アメリカ合衆国の政治家、弁護士。1947年、イリノイ州シカゴにて、繊維品卸売業を営む中流家庭の長女ヒラリー・ロダムとして生まれ、近郊のパーク・リッジで育つ。
1969年にマサチューセッツ州のウェルズリー大学を卒業。1973年にエール大学ロースクールで法学博士号を取得後、下院ウォーターゲート委員会のスタッフに加わる。1974年、ロースクール在学中からの交際相手ビル・クリントンの故郷アーカンソー州へ移り、アーカンソー大学ロースクールで教鞭(きょうべん)をとった。弁護士としては、子どもの権利を専門分野とした。1975年ビルと結婚。法曹活動と並行して、ビルの政治活動を支え、その州知事時代(1979~1981、1983~1992)には農村部健康諮問委員会委員長、教育水準委員会委員長を務めた。1987年、アメリカ法曹協会において「法曹界における女性の地位向上委員会」の初代委員長につく。
ビル・クリントン政権第1期(1993~1997)では、国民皆保険制度実現のために「医療保険改革に関するタスクフォース」の座長となったが、ヒラリーケアとも別称された改革案は民主党内にも反対が強く頓挫(とんざ)。個人の責任を強調する新自由主義的な1996年の「個人責任および就労機会調停法」を支持。ビルの退任が近づいた2000年の連邦議会上院議員選挙において、引退を表明した民主党の長老上院議員モイニハンDaniel Patrick Moynihan(1927―2003)の地盤であったニューヨーク州から初出馬し当選。2006年再選。保健・教育・労働・年金委員会のほか、高齢化問題特別委員会、軍事委員会、環境・公共事業委員会、予算委員会に所属。2001年のアメリカ同時多発テロ後、ブッシュ政権が主導したイラク侵攻を支持したが、のちに判断を誤りと認める。イラク戦争への支持は、上院議員2期目途中に出馬した2008年の大統領選挙の民主党予備選挙でB・オバマに敗れる一因となった。オバマ政権第1期(2009~2013)の国務長官として、イランへの制裁、アフガニスタンへの増派、シリアのアサド政権転覆を主唱するなど、外交的にはタカ派である。
2016年の大統領選挙では民主党候補者指名を獲得したものの、無名の左派上院議員サンダースBernie Sanders(1941― )に対する苦戦は、ビル・クリントン政権以来のヒラリーの新自由主義志向やエスタブリッシュメント(既存体制)へのリベラル内部の不満の強さを示していた。おもな政策として、富裕層への課税強化、銃規制の強化、非合法移民への正規居住資格付与を掲げた。大統領選挙本選では、東海岸や西海岸諸州、大都市部で支持を集め、共和党候補のD・J・トランプをアメリカ全体での一般得票総数では上回りながらも、獲得した選挙人数で水を開けられ敗北した。
[小田悠生 2016年12月12日]
『ヒラリー・ロダム・クリントン著、酒井洋子訳『リビング・ヒストリー――ヒラリー・ロダム・クリントン自伝』(2003・早川書房)』▽『ヒラリー・ロダム・クリントン著、日本経済新聞社訳『困難な選択』上下(2015・日本経済新聞出版社)』▽『ジュディス・ウォーナー著、河合伸訳『ヒラリー・クリントン――最強のファーストレディ』(1993・朝日新聞社)』▽『三輪裕範著『ヒラリーの野望――その半生から政策まで』(ちくま新書)』▽『渡辺将人著『アメリカ政治の壁――利益と理念の狭間で』(岩波新書)』
アメリカのファンク・ミュージシャン。1970年代、ファンク・ミュージックの代名詞ともなった複数のグループを率いた。ノース・カロライナ州カナポリスに生まれ、ニュー・ジャージー州のプレーンフィールドで育つ。10代のころは黒人街で人気の床屋だったが、趣味で結成したコーラス・グループ、パーラメンツがしだいに本業へと変わっていった。
パーラメンツは1967年に「(アイ・ワナ)テスティファイ」をポップ・チャート20位まで押し上げたが、そのあとが続かなかった。さらに所属するレコード会社とトラブルが起こり、グループ名の所有権を争って裁判にまで発展する。そこでクリントンは、同じメンバーによる別名のバンド、ファンカデリックを結成、1960年代末のドラッグ・カルチャーやロック・カルチャーの要素をふんだんに盛り込んだサウンドを打ち出していった。1970年、旧名称の使用が認められると、今度は、ファンカデリックと変わらないメンバーを中心にパーラメントを結成、ここに多くのミュージシャンがいくつものバンド名を使いながら入り乱れるという、クリントンならではの「演劇空間」がスタートすることになった(のちに、クリントンがつくったバンドを総称する「Pファンク」という言葉もできた)。
クリントン傘下のミュージシャンとして、音楽監督的な立場をになったのがキーボード奏者のバーニー・ウォレルBernie Worrell(1944―2016)だった。1972年にはジェームズ・ブラウンのバックマンとして鳴らしたベーシスト、ブーツィ・コリンズBootsy Collins(1951― )もチームに加わり、パーラメント/ファンカデリックは、ロマンチックなコーラス・グループの要素からジミ・ヘンドリックス直系のサイケデリックで豪放なギター・サウンドまで、すべてを混沌とさせた構成で、若い黒人を中心に熱狂的なファンを獲得していった。舞台も奇抜で、ファンカデリックがベトナム戦争をイメージした戦闘服で登場したかと思えば、パーラメントは巨大な宇宙船をあしらい、謎の悪者ドクター・ファンケンシュタインが地球人(というよりも黒人)に襲いかかるといった、アメリカ社会の暗部を皮肉と笑いでちゃかした構成も話題となった。
1970年代、クリーンなイメージで世界的なバンドとなったアース・ウインド&ファイアーとクリントン一派は、ファンクというダンス・リズムを基調としながらも対照的な位置にあった。この時期のパーラメントの代表的アルバムとしては『マザーシップ・コネクション』(1976)、『ファンケンテレキー vs. プレイスボ・シンドローム』(1977)などがあるほか、ファンカデリックには『ハードコア・ジョリーズ』(1975)、『ワン・ネイション・アンダー・ア・グルーヴ』(1978)などのヒット作がある。
1980年、パーラメントはレコード会社との不和がもとで再びバンド名の所有権が問題となる。そこでクリントンは、Pファンクの主体であるパーラメントとファンカデリックの活動をやめ、ソロ・ミュージシャンとして新たに活動を始める。1982年の『コンピュータ・ゲームズ』がそのスタートだった(前年の1981年からは、Pファンク・オールスターズも結成している)。その後、1970年代ほどの人気はなくなったものの、新世代のロックやヒップ・ホップ(ラップ)のアーティストによって往年のファンク・ミュージックが再評価され、クリントンは特に敬意を払われる一人となった。
2001年1月、フロリダ州タラハシーの地方裁判所は、クリントンが黄金時代の自作品から利益を得る権利を失っているとの判断を下した。彼が失ったのは、1976年から1983年までに書いた音楽著作物に関する権利で、このなかには先述の『ワン・ネイション…』『コンピュータ・ゲームズ』など歴史的な作品が多数含まれている。クリントンは、1960年代から21世紀に至るまで、ずっと音楽業界との契約問題で悩まされてきたミュージシャンでもある。
[藤田 正]
アメリカ合衆国の第42代大統領。第二次世界大戦後生まれの初めての大統領でもある。アーカンソー州ホープ出身。ジョージタウン、オックスフォード両大学を経て、エール大学で法学博士号を得る。弁護士。同州司法長官。1978年に州知事としては史上最年少の32歳で初当選以来、同州知事を通算5期務める。1992年の大統領選挙で「変革」と「アメリカ経済の再生」を掲げ、現職の大統領であったブッシュと独立系の実業家ペローを破って、12年ぶりに民主党による政権奪還を実現した。
1期目のクリントン政権は、国民皆保険を目ざした健康保険制度の改革や、政治改革のための選挙資金制度の改革が挫折(ざせつ)。大統領夫妻が州知事時代に関係した金融機関に絡む「ホワイトウォーター疑惑」も表面化し、1994年の中間選挙は、上下両院の過半数を共和党に奪われて大敗した。しかし、1996年の大統領選挙では、共和党の政策を取り込むなど中道色をいっそう強め、共和党のドール候補に圧勝した。第二次世界大戦後2期連続の民主党政権は、1960年代のケネディ、ジョンソン政権以来。アメリカ経済の戦後最長、最大規模の好況に支えられ、財政均衡の実現にこぎつけた。北大西洋条約機構(NATO(ナトー))の拡大や米中関係の改善など、現実的な外交で指導力をみせた。しかし、インドネシアの財閥や中国系の実業家らが絡んだ民主党への献金疑惑、クリントン個人の性的スキャンダルやもみ消し工作の疑惑が次々と明るみに出て、現職大統領としては初の民事訴訟の被告となり、1999年に弾劾裁判を受けたが罷免は免れた。2001年1月、任期満了で退任。夫人のヒラリーは著名な弁護士で、2000年11月、ニューヨーク州の連邦議会上院議員選に民主党から出馬して当選、2006年11月に再選を果たし、2009年から2013年まで国務長官を務め、ベビーブーム世代のクリントン夫妻が、新時代のホワイトハウスを印象づけた。ヒラリーは2016年の大統領選挙では民主党候補者指名を獲得したが、本選で共和党候補のD・J・トランプに敗北した。
[村松泰雄 2016年11月18日]
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1946~
アメリカ第42代大統領(在任1993~2001)。民主党員。アーカンソー州知事をへて,第二次世界大戦後生まれの初めての大統領となる。外交では民主主義と市場経済の拡大戦略を提唱。内政では好調を続ける経済を背景に,財政赤字の解消に成功した。政権2期目に女性スキャンダルをめぐり下院で大統領弾劾の決議が成立。上院で無罪となったが(史上二人目),政治的威信に大きな傷がついた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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