本庄(読み)ホンジョウ

デジタル大辞泉 「本庄」の意味・読み・例文・類語

ほんじょう【本庄】[地名]

埼玉県北部の市。利根川南岸に位置する。近世中山道宿場町、明治以降は養蚕で栄えた。平成18年(2006)1月児玉町合併。人口8.2万(2010)。

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日本歴史地名大系 「本庄」の解説

本庄
ほんじよう

今山八幡宮旧記(今山八幡宮文書)によると、嘉応二年(一一七〇)今山いまやま八幡宮(現延岡市)の造営にあたり神輿宿の北二間と散在神人役膳所三間の造営役が本庄百姓に課されており、遷宮の饗膳の飯菓物三〇〇前のうち二〇〇前を本庄が負担している。さらに神宝類の献上品として御須(御廉)三間、几帳の布三枚、竜頭鶏の雄鶏を献上している。この本庄は諸県庄の本庄とみられ、豊前宇佐宮領庄園としての本庄の役割の大きさが推察できる。安元二年(一一七六)二月日の八幡宇佐宮符写(奈多八幡縁起私記)によると、宇佐宮行幸会の雑物として本庄・富末とみまつは御服綿二屯・例絹二疋・手作布七段・麻布七段・空青八〇両・色革二〇枚・紫五斤・茜五斤・紅花二斤・銅八八両と定められている。

貞和六年(一三五〇)一二月三日、小山田二郎左衛門尉は諸県本庄八段を安堵されている(「某宛行状写」小山田文書)。また定善じようぜん(現日向市)伝来の伊東氏系図には、南北朝期の祐持に「日向国本荘居住」の注記があり、伊東氏の日向支配の早期の拠点の一つであった。

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改訂新版 世界大百科事典 「本庄」の意味・わかりやすい解説

本庄[市] (ほんじょう)

埼玉県北西部の市。2006年1月旧本庄市と児玉(こだま)町が合体して成立した。人口8万1889(2010)。

本庄市南西部の旧町。旧児玉郡所属。人口2万1150(2005)。町域の南部は秩父山地で,北部には台地が広がる。中心集落の児玉は小山川(身馴川)の扇状地上にあり,谷口集落として起こった。江戸時代は絹,穀物などを取引する市場町として栄え,明治時代には木村九蔵(1845-96)が競進社蚕業学校(現,児玉農工高校)を創設し,蚕業教育に尽力した。現在は野菜と酪農が行われる。付近の丘陵でとれる良質な粘土を原料に瓦の生産が行われ,児玉瓦として京浜・東北方面に出荷されている。関越自動車道本庄児玉インターチェンジ付近の旧開拓地は工業団地となっている。塙保己一の出身地で,旧宅(史)や記念館がある。JR八高線が通じる。
執筆者:

児玉郡の名は,747年(天平19)9月26日の聖武天皇勅旨(《東大寺要録》)に〈武蔵国児玉郡五十戸〉とあるのが初見で,《和名抄》では〈古太万〉と訓じている。武蔵七党の一つ児玉党の本拠地で,その流れをくむ庄,蛭川,阿佐美,塩谷,真下らの中世武士が周辺に割拠していた。文明年間(1469-87)ごろ関東管領上杉顕定が現在の旧児玉町の地に雉岡(きじがおか)城(八幡山城)を築いて家臣の夏目氏をおいたが,のち小田原北条氏の支配に属し,北条氏邦の家臣横地氏が在城した。1590年(天正18)徳川家康の関東入国に際し,松平家清が八幡山城主となったが,1601年(慶長6)廃城となり,以後は旗本戸田氏の給地として陣屋がおかれた。
執筆者:

本庄市の北東部の旧市で,児玉地方の中心都市。1954年市制。人口6万0807(2005)。南部は本庄台地,北部は利根川右岸の沖積低地からなる。中央をJR高崎線,国道17号線が並行して走り,関越自動車道の本庄児玉インターもある。2004年上越・長野新幹線の本庄早稲田駅が開業。中世末期に本庄城があったが,江戸初期には廃城となった。その後幕府の直轄地となり,中山道の宿場町として繁栄,2・7の六斎市も立った。明治以降,周辺農村の繭の集散地,生糸・絹織物の生産地として栄えたが,第2次大戦中から戦後にかけて,製薬や電気機器の工場が進出し,内陸型工業地帯としても発展,近年は先端産業も立地している。農業は米作中心から首都圏域の立地条件を生かした都市型農業に変貌しつつあり,特にネギ,キュウリホウレンソウなどの主産地になっている。利根川にかかる新坂東大橋は群馬県方面へ通ずる交通の要で,付近は釣場としても知られる。
執筆者:

武蔵国児玉郡の中山道宿駅。中世には児玉党庄氏の末裔本庄氏が城を築いていた。1580年(天正8)10月12日の〈武田勝頼書状〉に,〈本庄之台〉と地名が見える。90年9月に小笠原信嶺が1万石余で入封し本庄城に在城した。1612年(慶長17)小笠原氏転封後廃城となり,以後は天領。検地は27年(寛永4),97年(元禄10),1767年(明和4),74年(安永3)などしばしば行われた。正保期(1644-48)の《武蔵田園簿》では本庄町1862石余,《天保郷帳》では本庄宿2198石余で,宿の規模は東西28町,南北23町余。

 本庄宿は1602年以後宿立てされ,37年(寛永14)公式の馬継立場となり宿場町が形成された。寛保期(1741-44)以降,本庄宿を称する。94年(元禄7)の宿助郷は周辺27ヵ村であった。戸数は1645年の229戸が1822年(文政5)には1088戸に増加し,1804年(文化1)の書上に本陣2,脇本陣3,問屋6と見え,大新田町,上町,仲町,本町,台町,七軒町,寺坂町の7ヵ町で町場を形成した。2・7の日に市が立った。46年(弘化3)3月2日には伊勢屋火事によって全焼,また66年(慶応2)6月には武州一揆の7000~8000人が乱入し商家が打ちこわしをうけている。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「本庄」の意味・わかりやすい解説

本庄(市)
ほんじょう

埼玉県北西部にある市。1954年(昭和29)本庄町と藤田、仁手(にって)、旭(あさひ)、北泉(きたいずみ)の4村が合併して市制施行。1957年共和(きょうわ)村の一部を編入。2006年(平成18)児玉(こだま)郡児玉町を合併。旧市域の北部は利根(とね)川の沖積低地、南部は洪積台地よりなる。JR高崎線、八高線、国道17号、254号、462号が通じ、上越・北陸新幹線の本庄早稲田駅、関越自動車道本庄児玉(こだま)インターチェンジがある。中世武蔵七党(むさししちとう)の一つ児玉党に属する庄氏の居城があったのでこの地名がある。江戸時代は中山道(なかせんどう)の宿場町で、2、7の日には市(いち)が立ち、利根川河畔には河岸(かし)場があり、にぎわいを呈した。明治以降、養蚕、生糸、絹織物の産地として栄えたが、第二次世界大戦中から戦後にかけて、エーザイ製薬(現、エーザイ、2018年本庄市での事業閉鎖)や沖電気の近代的な大工場が進出し、工業都市として発展してきた。利根川流域の沖積底地は隣接の深谷(ふかや)市に続く、ホウレンソウ、ネギ、キュウリを主体とした野菜の大産地であり、このほか酪農も盛んで、農業生産額も高い。北武蔵の大用水備前堀(備前渠用水)は1604年(慶長9)につくられたもので、現在も烏(からす)川合流直後の利根川から水を引いて使われている。面積89.69平方キロメートル、人口7万8569(2020)。

[中山正民]

『『本庄市史』全3巻(1976~1989・本庄市)』



本庄(宮崎県)
ほんじょう

宮崎県中部、東諸県(ひがしもろかた)郡国富町(くにとみちょう)の一地区。旧本庄町。荘園(しょうえん)諸県荘の中心地。近世は天領で商工業が栄え、六日町(むいかまち)、十日町(とおかまち)の市(いち)地名が残る。

[編集部]

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百科事典マイペディア 「本庄」の意味・わかりやすい解説

本庄[市]【ほんじょう】

埼玉県北西部の市。1954年市制。北部は利根川南岸の沖積低地,中部は神流(かんな)川により堆積した扇状地の台地,南部は秩父山地北麓の丘陵地を占める。中心市街は中世末期の城下町で,近世には中山道の宿場町,市場町,明治以後は繭の集散地として栄えた。上越新幹線,高崎線,八高線,関越自動車道が通じ,南部には工業団地が造成され,電気機器,製材,木工,食品,化学などの工業が行われる。住宅地化が進んでいる。2006年1月児玉郡児玉町を編入。89.69km2。8万1889人(2010)。

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事典・日本の観光資源 「本庄」の解説

本庄

(埼玉県本庄市)
中山道六十九次」指定の観光名所。

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デジタル大辞泉プラス 「本庄」の解説

本庄

島根県松江市にある道の駅。国道431号に沿う。

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