日本歴史地名大系 「三塚村」の解説 三塚村みちづかむら 長野県:佐久市野沢地区三塚村[現在地名]佐久市大字三塚東は跡部(あとべ)村・野沢(のざわ)村と耕地で、南の前山(まえやま)村と西の小宮山(こみやま)村とは片貝(かたかい)川をもって境し、北の上桜井(かみざくらい)村・中桜井(なかざくらい)村とは耕地続きである。野沢平(のざわだいら)の中ほどに位置し、北と西に緩やかな傾斜を示す平坦な地で幹線の道から離れて孤立している。現在の三塚の東に大塚が三つあったので名付けたともいい、三千束の転訛であるともいう。三塚遺跡群は自然堤防状微高地にあり、現在の集落とも重なっている。小字五里畑(ごりはた)には住居跡が発見されたといい、遺物は小形丸底・坏・甑・高坏などの土師器と剣形の模造品が出土している。泉(いずみ)小学校敷地からは多量の土師器が出土し、住居跡もいくつか発見された。土師器は和泉式など古式に属する。 三塚村みつづかむら 岐阜県:大垣市旧安八郡地区三塚村[現在地名]大垣市三塚町・緑園(みどりえん)揖斐(いび)川右岸の平坦地、大垣輪中の東部に位置し、西は藤江(ふじえ)村。村の南部を美濃路が通る。「新撰美濃志」に「梶原景時が当国守護の時工藤祐経の子犬坊丸禾森に来りてしばらく居たりし故に其塚をこゝにつきて祭る」という犬坊墳のほか、はり原・石堂墳があったため三墳村と名づけたのが村名の由来とされる。鎌倉期のものとされる石包名年貢算用帳(東大寺図書館蔵)に「三律(津)賀平八郎」、文安二年(一四四五)一一月の大井庄年貢納帳案(同館蔵)に「ミツヽカウマン」とみえるのは当地のことであろう。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by