常陸太田市(読み)ヒタチオオタシ

デジタル大辞泉 「常陸太田市」の意味・読み・例文・類語

ひたちおおた‐し〔ひたちおほた‐〕【常陸太田市】

常陸太田

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「常陸太田市」の解説

常陸太田市
ひたちおおたし

面積:一一〇・一一平方キロ

久慈川の北に位置し、東側に多賀山地の南端である丘陵と台地、西側には久慈山地の南部の続きである丘陵と台地があり、その間を里川や源氏げんじ(増井川)が北から南に流れて低地を形成し、久慈川に注ぐ。市域の地形は北部が山地と丘陵、中間が台地、南部が沖積低地帯である。集落は棚倉たなぐら街道の走る里川流域と久慈川流域の自然堤防上、山地や丘陵の縁に分布するが、中心市街地の太田は久慈山地の続きである舌状台地上のくじらおかに展開する。

〔原始〕

縄文時代の遺跡にははた町の縄文前期の土器を出土する森東もりひがし貝塚があり、土器の特色は東北系と南関東系の影響を受けた地方色豊かな北関東独特のものである。弥生時代の遺跡も縄文時代と同じ地域に分布するが、市の南西部の谷河原やがわら稲木いなぎ天神林てんじんばやしの台地にも多い。古墳では県指定史跡のしま町の梵天山ぼんてんやま古墳群、市指定史跡の幡山はたやま古墳群がある。梵天山古墳群は標高三〇メートル前後の独立丘陵上にあり、中心の梵天山古墳は県内第二の規模をもつ前方後円墳で、久自国造船瀬足尼の墓といわれる。

〔古代〕

当市域は久慈郡に属し、「常陸国風土記」の久慈郡に「太田の郷」などがみえ、「和名抄」の久慈郡にみえる佐竹・志万・大田・岡田・世矢・佐野都などの郷は現市域に関係が深い。「延喜式」神名帳に載る久慈郡七座のうち、市域内には長幡部神社・薩都神社・天志良波神社・稲村神社がある。

この地方には、平将門を追討した藤原秀郷の五世の孫公通の二子通延・通直が、常陸北部の那珂川上流から久慈川中流域に進出し、通延は太田郷に居住して太田大夫と称し、孫の通盛が佐都さと西郡小野崎おのざきに居館して小野崎氏を称し里川流域を支配した。

常陸太田市
ひたちおおたし

2004年12月1日:常陸太田市が久慈郡里美村水府村金砂郷町を編入
【里美村】茨城県:久慈郡
【水府村】茨城県:久慈郡
【金砂郷町】[変更地名]茨城県
【常陸太田市】茨城県

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「常陸太田市」の意味・わかりやすい解説

常陸太田〔市〕
ひたちおおた

茨城県北部,久慈川の支流里川,山田川流域に広がる市。南北に細長い市域の中央を久慈山地が走る。1954年佐都村,誉田村,機初村,西小沢村,佐竹村,幸久村の 6村を編入,太田町を改称して市制。1955年世矢村と河内村の一部を編入。2004年金砂郷町,水府村,里美村を編入。中心市街地は奈良時代末期,太田荒大夫が城を築き,以後佐竹氏が舞鶴城と名づけて居城。江戸時代には里川の谷口集落として水戸以北,福島県にまで商圏を広げて発展。耕地の過半を水田が占める。ソバ,コンニャクなどもつくられ,金砂郷,水府は水府タバコの産地。徳川光圀隠棲の西山荘,水戸徳川家の別荘天竜院,瑞竜山,佐竹寺 (本堂は国指定重要文化財) ,都々逸坊扇歌の碑などがある。里美に横川温泉がある。南部は太田県立自然公園高鈴県立自然公園に,北部は花園花貫県立自然公園にそれぞれ属する。JR水郡線,国道293号線,349号線が通る。面積 371.99km2。人口 4万8602(2020)。

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