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越後国 えちごのくに

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

越後国
えちごのくに

今日の佐渡島を除く新潟県北陸道の一国。上国。もと越国の東北部にあたり,久比岐,深江,高志の国造が支配した。天武天皇のときに越国が三分されてその一つが越後国となったといい,大宝2(702)年,越中国から 2郡を編入。和銅1(708)年には出羽郡を分離。当国は蝦夷政策の前線として大化3(647)年には渟足柵が,翌年には磐舟柵が設けられた。国府は上越市塩屋,国分寺は同市春日。『延喜式』は石船(いはふね),三島(みしま),古志(こし),蒲原(かんはら),沼垂(ぬたり),魚沼(いをぬ),頸城(くひき)の 7郡を記載,『和名抄』には郷 34,田 1万4997町余とあるが,『色葉字類抄』『拾芥抄』では 2万3738町余に増加。また『延喜式』には越後布がみえ,越後縮(→小千谷縮)の先駆をなすものとされる。中世には荘園の貢納品として多量の縮布が生産されていた。鎌倉時代には比企氏佐々木氏に次いで北条氏の一族名越氏が,室町時代上杉氏が守護。戦国時代には上杉謙信の活躍があり,越後国統一ののち信濃にも出兵し武田信玄と戦い,関東に入り後北条氏を攻め,越中を攻略し,能登,加賀に進んで織田信長と戦った。豊臣秀吉は謙信の養子上杉景勝を越後に封じ,慶長3(1598)年会津に移るまで支配。関ヶ原の戦い後は堀氏,溝口氏,近藤氏,村上氏が分割して統治した。江戸時代には初め松平忠輝 45万石の高田藩があったが,榊原氏 15万石に代わり,溝口氏の新発田藩,内藤氏の村上藩,堀氏の長岡藩など小藩に分割された。明治4(1871)年の廃藩置県では 7月に各藩が 10県となり,同年 11月に柏崎県と新潟県とに併合され,1873年,新潟県に統一された。

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デジタル大辞泉の解説

えちご‐の‐くに〔ヱチゴ‐〕【越後国】

越後

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百科事典マイペディアの解説

越後国【えちごのくに】

旧国名。北陸道の一国。今の佐渡島を除く新潟県。もと越(こし)の国に含まれ,7世紀末に分立。《延喜式》に上国,7郡。中世末期に上杉氏が守護。1598年の上杉景勝転封後,堀氏,徳川忠輝の支配を経て幕府領と小藩の分立状態となる。
→関連項目奥山荘質地騒動中部地方新潟[県]

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

えちごのくに【越後国】

佐渡(さど)島を除く現在の新潟県の旧国名。古くは越(こし)国とよばれていたが、7世紀末に、越後国、越中(えっちゅう)国(富山県)、越前(えちぜん)国(福井県)に分かれた。律令(りつりょう)制下で北陸道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の上越市におかれていた。鎌倉時代の1207年(承元1)に親鸞(しんらん)が越後に流罪(るざい)となり、初期真宗(浄土真宗)教団がこの地で成立した。南北朝時代の1343年(康永(こうえい)2/興国(こうこく)4)に上杉氏守護となって以来同氏の領国支配が確立した。戦国時代にはその家臣長尾氏が勢力を伸ばし、長尾景虎(かげとら)(のち上杉謙信)が戦国大名として勢力を振るった。1598年(慶長(けいちょう)3)に上杉氏は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命で転封(てんぽう)(国替(くにがえ))となり、以後、大名の交代が激しく幕末には11の小藩が分立した。1871年(明治4)の廃藩置県により新潟県、柏崎(かしわざき)県の2県となったが、1873年(明治6)に合併して現在の新潟県となった。

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世界大百科事典 第2版の解説

えちごのくに【越後国】

旧国名。北陸道に位置する上国(《延喜式》)。現在の佐渡を除く新潟県に当たる。
【古代】
 大化改新以後つくられた越(こし)国の蝦夷に接触している地域で,7世紀の半ば阿倍比羅夫が蝦夷経営に活躍し,渟足(ぬたり)柵磐舟(いわふね)柵がつくられた。7世紀末には越前,越中,越後の3国に分かれた。このころの北限は不明であるが,沼垂(ぬたり),石船2郡がある。南限は信濃川河口と考えられるが,702年(大宝2)越中国より頸城(くびき),魚沼,古志,蒲原(かんばら)4郡が越後国に編入された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

越後国
えちごのくに

現在の新潟県の旧国名。北陸道に属する。上国。佐渡は743年(天平15)越後国に併合されたが、752年(天平勝宝4)ふたたび一国に復した。北陸から出羽(でわ)地方以南は古くは越国(こしのくに)とよばれていた。これが越前(えちぜん)、越中(えっちゅう)、越後と3地区に分かれたのは7世紀末ころであった。このころの越後は阿賀野(あがの)川、信濃(しなの)川合流河口以北で、その北東部は蝦夷(えみし)の勢力に接し、境は不明確であった。大化改新後の大和(やまと)朝廷は、この国に647年(大化3)渟足柵(ぬたりのき)、648年に磐舟柵(いわふねのき)を設置し、蝦夷征圧の前進基地とした。702年(大宝2)には親不知(おやしらず)から阿賀野川までの越中4郡(頸城(くびき)、魚沼(いおぬ)、古志(こし)、蒲原(かんばら))を越後国に入れ、712年(和銅5)出羽国として成立した北部を除いて、越後の領域が形成された。
 706年(慶雲3)に威奈大村(いなのおおむら)が初代の越後国守に任ぜられ、ついで安部真君(あべのまきみ)が国守に任ぜられ、辺境越後の経営にあたった。越後での統治の中心、国府は、当初今府(いまぶ)(現妙高(みょうこう)市)に置かれ、その後国賀(こくが)の地に移り、さらに府中(ふちゅう)(現上越市)へと、関川を下って移動してきたと考えられている。
 東北地方から南下してきた武士の城(じょう)氏は、平安末期には越後一国を支配する棟梁(とうりょう)として成長した。源平争乱期には平氏一族の城氏は信濃の木曽義仲(きそよしなか)と対立、敗れて義仲が越後守(えちごのかみ)となった。その後源頼朝(よりとも)は越後を知行(ちぎょう)国として治め、佐々木盛綱(もりつな)が越後守護に任ぜられた。建武(けんむ)新政後は新田義貞(にったよしさだ)が越後守護として国内を領したが、南北朝争乱期、足利(あしかが)氏の任命した上杉憲顕(のりあき)は、越後新田氏などの南朝軍を破り北朝支配を強めた。
 奈良時代から越後の特産物であった越後布も室町時代には公式礼服に用いられた。原料の青苧(あおそ)も越後が特産地で、その売買を独占する青苧座の手により、柏崎(かしわざき)や府中から遠く京坂に運ばれた。1207年(承元1)親鸞(しんらん)が専修念仏(せんじゅねんぶつ)禁制によって越後国府に流罪になった。初期真宗教団は親鸞の越後での布教活動により成立した。1343年(興国4・康永2)上杉憲顕が越後守護になってから、越後国内は上杉氏の勢力が強まった。しかし、やがて家臣の長尾氏にとってかわられた。長尾為景(ためかげ)の二男、上杉謙信(けんしん)は、越後国内の抗争を押さえ、全盛時には佐渡、越中、能登(のと)の3か国や、加賀、越前、信濃、奥羽など12か国の一部にまで支配を広めた。謙信の殖産興業策・文化奨励策により産業、交通が発展し、京文化が流入した。
 1598年(慶長3)豊臣(とよとみ)秀吉の命により、上杉景勝(かげかつ)が会津に移封され、そのあとに堀氏とその与力(よりき)大名が越後に入封した。江戸時代に入ると、大名の交代が激しく、幕末期には11の小藩に分立し、統一ある発展が阻害された。越後平野に残っていた多くの潟湖(せきこ)を含む低湿地は、近世期以降に各藩の干拓事業が地主、町人などの出資で行われ、急速に開発が進んだ。それに伴い村数も増加し、天保(てんぽう)期(1830~44)までに881村が成立、越後全体で4051村になった。こうした越後には、所有地1000町歩を超える巨大地主市島家、斎藤家、白勢(しろせ)家、田巻家などが輩出した。多くの耕地が藩領域を越えて地主経営下に置かれ、経済、社会、文化の各方面に地主の影響が強く及んだ。
 1672年(寛文12)以降、西廻(にしまわり)航路の発展とともに、新潟港(当時長岡藩領)は越後米の集散地として発展した。幕府は天保の改革(1841)の一環として新潟港を上知(あげち)し財政補強を図った。出雲崎(いずもざき)町出身の良寛(りょうかん)、『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』を著した塩沢(しおざわ)(南魚沼(みなみうおぬま)市)の鈴木牧之(ぼくし)などの文人や、尊王論を公家(くげ)に説いた竹内式部(たけのうちしきぶ)、重商主義的な経済政策を説いた本多利明(としあき)などが輩出した。
 1868年(慶応4)の北越戊辰(ぼしん)戦争は越後諸藩をも渦中に巻き込んだ。河井継之助(つぎのすけ)の率いる長岡藩は官軍に強く抵抗したが、ついに敗れ、旧藩府勢力は排除された。明治政府確立後、廃藩置県によって、新潟、柏崎などの県が設置された。現在の新潟県は、1871年(明治4)に新潟、柏崎両県および相川県が合併、さらに86年に福島県の一部、東蒲原(ひがしかんばら)郡との合併によって今日に及んでいる。[中村義隆]

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