどで飾られ、帝政期には多くの浴場、図書館なども設けられた。一般市民はなお粗末なアパートに住んだが、上水・下水、道路などが完備して市民生活を豊かにした。とくに前312年につくられたアッピア水道以来、ローマ市の水道施設が完備していたことは有名である。他方、海外各地からローマに運ばれた多数の奴隷は次々と解放されてローマ市民になったので、ローマ市住民中外来系の占める比率は時とともに高まり、帝政期に入ると、100万を超えるローマ市総人口のうち純粋なローマ人はほんの一部分にすぎなくなった。
ローマ皇帝コンスタンティヌス(大帝)は紀元後330年に首都をコンスタンティノープルに移したが、ローマは新都より格が高く、ローマ元老院議員も新都の元老院議員より格式が高かった。ローマ帝国が東西に分割されてから、西ローマ皇帝はミラノ、ラベンナなどにいることが多く、ローマ市にとどまることはまれであった。だがローマ元老院は威信を失わず、東西両帝国のなかでももっとも富裕かつ高貴な者から形成され、ローマ市長官も近衛(このえ)都督らと並ぶ帝国最高の官職であり、一定数のローマ市民は穀物ないしパンの無料配給を受け続けた。またローマの司教はコンスタンティヌス帝の寄進によって富裕となり、この時代からローマ市のキリスト教化が飛躍的に進んだ。コンスタンティヌス帝時代にさかのぼる教会堂として(のちに改造されて)現存するものに、サン・ピエトロ大聖堂、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ教会などがある。しかし伝統の古いローマ、とくに元老院にはキリスト教化に反対する勢力も強かった。
すでに3世紀後半にアウレリアヌス帝はローマ市に堅固な城壁を巡らしたが(これは現在でもわりあいよく保存されている)、古代末期にはローマは幾たびか異民族の侵入に脅かされた。西ゴート王アラリックは410年、バンダル王ガイセリックは455年にローマ市を占領・略奪した。かくてローマは6世紀には人口数万の小都市と化した。
[吉村忠典]
異民族の侵入によって都市ローマは大きな損害を受け、人口も減少した。帝国の滅亡とともに元老院も機能を失い、わずかに教会が秩序維持の中心としての役割を果たしていた。しかし、教皇グレゴリウス1世(在位590~604)の時代に教皇の威信が高まったとはいえ、教会も実際に都市を統治するだけの力はなく、その後も東ローマやランゴバルド系スポレート公などの介入によって不安定な状態にあった。教皇レオ3世がフランクとの提携を進め、800年にカール(大帝)に帝冠を授けたのも、都市貴族の勢力を抑えるとともに東ローマ帝国からの自立を図ったためであった。962年オットー1世の戴冠(たいかん)によって神聖ローマ帝国が成立すると、ローマは皇帝権と教皇権の対立の舞台となり、これに都市貴族の対立が絡んで不安定な状況が続いた。聖職叙任権闘争の時代には皇帝ハインリヒ4世がローマを攻囲し、教皇グレゴリウス7世はかろうじてサンタンジェロ城に逃れ(1083)、ノルマン軍の援助で復帰することができた。この時代から市民の自治組織が形成されるようになるが、北イタリアのコムーネ(自治都市)のような安定した都市国家の成立には至らなかった。ローマは商業、手工業も不活発で、教皇庁、聖職者、巡礼に経済的に依存しており、コムーネの確立に至るだけの基盤がなかった。カンピドリオ丘の西側、テベレ川沿いの低地に細民が住んでささやかな商工業を営んでおり、所々に都市貴族の館(やかた)がそびえていた。とくにオルシーニ家とコロンナ家は都市の支配をめぐって激しく争った。アビニョン教皇庁の時代(1309~77)には抗争がさらに激化し、ローマ市護民官、コーラ・ディ・リエンツォの指導したコムーネ運動(1347)も失敗に終わった。
ローマが活気を取り戻すのは、コロンナ家出身のマルティヌス5世(1417即位)以降、「ルネサンス教皇」が教会国家の再建に努力し、ローマをその首都にふさわしくするための造営に力を入れるようになってからである。16世紀にはローマはフィレンツェに続いてルネサンス文化の中心となった。一時は2万人ほどに減少した人口も5万人にまで回復したといわれる。1527年にはカール5世軍の一部による「ローマ劫略(ごうりゃく)」があったが、反宗教改革の中心、バロックの都として復活した。ローマは教会国家の首都であったので、18、19世紀の改革やリソルジメント(イタリア統一運動)の動きのなかで保守側の中心的な役割を演じた。1798~99年にはフランス革命の影響下に、1849年には思想家マッツィーニの指導によって、ローマ共和国が成立したが、いずれも短期間に終わった。1861年にイタリア王国が成立したあとも、ローマはその独自な立場を保持し、王国軍のローマ征服によって併合が実現したのは1870年であった。教皇ピウス9世はバチカンに閉じこもり、王国政府との交渉を拒否した。この問題が解決したのは、1929年ムッソリーニ政権とピウス11世との間にラテラン(ラテラノ)協定が締結され、バチカン市国が成立したときである。
1871年、ローマはイタリア王国の首都となり、以後急速に発展した。1936年には人口が100万を突破し、交通、住宅などの都市問題が深刻化し、ムッソリーニ政権も多くの土木工事をおこしたが、古都ローマを近代都市に変容させることはできなかった。第二次世界大戦末期、連合軍の攻撃に際して無防備都市を宣言し、貴重な文化財は戦火を免れることができた。
[清水廣一郎]
『イェシュタード著、浅香正訳『ローマ都市の起源』(1983・みすず書房)』▽『矢島みゆき著『ローマ』(1987・教育社)』
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イタリア半島のティベル河畔にラテン人の建設した古代都市国家。のち世界帝国に発展する。初めは王政であったが,前510年頃に共和政となった。
①〔共和政期〕初め貴族のパトリキが政権を独占していたが,プレブスとの間に身分闘争が起こり,前367年のリキニウス・セクスティウス法,前287年のホルテンシウス法で一応の身分的平等が確立し,兵員会と平民会という二つの民会を通じて役人選出や立法が行われた。だが民主政には進まず,元老院,民会,政務官のうちの元老院に主導権のある貴族政的共和政が維持された。一方,3世紀半ばまでにイタリア半島を平定し,さらにカルタゴとの3回にわたるポエニ戦争に勝利を収めた。また東方にも進出して,都市国家から地中海帝国にまで発展した。しかし中小農民からなる重装市民団の没落がみられ,グラックス兄弟の改革にもかかわらず,市民兵原理の崩壊,奴隷制農業経営の発達は阻止できず,オプティマテス対ポプラレスの政争も激しさを加え,内乱の時代を迎えた。その結果,カエサルにみられる「一人支配」の傾向が強まり,前1世紀後半アウグストゥスによる帝政の樹立をみた。
②〔帝政期〕前27年アウグストゥスが全地中海世界を統一して全権を一身に集め,プリンキパトゥスが成立し,事実上の帝政が始まった。以後五賢帝の時代(96~180年)まで「ローマの平和」が続き,トラヤヌス帝時代には帝国の版図は最大となった。しかし外に対しては守勢に転じ,内では奴隷制大規模農業経営は小作制に変わり,2世紀末から国運は衰退に向かった。軍人皇帝時代(235~284年)には内憂外患に苦しんだ。ディオクレティアヌス帝は国運の立て直しを図り,専制君主政(ドミナトゥス)をしいて帝国を再建し,コンスタンティヌス大帝も帝国維持の諸政策を進めた。しかしテオドシウス帝の死後,395年帝国は東ローマ帝国と西ローマ帝国に分かれ,前者は1453年まで続くが,後者は476年オドアケルに滅ぼされた。
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…ローマ帝国の母体である都市ローマを抽象化し,ローマの名に普遍的支配や永遠性,文明と秩序の象徴をみる思想。
[ローマ理念の形成]
ローマ理念の起源はローマ共和政末期にまでさかのぼる。…
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[ローマ理念の形成]
ローマ理念の起源はローマ共和政末期にまでさかのぼる。すでに前2世紀,ローマの版図下に入った諸地方で,都市ローマを神格化した女神ローマRomaの礼拝が始まった。一方,ローマの支配の拡大と共和政末期の混乱は,ローマ人自身の間に没落観を生み出していた。…
…正式名称=イタリア共和国Repubblica Italiana面積=30万1225km2人口(1996)=5746万0274人首都=ローマRoma(日本との時差=-8時間)主要言語=イタリア語通貨=リラLira長靴形に地中海に突出した半島を主体とする共和国。北はアルプスを境としてフランス,スイス,オーストリアに接し,東は地続きのユーゴスラビアとともにアドリア海を抱き,西はティレニア海に臨む。…
…【嶋田 襄平】
[キリスト教]
キリスト教文化圏では,巡礼とはいっても歴訪や巡回が意図されたのではなく,特定霊場をめざしたので,途上の諸霊場参詣はあくまでも副次的であった。エルサレム,使徒ペテロおよびパウロ以下おびただしい殉教者の墓のあるローマ,そしてイベリア半島北西端のサンチアゴ・デ・コンポステラが三大巡礼地であった。僧侶や学者は別として,一般人がエルサレム巡礼に出る風潮は4世紀ごろに始まったらしい。…
…類語として専制政治despotism,オートクラシーautocracy,暴政・僭主政tyrannyなどがあり,日本語の独裁はこれらの意味を含み,despotism,autocracy,tyranny等も独裁と訳される場合がある。政治学用語としては,専制政治が少数者の恣意にもとづく政治であるのに対して独裁は大衆の支持ないし参加を背景にもつものとして,オートクラシーが立憲制や権力分立に対置される統治方法概念であるのに対して独裁は自由主義や民主主義と対置される体制概念であるとして,また,僭主政がアリストテレスなどにおいて君主政に対比され,その堕落形態とされるのに対して独裁は古代ローマに発し現代にいたるさまざまな政治体制に適用可能であるとして,区別される場合がある。しかし,これらの区別自体も学説的に分かれるところであり(とくに専制政治との区別),これを論じた書物も数多い。…
…リソルジメントとはもともと〈再興〉〈復興〉の意味で,18~19世紀の思想家や運動家によって諸改革の課題が,沈滞しているイタリアに再び過去の繁栄をよみがえらせる課題,つまりリソルジメントとして自覚され,その名において運動が進められたことに由来する。当時において再興すべき過去の繁栄とは,古代ローマ時代よりもむしろ中世のコムーネ時代が意識されていた。
[自由,独立,統一]
リソルジメントの過程は長期にわたっており,その間に状況の推移があるが,運動の推進者によって目標とされたのは自由,独立,統一ということであった。…
…古代ギリシア人はまことに多彩な神話を繰り広げてみせたが,何事につけ彼らと並び称されるローマ人は,神話を〈宇宙の生成と神々についての物語〉と狭く定義するならば,固有の神話といえるものをほとんど残していない。
[ローマの古神格]
しかし,キケロの有名な言葉に〈われわれは諸芸術についてはギリシア人に所詮かなわない。…
…ローマ帝国の母体である都市ローマを抽象化し,ローマの名に普遍的支配や永遠性,文明と秩序の象徴をみる思想。
[ローマ理念の形成]
ローマ理念の起源はローマ共和政末期にまでさかのぼる。…
…前753年にローマを創建したとされる伝説上の王。伝承によれば,アルバ王ヌミトルNumitorは弟アムリウスAmuliusに王位を奪われ,王女レア・シルウィアRhea Silviaから生まれた双生児,すなわちロムルスとレムスRemusは川に流された。…
…ローマの観光名所として知られる,バロック様式の噴水のある泉。トレビの名は泉の前の広場に3本の街路が集まることに由来。…
※「ローマ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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