ルネサンス(読み)るねさんす(英語表記)Renaissance

翻訳|Renaissance

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ルネサンス」の意味・わかりやすい解説

ルネサンス
るねさんす
Renaissance

中世から近代への生活と思考のスタイルの変化のようすをひと口にくくったことば遣いとして従来扱われてきた概念。しかし、これがその意味で適切なことばであるかどうか、いまでは疑念が提起されている。

[堀越孝一]

ルネサンスということばの成立

17世紀から18世紀への世紀の変わり目に、アントワーヌ・フュルチエールの『普遍的辞典』第二版(1701)とピエール・ベイルの『歴史的批判的辞典』(1697)が「ルネサンス」という項目をたてた。前者は「美術のルネサンス」ということばを登録し、後者によって「文芸のルネサンス」ということば遣いが定着した。両者の定義は16世紀の人文主義者の見解を確認したものであった。16世紀中ごろイタリア人画家ジョルジョ・バザーリがその著『チマブーエの時代から現代に至るまでのイタリアの優れた建築家・画家・彫刻家の伝記』(1550)において「美術のリナシタ(再生)」のことを指摘した。14世紀から16世紀にかけてのイタリアの画家たちの古代美術様式の学習と自然描写の訓練の成果のことを述べている。同じころフランスの人文主義者ジャック・アミヨが、プルタルコスの『対比列伝』の仏訳本(1559)のアンリ2世あて献呈文において「文芸が再生した(ルネートルした)」と言及した。この場合アミヨは、フランソア1世による「コレージュ・ド・フランス」創建のことを念頭に置いていた。すなわち「文芸のルネサンス」の当時の理解は古典語と古代の著述の学習に的を絞っていた。

 古代の美術と学芸の復興、これが15世紀以降のイタリアの、16世紀以降の北ヨーロッパの人文主義者の考える「ルネサンス」であった。それが18世紀の啓蒙(けいもう)主義は、「ルネサンス」を一つの時代区分として考える見方をしだいに形づくっていく。ことは中世・近代問題にかかわっていて、「ルネサンス」をもって啓蒙的近代の開始の時期とみなすのである。ボルテールは『風俗論』ほかの著述に、基本的には前代来の理解を踏まえて「ルネサンス」を古代の学芸の復興をさすことば遣いととらえながら、「中世」からの脱出をそこにみ、「啓蒙」と「政治的社会的な生活の向上」をそこに想定している。もう一つボルテールの卓見は、その動向における15世紀後半から16世紀にかけてのイタリア社会の卓越を指摘したことである。

 やがて市民革命を達成した19世紀の「ブルジョアジー(市民階級)」は、近代市民社会成立期としての「ルネサンス」を構想する。古代学芸の学習という限定された概念としての「ルネサンス」が、一つの時代概念に展開する可能性がそこに開けた。

[堀越孝一]

イタリアにおけるルネサンス

「ルネサンス」を一つの時代概念として全体的に展望したのは、スイス人歴史家ヤーコプ・ブルクハルトである。その著『イタリアにおけるルネサンスの文化』は1860年に出た。この書物は、14、15、16世紀のイタリアに一つの独特なタイプの社会と文化をみようとする試論である。ブルクハルトは時間と空間の限定に意を用いていて、「イタリアで初めて」とか、「ルネサンス期のイタリア社会では」「イタリアをおいて、どこに」といった言い回しが随所にみえる。あくまでも「イタリアにおけるルネサンスの文化」が彼の考察の対象として特定されていたのである。だから、「古代の復活」(第3章の章題)を論じて、「14世紀の初頭以降、何世代にもわたる優れた詩人、文献学者がイタリアと世界を古代崇拝で満たしてからというもの」と書くとき、彼は彼自身を裏切っていることになる。「イタリアと世界を」の「と世界」は、この著述本来の趣旨に照らせば不必要な、また不用意な発言であった。

 この関連で、同時代のフランス人歴史家ジュール・ミシュレの立場は興味深い。1855年『フランス史』第7巻(1881年の決定版の巻立てでは第9巻)「ルネサンス」を刊行したミシュレは、一方で「イタリアのルネサンス」という観点を否認し、他方において「人間と世界の発見」を広く16世紀ヨーロッパ社会の手柄と称揚して、これを「ルネサンス」と名づけたのである。ミシュレにとって「ルネサンス」は、人文主義的伝統のいう古代の学芸の復興というだけのものではなく、ブルクハルトの賢明な限定の対象となった14世紀から16世紀にかけてのイタリア社会だけにかかわる文化運動でもなかった。ヨーロッパ社会近代化の気運、これがミシュレのいう「ルネサンス」だったのである。

 このミシュレ的視点はボルテール以来の啓蒙主義的思考の系譜にたつものであった。人文主義者からみれば、いわば問題のすり替えがまかり通ったのである。「人間と世界の発見」はブルクハルトの著書の章題の一つでもある。ブルクハルトにしても、人間と世界、個人と国家といった近代好みのキーワードを操って、当該時期のイタリア社会を考察したのであって、そこにはおのずから考察者自身の視点が据えられている。そうしてその視点はミシュレのそれ、ひいては19世紀市民社会のそれでもあったということである。

 ブルクハルト以後、「イタリアにおけるルネサンス」を論じた本としては、まずジョン・A・シモンズの『イタリアにおけるルネサンス』全7巻(1875~86)をあげなければならない。第1巻を「専制君主たちの時代」と名づけている。これはブルクハルトの本の第1章「芸術作品としての国家」に対応していて、そこにも端的にうかがえるように、シモンズの著述はブルクハルトの本のていねいな反復である。しかし論調はむしろミシュレあるいはヘーゲル(『歴史哲学』や『哲学史』にみえる所論)に通じる。「ルネサンスは近代世界の存立すべき理由の解き放ちであった」といった一節にそれは明らかである。ブルクハルトからシモンズ以後、ルネサンス論議の奏でる音色は同じであった。個別的歴史空間「ルネサンスのイタリア」に普遍的価値体系を読み取る作法である。「中心の思想」とこれをいいかえてもよい。「イタリアにおけるルネサンス」がヨーロッパの近代を解放し、近代的価値の体系はすべて淵源(えんげん)をイタリアに発するという思想である。

[堀越孝一]

北方ルネサンス

当然のことに「辺境の思想」がこれに対抗するわけで、それが「北方ルネサンス」議論である。あるいは「北方ルネサンス」議論の一側面である。というのは、一方では、文学史のほうでギュスターブ・ランソンの『フランス文学史』(1894)に代表されているように、フランスのルネサンスはイタリアのそれの継承であるとみる観点があり、他方ではまた、これに並行して辺境の立場の強調も「北方ルネサンス」という言い回しに含めて理解されているからである。後者の主張は美術史の分野において著しく、ルイ・クーラジョとその祖述者イポリト・フィーレンス・ヘフェールトの名をあげなければならない。

 クーラジョの『エコール・デュ・ルーブル講義録(1887~96)』(没後1899~1903出版)は、個人主義と自然主義に特徴づけられる14世紀の北フランスの美術が15世紀にブルゴーニュ文化圏に摂取されてネーデルラント画派を育て、同世紀後半、イタリアの画家たちに影響波を及ぼした経緯を論じている。ベルギーのフィーレンス・ヘフェールトの『北方ルネサンスと初期フランドル画派』(1905)はクーラジョの所論のていねいな反復であって、この著述のタイトルが美術史において「北方ルネサンス」という言い回しを定着させたと思われる。

 文学史と思想史の分野においても、「北方ルネサンス」の理解は二重性をみせている。この分野では「ルネサンス」は「人文主義」や「宗教改革」と仲がいいが、フランスのアンリ・オゼにとって人文主義はペトラルカに始まるイタリア現象にほかならず、フランスはそれを輸入した(「フランスにおけるユマニスムと宗教改革について」『ルビュ・イストリク』誌、1897所収)。ドイツのルートウィヒ・ガイガーにとって「ルネサンス」はブルクハルトの定義に従うものであり、「未開のドイツ」がその後継者にたった(『イタリアとドイツにおけるルネサンスと人文主義』1882)。

 しかし他方パウル・ヨアヒムゼンは、ルネサンス人文主義をもって原イタリア的な気運と判定し、ドイツの人文主義をそれ独自の民族的基盤において理解することを求めた。復興すべき古代はドイツにおいてはほかに求められる(『人文主義の影響下のドイツにおける歴史理解と歴史叙述』1910)。コンラート・ブルダハによれば、「ルネサンス」の自覚はなによりもまず宗教的なものであって、13世紀のフランチェスコ会派の神秘主義に触発された。イタリアにおいては、コラ・ディ・リエンツィの共和制ローマへの回帰を目ざす復古運動を生み、その後世俗化の方向をたどったが、すでにこの時点で、ボヘミア王家の宮廷を介してドイツに枝分れした「ルネサンス」の自覚は、宗教的性格を強めて「宗教改革」に至る。「ドイツ・ルネサンス」はおのずから「イタリア・ルネサンス」と発現の基盤を異にしていたのである(『ドイツ・ルネサンス』1916)。

 イギリスはこの点、奇妙なまでに単純であった。「自前のルネサンス」という発想が欠落していたのである。だいたいが「ルネサンス」という発想それ自体に冷淡であった。外から入ってきた多様な刺激の一つを受け止めているだけである。全世界が「ルネサンス」議論に明け暮れていたわけではなかった。

[堀越孝一]

中世とルネサンス

ブルクハルトの「ルネサンス」ということばはイタリアという空間の限定から解かれて、ヨーロッパ社会全体にかかわる気運を表すものとして使われるようになった。他方、時間的にもまた自由化は進行し、中世世界の奥深くにまで「ルネサンス」の淵源が際限なく探し求められる。これを「ルネサンス根掘り論」という。

 ところどころに「先駆け」がみてとれるというほどの発言ではない。ハインリヒ・トーデの『アッシジのフランチェスコとイタリアにおけるルネサンスの文化の始まり』(1885)は表現的である。本のタイトルにそれは明らかである。「人は、中世をさかのぼっては、すでにルネサンスの刻印を押されているかのようにみえる形態や動きをみつけようとした」と、ヨーハン・ホイジンガは『中世の秋』に述べている。この本は1919年に出たが、その直前、1913年度のソルボンヌでの講義で、アンリ・シャマールは「フランスのルネサンス」の起源を「ゴール精神」と「宮廷風礼節の心」に求めた。『ばら物語』と「大修辞家」が中世を「ルネサンス」に橋渡しした(『ルネサンスのフランス詩歌の諸起源』1932)。あるいはクンノ・フランケの『ルター以前のドイツ文学におけるパーソナリティー』(1916)は、12、13世紀の「ミンネゼンガー」に「ルネサンスのパーソナリティー」の最初の発現をみている。

 シャマールやフランケは中世文化と「ルネサンス」との接続を問題にしていると読むことは無理のようである。中世文化そのものに「ルネサンス」をみている。ブルクハルトの「ルネサンス」の呪縛(じゅばく)は依然強い。だからとホイジンガはことばを継ぐ。「ルネサンスの概念はすっかり伸び広がって、まったく伸び縮みがきかなくなるという結果になってしまった」。中世のものは中世に返すべきであろう。

 人文主義者以降の「ルネサンス」議論を展望した『歴史的思考におけるルネサンス』(1948)の著者、アメリカのウォーレス・K・ファーガソンは、最終章の章題を「中世主義者の反逆。中世の持続として説明されたルネサンス」と置き、要するに中世文化のことがあまりにも知られなさすぎたのが問題だったのだと感想を述べている。20世紀に入るころから中世に関する知見が急速に拡大され、深められた。中世文化における「ルネサンス」的なる動向についても、これを適切に評価するにあたって必要なだけの十分な材料が整い、チャールズ・H・ハスキンズをして『十二世紀ルネサンス』(1927)を書かしめるまでに至ったのである。

 美術史における視点の移動が印象的である。ドイツのウィルヘルム・ウォリンガー『抽象と感情移入』(1908)とハインリヒ・ウェルフリン『美術史の基礎概念』(1915)は、様式の観点において中世美術の独自性を明らかにし、「イタリア・ルネサンス美術」の尺度を無造作に中世に、またどの時代にでも適用することの無意味さを指摘した。他方、フランスのエミール・マールは、『フランス13世紀の宗教美術』(1898)に始まる一連の著述において、中世美術における自然主義の伝統への展望を切り開いた。この中世美術における自然主義の問題は、オーストリアのマックス・ドボルザークによって、中世の精神的状況との関連において解明された(「ゴシック彫刻と絵画における理想主義と自然主義」『ヒストリシェ・ツァイトシュリフト』誌、1918所収)。

[堀越孝一]

あるべきルネサンス像

「フランスとネーデルラントにおける14、15世紀の生活と思考の諸形態についての研究」と副題を付した『中世の秋』(1919)の結語に、ホイジンガは「生活の調子が変わるとき、初めてルネサンスはくる」と述べている。彼は、14、15世紀のフランスとネーデルラントは、まだ「ルネサンス」ではなく、「中世の秋」の季節にあったと述べているのであって、これがこの書物の第一の要点である。また、かりにこのあと「生活の調子」が変わったということであったならば、「ルネサンス」がきたと批評してもよいと述べているとも読めるわけで、これが第二の要点である。すなわちホイジンガは従来の「ルネサンス」理解になんら異を唱えていたわけでもなかった。ただ、時間と空間を設定して、「フランスとネーデルラントにおける14、15世紀」という歴史空間はいまだ中世であったと、観察の結果得た感触を報告しただけのことである。肝心なことは、ここにブルクハルトに還(かえ)ろうとする態度が確実にみてとれるということであって、「ルネサンス」議論に対するホイジンガの批判の要諦(ようてい)はここにある。

 ホイジンガは『中世の秋』出版後、「ルネサンスの問題」(1920)、「ルネサンスとリアリズム」(1929)などの論考において、「ルネサンス」概念の適正化の必要をいい、積極的な提言も行っている。しかし、ホイジンガの「ルネサンス」問題への寄与の最大のものは、まさに『中世の秋』そのものにあったのであって、すなわち、中世から近代への移行のようすを、生活の実相において、思考と感性のありようにおいて、時間と空間を限って観察する。これがこの書物のねらいとしたところであったのである。たとえば、16世紀のネーデルラントとフランスについて、あるいはまた空間をずらして14、15世紀の、たとえばドイツについて、そのほか多様な個別的空間について、ブルクハルトとホイジンガのひそみに倣う研究が期待される。この作業の積み重ねのうえに、あるいは「ルネサンス」の全体像が描き出されるということがあるかもしれない。その「ルネサンス」はもはや人文主義者のノスタルジーではありえまい。19世紀の市民社会が己を映した鏡像ではありえまい。近代的諸価値を装わされた偶像ではありえまい。それは中世から近代への持続と変化の多彩な局面の描き出す確かな図柄の絵模様であるだろう。

[堀越孝一]

ルネサンス議論の現在

「イタリアにおけるルネサンス」はその絵模様の一部分であって、しかもかなり重要な部分であったことは間違いあるまい。たいせつなことはその図柄の観察であって、「中世主義者の反逆」から半世紀、1975年に出た『イタリアのイティネラリウム』という論集は、その地道な作業の報告書である。これは、イタリア人文主義の研究で知られた碩学(せきがく)ポール・O・クリステラーに献呈された論文集であって、副題を「ヨーロッパの変容という鏡に映るイタリアのルネサンスのプロフィール」と置いている。ここにいう「ヨーロッパの変容」を広義の「ルネサンス」ととらえることができる。すなわち中世から近代への持続と変化の様相の織り成す図柄である。そこに「イタリアのイティネラリウム」がみてとれる。すなわち「イタリアのルネサンス」の足跡である(「イティネラリウム」とは「道中」「道案内」を意味するラテン語であって、この含意において書名を『イタリアの道』と訳すことも可能である)。

 ここにいう「ヨーロッパの変容」を広義に「ルネサンス」と理解する従来の慣行は尊重されなければならない。しかし、この論集の寄稿者の1人、オランダのセム・ドレスデンが指摘するように、16世紀ヨーロッパの精神的状況に関して、最近「マニエリスム」という概念が提起されていることに注意する必要がある。この論集に寄せたドレスデンの論考は「イタリアのルネサンスのフランスへの受容のプロフィール」といい、そこでは主としてフランスの16世紀の人文学者や文学者について発言しているのだが、ラブレー、ロンサールあるいはモンテーニュといった、従来「ルネサンス文学」の枠内で紹介されることの多かった著述家たちの精神を解き明かすのに、「ナトゥーラ(自然)」「アルス(技芸)」「イミタティオ(模倣)」、あるいはモンテーニュがその著述のタイトルにとった「エッセー(試行あるいは訓練)」、とりわけ「マニエラ」といったことばが有効であると彼は議論していて、総じて「マニエリスム」なる概念のほうが16世紀の精神のありようを解き明かすキーワードとして適切ではないか。たとえばセルバンテスもその概念で照射するにふさわしい対象であるという。「マニエリスム」はもともと美術史の用語であって、イタリアのルネサンス美術がバロック美術に移行していく、その過渡期の様式として用いられてきた。その限りでは「マニエラ」とは美的表現の型を意味するが、すでにジョルジオ・バザーリは、このことばを単にその意味でだけではなく、およそ芸術家の表現行為の全体にかかわる、いわば芸術家の生き方のパターンという意味で用いている。したがって16世紀から17世紀にかけての「ヨーロッパの変容」という事態を観察するにあたっては、「ルネサンス」ということばだけではなく、「マニエリスム」という概念にも十分留意する必要がある。これはいわば「ルネサンス」概念をして自ら補正せしめることによってことばの豊饒(ほうじょう)を取り戻せしめようとする企てである。

 加えてまた、科学史の立場からする「ルネサンス」批判にも耳を傾ける必要がある。すでにブルクハルトの本の1章題「世界と人間の発見」に含意されて以来、自然科学的認識と知識の展開が「ルネサンス」の大きな獲物として言及されてきた。しかし1929年に科学史家ジョージ・サートンは「科学の観点からみる場合、ルネサンスは一個のルネサンスでさえもなかった」と発言した(「ルネサンスにおける科学」サートン他編『ルネサンスの文明』所収)。また『魔術と経験科学の歴史』全6巻(1923~41)の著者リン・ソーンダイクにとって、15、16世紀は不毛の時代であった。この展望のうちにみえてくるのは「17世紀の科学革命」である。いま「ルネサンス」議論はそこまでも見通す視力を要求されている。

[堀越孝一]

『ヤーコプ・ブルクハルト著、柴田治三郎訳『イタリア・ルネサンスの文化』全2冊(中公文庫)』『ヨーハン・ホイジンガ著、堀越孝一訳『中世の秋』全2冊(中公文庫)』『ヨーハン・ホイジンガ著、里見元一郎訳『ルネサンスの問題』(『文化史の課題』所収・1965・東海大学出版会)』『ポール・フォール著、赤井彰訳『ルネサンス』(白水社・文庫クセジュ)』『セム・ドレスデン著、高田勇訳『ルネサンス精神史』(原題『人文主義思想 イタリア・フランス1450~1600』・1970・平凡社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ルネサンス」の意味・わかりやすい解説

ルネサンス
Renaissance; Rinascimento

14~16世紀のヨーロッパ社会の転換期に起った革新的な文化運動。 renaissanceは「再生」を意味するフランス語だが,「文芸復興」と訳されることが多い。ギリシア,ローマの古代文化を理想とし,それを復興させつつ新しい文化を生み出そうとする運動で,思想,文学,美術,建築など多方面にわたった。まずイタリアで始ったが,それにはいくつかの条件が働いていた。ひとつには北イタリア諸都市の経済的繁栄があったこと,またこれら諸都市が古代のギリシア,ローマと同じように都市国家の構造をもっていたこと,さらに地理的に古代文化の伝統を伝えるビザンチンやイスラム世界に近接して接触が多かったことなどである。ここでは市民の現実的世俗的感覚がキリストや聖者をも人間化する志向を生み出し,ギリシア,ローマの古典やその美術的様式が尊重され,独特の市民文化が育っていった。この市民文化は特に都市の支配層である富裕な上層市民の要求に支えられ,ヒューマニズム (人文主義) の立場が貫かれていた。しかし諸都市のコムーネ体制が衰えて,より広い領域を支配する君主国家が発達するにつれ,ルネサンスの性格も変化した。 15世紀後半から文化は市民的性格を失って,君主の保護のもとでの宮廷文化的性格を帯びるようになった。そして後期ルネサンス文化の中心地であったローマで 1527年に起きた略奪事件 (→ローマの略奪 ) で,イタリアのルネサンスは終息したとされている。ルネサンスの運動は 16世紀にはアルプスを越えてフランス,ドイツ,ネーデルラント,イギリスなどヨーロッパ各地に広まり,それぞれの文化的伝統および社会的状況と結びついた独自のルネサンス文化を生んでいく。アルプス以北の特徴の一つは聖書の研究を通じて信仰の内容を問いかけたことで,これは宗教改革に連なる面をもった。

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