伴野庄(読み)ともののしよう

日本歴史地名大系 「伴野庄」の解説

伴野庄
ともののしよう

千曲川左岸の野沢平のざわだいらに位置した荘園

吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条に、後白河法皇が源頼朝に対し信濃国など関東知行国における院宮領以下の諸荘の年貢未済の督促を命じた中に「院御領佐久伴野庄」と記される。「和名抄」記載の古代郷刑部おさかべ郷の地を中心として形成されたものと考えられる。その過程で有力な役割を果したのは、この頃東信濃一帯に開拓を進めていた大伴氏であったろうと思われる。「延喜式」神名帳に「大伴オオトモノ神社」がある。この大伴氏によって開発された墾田は、のちに藤原氏を領家とする荘園となり、平安時代末皇室領となったものであろう。その後の伝領関係については大徳寺文書の中の「信濃国伴野庄・下総国葛西御厨御相承次第」に推移をみると、基家卿―北白川院(藤原陳子)式乾門院(利子内親王)―室町院(暉子内親王)―伏見院―新院御方とあるので、鎌倉時代後期には藤原基家没後、承久の乱を間に挟み本家が後院から室町院、更に伏見院に移ったことがわかる。


伴野庄
ともののしよう

「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条の乃貢未済庄々注文に「上西門院御領伴野庄」とあるのが初見である。上西門院を領家とする皇室領であった。

荘域は、「和名抄」所載の伴野郷とほぼ重なる地域と推定される。伊那山脈の西麓で、下伊那郡の天竜川東部地域一帯が含まれる。天竜川と伊那山脈との間に南北に長く続く沖積地と段丘上の平地とからなり、現豊丘とよおか神稲くましろ地区のうちに「伴野」の地名が残っている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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