吉河庄(読み)よかわのしよう

日本歴史地名大系 「吉河庄」の解説

吉河庄
よかわのしよう

和名抄」記載の美嚢みなぎ吉川よかわ郷の郷名を継承する中世の庄園。現吉川町と三木市口吉川くちよかわ町付近に比定される。吉河上庄・同下庄・竹原たけわら村から構成される。本家職は歓喜光かんきこう(現京都市左京区)領として大覚寺統に伝領された。上庄と竹原村の領家は鎌倉時代後期には大報恩だいほうおん(現京都市上京区大報恩寺)、室町期には万里小路家であった。建仁三年(一二〇三)八月五日の吉河上庄百姓等連署状(法光寺文書)に「吉河上庄」とみえ、上庄庄官・百姓らは法光ほうこう(現吉川町)に対し、不忠はしない、山野の御油田畠などで不慮の儀が発生したならば、庄官・寺僧と同心のうえ対処することを誓っており、鎌倉初期にすでに上庄・下庄に分れていた。

弘安六年(一二八三)四月、竹原村を除く上庄が不断念仏供料として安嘉門院(後高倉院守貞親王娘)から大報恩院の本源院に寄進され大報恩院の仏恵が年貢を収納し、同年より歓喜光院へ二〇果、翌年より嵯峨観音堂へ二〇果を、また安光院仏供灯明料を北白河殿に安置してある本尊が戻って以降に納めること、竹原村は知行している中将局の死後本庄に付けて大報恩寺領とすることとされた。またその際、預所職をもっていたと思われる藤原範親(似絵の名人藤原隆信の曾孫)は、上庄は祖父(曾祖父隆信)よりの相伝の地で、証拠書類の原本は歓喜光院の宝蔵に納めてあると称したが、これを不審とした大報恩院側が宝蔵中を捜したが、文書は存在しなかったという(「安嘉門院庁下文」山城大報恩院文書)


吉河庄
よしかわのしよう

現三島郡三島みしま町を中心とした庄園。保延六年(一一四〇)の大弐尼奉書案(「根来要書」上)の冒頭の注に「吉川庄事 大弐尼奉」とあるが、詳細は不明。永万元年(一一六五)八月一四日の高松女院令旨案(同書)には、「ゑちこのよしかハのさう」を紀伊高野山伝法院に寄進する旨が記される。ただ「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条に載せる関東知行国乃貢未済庄々注文には「高松院御領吉河庄」と出ているから、本所職は皇室に伝来されていたと思われる。高松院は鳥羽天皇第四女妹子内親王。建久二年(一一九一)には吉河庄は長講堂領に入っている(「長講堂所領注文」島田文書)。当庄は元日から三日間の雑事として御簾五間・御座九枚(大文三・小文三)・砂一〇両のほか、彼岸御布施布六反(八月分)、門兵士(油少路面八月三〇ヵ日分)、元日から三日までの牛飼衣服一具・御更衣小文畳二枚(一〇月料)を課せられていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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