七戸通
しちのへどおり
盛岡藩の地方行政組織三三通の一。北は田名部通・野辺地通、南は五戸通に接する。代官所は七戸城内(現七戸町)に設けられ、七戸代官の支配下にあった。寛文四年(一六六四)三代藩主南部重直の死によって、弟の七戸重政(のち南部重信)が四代藩主になると当地域は盛岡藩の直轄地となり、翌五年には七戸代官所が創設された。七戸通もこの頃に設けられたものであろう。
天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付に七戸通とあり、当通に属する村は次の二四ヵ村である。新館・大浦(現上北町)、野崎・附田・花松・中畑(中岫か)・榎林・二森・天間館(現天間林村)、大沢(大沢田か)・馬洗場・八斗沢・三本木・洞内(現十和田市)、倉内・平沼・鷹架・尾駮・泊・出戸(現六ヶ所村)、横浜(現横浜町)、野辺地(現野辺地町)、甲地(現東北町)、五戸村(現三戸郡五戸町)。高は四〇六七・七四九石とあるが、これは蔵入高であろう。なお同書には各村の免ならびに高は書上げられていない。この頃の七戸通は後の野辺地通にあたる地域を含み、野辺地代官は七戸代官の兼任とされていたが、元禄四年(一六九一)野辺地代官が分立し、前記の横浜・野辺地両村は七戸通から分離した。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」ではそのほかに甲地・五戸両村が七戸通から除かれ、新たに立崎・深持(現十和田市)、上野(現上北町)、七戸(現七戸町)の村々が加えられ、村数は二四ヵ村と変わらない。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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