マウマウの反乱 (マウマウのはんらん)
東アフリカのイギリス植民地ケニアにおいて1950年代に起こった,キクユ族を中心とするイギリス統治反対の武力闘争。ケニア・アフリカ人同盟(KAU)の漸進主義にあきたりない急進派は,51年ころよりホワイト・ハイランドの農業労働者やキクユ地域の貧農の間に闘争組織を拡大したが,これを植民地政府はマウマウMau Mauという名の秘密結社が存在すると考え,その禁止を布告した。52年10月に政府は非常事態宣言を発し,ケニヤッタほかKAUの指導層を逮捕するとともに,本国から派遣されたイギリス正規軍によってゲリラ戦術を展開する反乱勢力を鎮圧した。56年末の政府発表によればマウマウ側の死者1万1500名,逮捕者2万9000名であった。この反乱は武力で鎮圧されたものの,イギリス政府の植民地政策を転換させ,民族主義運動の主張を認めさせるのに効果を持った。
執筆者:吉田 昌夫
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マウマウの反乱
まうまうのはんらん
1950年代に起こった、ケニアにおける民族解放を目的とする武力闘争。マウマウMau Mauとは、反乱の主勢力となったキクユ人のウマ(宣誓)ということばに由来するといわれる。ケニアでは、第二次世界大戦後、民族独立運動が盛んになり、ケニア・アフリカ人同盟(KAU)の急進派が、ホワイト・ハイランドの農業労働者を中心にイギリスの植民地統治に対する闘争を拡大した。植民地政府は、これをマウマウという秘密結社の活動と考え弾圧を強化した。52年10月には中央州に非常事態宣言が布告され、穏健派のJ・ケニヤッタを含むKAUの指導者を逮捕した。KAU急進派は武装闘争に突入し、政府軍、警察、白人農場などを襲撃し、最盛期には20万人もの勢力に伸長した。55年10月、最高指導者D・キマジガが逮捕され、反乱は終息に向かったが、死者は1万人、逮捕者は3万人に上った。今日では単なる暴動ではなく民族解放闘争と評価されている。
[赤阪 賢]
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「マウマウの反乱」の意味・わかりやすい解説
マウマウの反乱【マウマウのはんらん】
英植民地だったケニアで起こったアフリカ人による民族主義的反乱。キクユ族を中心とする人びとが1952年反乱を始め,英国はこれをマウマウMau Mauと呼んで掃討。ケニヤッタらケニア・アフリカ人民族同盟の指導者は扇動者として裁判に付された。反乱は他の諸族をも巻き込み,英国は大軍を投入して1956年鎮圧したが,これを機にケニア独立運動が高まった。
→関連項目ケニア|ナイロビ
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世界大百科事典(旧版)内のマウマウの反乱の言及
【ケニア】より
…そして44年立法審議会に初めて1人の代表を送り,同年ケニア・アフリカ人同盟(KAU)が結成され,47年[ケニヤッタ]がKAU党首に就任して,民族運動は活発となった。50年代初期に各地でテロ事件が相次ぎ([マウマウの反乱]と呼ばれた蜂起がその最大のもの),植民地政府は52年戒厳令をしいてケニヤッタを含む200名のKAU指導者をマウマウ団関係者の名目で逮捕した。マウマウの蜂起は54年に一応鎮静化するが,植民地支配の大きな転機となった。…
【秘密結社】より
…古い生活形態に固着するか,まだ姿を現さない新しい生活形態を期待するか,である。この点で秘密結社を二分するなら,前者がマウマウ団([マウマウの反乱])や[マフィア]のように古い因習に固執する楽園回帰グループ,後者が多少とも革命的な世界改革を唱える[啓明結社],[カルボナリ党],アイルランド独立を目ざしたクラン・ナ・ゲールClan‐na‐gaël,革命前夜のボリシェビキ([ロシア社会民主労働党])のようなユートピア志向グループ,となろう。むろんこの分類はとりあえずのものにすぎず,両者の間に一線を画するのは容易ではない。…
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