知恵蔵 「ヒラリー・クリントン」の解説
ヒラリー・クリントン
幼少時代はスポーツに親しみ、学生のリーダー的存在だったという。マサチューセッツ州の名門女子大、ウェルズリー大学を卒業後、コネチカット州の名門大、イェール大学法科大学院に進学し、ビル・クリントンと出会った。在学中は、児童養護のための組織でも活動していた。
大学院修了後は、児童防衛基金で働き、米国下院の司法委員会によるニクソン大統領の弾劾調査団に、弁護士として参加した。その後、ビルが政治活動をしていたアーカンソー州に移り、1975年に結婚、80年に娘が生まれた。アーカンソー州では弁護士の活動を続けながら、ジミー・カーター大統領の任命により、法律扶助機構の理事を務めた。78年に夫ビルがアーカンソー州知事に当選、計12年間の州知事夫人時代には、州の教育水準委員会の委員長や子ども病院理事、児童防衛基金の理事を務めた。
92年、夫ビルが米国大統領に選出され、93年に就任してからは、2001年まで、ファーストレディーとして医療制度改革や養子縁組・里親制度の改善を始め子どもの支援、女性の権利向上のための活動などに取り組んだ。
00年、ファーストレディーとして初めて民主党から上院議員に選出され、01年に就任した。06年に再選し、07年に翌年の大統領選への出馬を表明したが、党内の予備選挙で撤退。大統領に当選したバラク・オバマの指名を受け、09年から13年まで国務長官を務めた。
国務長官時代はアジア外交を重視し、14年6月に出版された回顧録『HARD CHOICES(難しい選択)』では、国務長官として最初に日本を訪問し日米同盟強化に取り組んだことをアピール、中国については、関わり合いながら国際的なルールに従うよう求めていくことが大切と記している。そんな中、15年3月、国務長官在任中に公務に私用のメールアドレスを使っていたことが問題となり、国務省の要請を受けて5万5000ページ分のメールを提出し、事態の鎮静化を図った。
16年の大統領選への出馬については、長らく沈黙を保っていたが、15年4月、インターネット上のビデオメッセージで正式に立候補を表明、米国初の女性大統領を目指す決意を示した。民主党内では、バイデン副大統領らも候補に挙げられているが、15年4月時点で、世論調査では、ヒラリーが民主党支持者の約6割の支持を集め、最有力候補となっている。
(南 文枝 ライター/2015年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報