七重村(読み)ななえむら

日本歴史地名大系 「七重村」の解説

七重村
ななえむら

[現在地名]亀田(かめだ)郡七飯町字本町(ほんちよう)・字桜町(さくらちよう)・字鳴川町(なるかわちよう)

近世から明治一二年(一八七九)まで存続した村。現町域の南西端近く、久根別(くねべつ)川の中流域に位置する。東は七飯岳(七七九・二メートル)や、鳴川の扇状地から鳴川岳(七六九・二メートル)の山麓に続き、西は函館平野。「地名考并里程記」は七重の地名について「夷語ナァナイなり。則多く渓間有と云ふ事。ナアとは幾等もと申事。ナイは渓又は沢等と申事なり。此辺渓沢の多く在故、地名になすと云ふ」と記す。「検考録」は「ナァナイの訛といふは却て誤也」とする。天保郷帳に七重村とみえ、枝村として藤山(ふじやま)郷があげられる。古くは七重浜(現上磯町)と一村であったが、漁稼の者が七重浜に移るようになったと伝える(匏菴遺稿)。

「蝦夷拾遺」に村名がみえ、戸口は五〇戸弱・二六〇余人。木村「蝦夷日記」寛政一〇年(一七九八)五月二六日条には「七々井村」と記されている。寛保年間(一七四一―四四)頃、松前藩六代藩主松前邦広は七重郷庄司(しようじ)山に城を移す計画を立てていた(松前広長「松前志」)。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報