三名村(読み)さんみようむら

日本歴史地名大系 「三名村」の解説

三名村
さんみようむら

[現在地名]国富町三名

木脇きわき村の北、本庄ほんじよう村の北東に位置する。本庄村との村境付近を三名川が南流し、深年ふかどし川に合流して東に転じる。薩摩街道児湯こゆ荒武あらたけ(現西都市)から村の中央を本庄村へと縦断する。さんみよう村とも称した。弘治二年(一五五六)六月吉日の土田帳写(予章館文書)倉田(衾田)大宮司分として三ヶ名のうち田数二町などとみえる。天正六年(一五七八)一月二四日、日向を掌中に収めた島津氏は土持親成に対し石塚いしづか(現宮崎市)に三ヶ名を加えた一〇〇町余を安堵している(「島津氏老臣連署状」旧記雑録)。天正年間に通用した日向国五郡分帳に三ヶ名一六町、天正一六年八月五日の日向国知行方目録に「三ケミやう」一六町とあり、豊臣秀吉から秋月種長に宛行われている。


三名村
さんみようむら

[現在地名]高松市三名町

太田おおた村・百相もまい村の西にあり、仏生山ぶつしようざん街道が通る。地名の由来は往古来光寺・十楽寺・南条寺の寺領であったことによるとも、細屋・溝淵・田藤三氏の地であったことによるともいう。小地名に庄司しようじが残る。寛永国絵図に村名がみえ、大野おおの郷に所属。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では一宮いちのみや村に含まれたと考えられる。貞享高辻帳では三名村二一九石余。弘化(一八四四―四八)頃には四〇五石余、庄屋は百相・出作しゆつさくとの兼帯であった(村高大小庄屋姓名覚帳)。嘉永年間(一八四八―五四)には大庄屋が百相村と兼帯で勤めている(讃岐香川郡志)。池泉合符録によると新堀出水があるのみで、灌漑は仏生山領船岡ふなおか(水掛高四〇五石余)寺井てらい村下井出水(一五四石余)一宮村辻堂池(四〇五石余)などに依存した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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