日本の城がわかる事典 「三春城」の解説 みはるじょう【三春城】 福島県田村郡三春町にあった城。戦国大名の田村氏の城で、江戸時代には三春藩の政庁が置かれた城である。現在の三春町の中心部に位置する大志多山(比高約90m)にあった。築城年代、築城者は明らかではない。永正年間(1502~21年)、守山城(郡山市)を居城としていた田村義顕が三春城に居城を移して以降、田村氏の主城となった。仙道(現在の福島県の中通り地方)は会津の蘆名氏、米沢の伊達氏、常陸の佐竹氏、浜通りの相馬氏や岩城氏などが勢力拡大のため、たびたび侵攻を繰り返した地域にもかかわらず、田村氏は有力大名との血縁関係を結びながら家名を存続させた。伊達政宗(まさむね)の時代には田村氏は実質的に伊達家に従属したが、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったことから、1590年(天正18)の奥州仕置で領地を没収され滅亡し、その領地は蒲生氏郷(がもううじさと)が引き継いだ。次いで上杉領、再び蒲生領、さらには加藤領と変転を続けたのは、周辺一帯と同様である。三春城を戦国時代の城郭から近世城郭へと整備したのは、1628年(寛永5)に三春藩5万石の藩主となった松下長綱で、次いで、三春藩主となった秋田俊季が山城(やまじろ)から平山城(ひらやまじろ)へと改修した。秋田氏はその後明治にいたるまで三春藩の藩主をつとめた。幕末、三春藩は奥羽越列藩同盟に加盟したが、新政府軍により棚倉城(東白川郡棚倉町)が落城すると、いち早く同盟を脱退して新政府に降伏したため、三春城は破壊をまぬがれた。しかし、1871年(明治4)に廃城となり、建物や石垣などが取り壊されて民間に払い下げられたため、建物をはじめとするほとんどの構造物が失われた。城跡には土塁や石垣の一部などが残っており、城山公園として整備され、遊歩道が設けられている。また、藩校明徳堂の表門が三春小学校の校門として移築されて現存している。なお、同公園は日本三大桜の一つの「三春滝桜」がある桜の名所として知られる。JR磐越東線三春駅から車で約10分。◇舞鶴城とも呼ばれる。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報