青森県東部,上北郡の町。人口1万4314(2010)。下北半島の基部にあたり,陸奥湾の支湾の野辺地湾に面する。近世,盛岡藩の北の門戸であった野辺地湊を中心に発達した。このため上方とのつながりも強く,祇園ばやしにそのなごりがみられる。明治以降,東北本線の開通により野辺地港は役割を失い,1921年に大湊線の開通によって下北半島への基点となったが発展はみられなかった。偏東風(やませ)の影響が強く稲作は振るわないが,1956年から国営北部上北大規模機械開墾が開始され,これにより酪農が発達した。陸奥湾ではホタテガイ養殖も盛ん。函館との間にフェリーが就航し(2008年現在は休止),国道4号,279号線の分岐点でもある交通要地で,むつ小川原(おがわら)地区工業開発計画の中枢をなす。
執筆者:佐藤 裕治
地名の初出は1335年(建武2)であるが,開港は中世末で野辺地城があり,江戸時代には代官所があった。市は当初三斎市であったが,天和期(1681-84)に六斎市となった。文禄期(1592-96)に北国船の出入りがみられ,正保・慶安(1644-52)ころには他国商船が恒常的に出入りするようになった。江戸中期の入津船は南九州を除く全国に及んだが,越前以北の北国船が圧倒的で,ヒノキ材や海産物を積み出し,松前船は米や大豆を調達した。野辺地湊の繁栄は船宿制と廻船問屋仲間ができる安永期(1772-81)以降である。上北郡産出の大豆,長崎俵物(たわらもの)の煎海鼠(いりこ),〆粕(しめかす),コンブなどの移出でにぎわったが,繁栄したのは尾去沢鉱山(現,秋田県鹿角市)産出の御用銅が大坂に積み出されたことによる。同鉱山の銅の積出しは1677年(延宝5)に始まるが,御用銅の移出開始は1716年(享保1)で,1801年(享和1)の野辺地湊積出しは57万9300斤であった。移出は大坂,越前などの藩雇船で行われ,46年(弘化3)の銅大豆積船は17艘を数えた。地船は地廻りが主であり,ここに野辺地湊の限界がみられる。
執筆者:渡辺 信夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
青森県南東部、上北郡(かみきたぐん)の町。1897年(明治30)町制施行。第三セクター青い森鉄道(旧、JR東北本線)とJR大湊線(おおみなとせん)、国道4号と279号の分岐点にあたる交通の要地。むつ市を起点とする下北半島縦貫道路の野辺地バイパスが通じる。野辺地町と七戸(しちのへ)町を結ぶ南部縦貫鉄道が通じていたが、経営難のため1997年(平成9)休止、2002年廃止された。下北半島の基部に位置し、野辺地湾に臨む。野辺地湊(みなと)は藩政時代には盛岡藩の港として物資の輸送に重要な役割を果たした。1955年(昭和30)に北部上北大規模機械開墾と、これを結ぶ幹線道路が野辺地町を中心に建設された。むつ小川原(おがわら)工業開発に伴って関連開発公社や企業の出先機関が設置された。野辺地湾ではホタテガイの養殖が行われる。西部の馬門温泉(まかどおんせん)は近代的設備が整い、付近にまかど温泉スキー場がある。面積81.68平方キロメートル、人口1万2374(2020)。
[横山 弘]
『『野辺地町郷土史年表』(1977・野辺地町)』
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