ムーサー(読み)むーさー(その他表記)Mūsā b. Nuayr

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ムーサー」の意味・わかりやすい解説

ムーサー
むーさー
Mūsā b. Nuayr
(640―716/717)

アラブ軍人で、北アフリカ西部とスペインの征服者。最初、ウマイヤ朝カリフ、アブド・アル・マリクの治下、バスラ徴税官の任にあったが、公金着服の嫌疑で解雇された。その後エジプト総督アブド・アル・アジーズによって、698年ごろイフリーキヤ州の総督に任命されると、西方へ進軍してモロッコを征服、さらに711年、部下のターリクに命じてスペインの征服を開始した。翌年、自らアラブ人を主力とした1万8000の兵を率いてスペインに渡り、ターリクと競いつつスペインを征服、莫大(ばくだい)な戦利品と捕虜を携え、ダマスカス凱旋(がいせん)。その後まもなく没した。

[私市正年]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内のムーサーの言及

【シナイ】より

… シナイの語源は,前3000年ころのメソポタミアのアッカド語で〈月の神〉を意味するシンSinという言葉である。旧約聖書でモーセが十誡を授かったシナイ山は現在のモーセ山(ムーサー山)とされ,その山麓にはカタリナ修道院が建てられている。半島各地から新石器時代の石器をはじめとする遺物が発見されている。…

【イスマーイール[1世]】より

…在位1501‐24年。アゼルバイジャンのアルダビールに生まれ,シーア派第7代イマーム,ムーサーMūsā al‐Kāẓimの子孫と称した。クズルバシュを率いて1500年シルバンを占領し,翌年タブリーズに入って即位。…

【イスマーイール派】より

…イスラムの十二イマーム派の分派で過激シーア派。シーア派第6代イマーム,ジャーファル・アッサーディクJa‘far al‐Ṣādiq(699ころ‐765)は長子イスマーイールIsmā‘īl(?‐760)を後継イマームに任命したが,飲酒などの悪癖があったため任命を取り消して弟のムーサーMūsā al‐Kāẓim(745ころ‐799)を任命した。長子は父の存命中760年に没したが,任命取消しを認めない一部の者たちは,イスマーイールこそ第7代イマームであり,最後のイマームであると主張し七イマーム派と呼ばれた。…

【ウマイヤ朝】より

…またムハンマド・ブン・アルカーシムは西北インド(シンド)を征略した(712‐713)。北アフリカ征服は,670年ウクバ・ブン・ナーフィーのカイラワーン建設により本格化し,711年ターリク・ブン・ジヤードが,712年ムーサーがイベリア半島に上陸し,その大部分を制圧した。のち,イスラム軍は732年トゥール・ポアティエの戦でフランク軍にその北進を阻止されたが,その後も734年にはローヌ渓谷に,743年にはリヨンに達した。…

【ターリク・ブン・ジヤード】より

アンダルス征服軍の指揮官で,ベルベル人。ウマイヤ朝のイフリーキーヤ州総督ムーサーMūsā b.Nuṣayr(640‐716∥717)に仕え,タンジール駐屯軍の長であったが,711年7000人の兵からなるムスリム軍(その大部分がベルベル人)の指揮官に任命され,アンダルスを侵攻し西ゴート王国を滅ぼした。翌年出征してきたムーサーと競いながら,アンダルスを征服した。…

※「ムーサー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android