三才村(読み)さんざいむら

日本歴史地名大系 「三才村」の解説

三才村
さんざいむら

[現在地名]長野市大字三才

東は下駒沢しもこまざわ村と、西は徳間とくま村・上野うえの村・田子たご村と山麓で境し、南は上駒沢村と、北は田子川を挟み南郷みなみごう村(現上水内郡豊野とよの町)と接する。

嘉暦四年(一三二九)の諏訪社上社の大宮御造栄之目録(諏訪大社上社文書)に「外垣一間、三歳・狩箱」とあって、中世からの小郷であった。慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)に、「三百七拾石七斗五升四合 三才村」と村名がみえる。慶長三年以後、松城領であったが、元和二年(一六一六)水内みのち長沼ながぬま領となり佐久間氏の領するところとなった。貞享五年(一六八八)佐久間氏が封を除かれて後は幕府領となった。


三才村
さんざいむら

[現在地名]常陸太田市三才町

里川西岸の沖積地帯にあり、北は西宮にしみや村。文禄五年(一五九六)の御蔵江納帳(秋田県立図書館蔵)に「太田三在」とあり、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「三才村」とみえる。寛文三年(一六六三)開基帳(彰考館蔵)や享保一一年(一七二六)の御領内鎮守帳(江原忠昭氏蔵)には「三歳村」とあり、天保郷帳には三才村とみえ、「新編常陸国誌」には「旧三才ニ作ル」とある。同書によると元禄一五年(一七〇二)の人口二九四、文化二年(一八〇五)の戸数七五。


三才村
さんざいむら

[現在地名]松本市三才

松本城下町をめぐる庄内しようない組の一村中林なかばやし筑摩つかま村の南にある東西に長い村で、すべて平坦地である。南は諏訪高島藩領の神田かんだ村と接している。

天正検地には一一一石七斗七升と高付けされ、享保九年(一七二四)当時の石高は一六七石八升九合七勺である。寛文年間(一六六一―七三)水田は八町九畝、畑地は三町三段五畝一九歩。慶安検地の時、本百姓五、門百姓二、その他一である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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