ユリーカ砦の反乱(読み)ユリーカとりでのはんらん(英語表記)Eureka Stockade

改訂新版 世界大百科事典 「ユリーカ砦の反乱」の意味・わかりやすい解説

ユリーカ砦の反乱 (ユリーカとりでのはんらん)
Eureka Stockade

1854年にオーストラリアのビクトリア植民地の金鉱夫が起こした反乱。1851年に始まったゴールドラッシュでその中心地バララト(メルボルンの西北西113km)に集中した約2万の鉱夫は,金発見のいかんに関係なく課せられる1人1ヵ月30シリングの採掘税に不満を募らせていた。54年10月鉱夫が殺された事件をきっかけに,犯人所有のユリーカ・ホテル焼打ちを経て,11月鉱夫たちは改革同盟を結成,ついには新国旗〈南十字星旗〉を押し立ててユリーカ採鉱場に砦を築いた。12月3日,282名のイギリス兵・警官と150名の鉱夫が交戦,15分の戦闘で前者に6名,後者に22名の死者を出して反乱は鎮圧された。しかし反乱後,普通選挙権要求を含む鉱夫側の主張はほぼすべて認められ,主謀者ピーター・レーラーら13名は1名を除いて無罪放免となった。小規模ながらアメリカ独立革命に対比され,今日でもリベラルな共和制派の精神的支柱となっている。ただし反乱で鉱夫たちは中国人鉱夫を排斥し,白豪主義の先兵となった。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のユリーカ砦の反乱の言及

【ゴールドラッシュ】より

…1851年に40余万だった人口は10年後に120万弱に達し,第1次・2次産業,港湾,道路,鉄道などが発達した。社会問題のうち最大のものは,金鉱夫の反乱(ユリーカ砦の反乱)と中国人鉱夫に対する暴動であるが,ここにも大牧場主(スクオッター)支配体制への反抗と,その一方で反抗者たち自身白豪主義的病理に冒されていた矛盾が露呈された。なお,産金量のピークは1903年で,以後は下降線をたどった。…

※「ユリーカ砦の反乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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