1868年(慶応4)5月から9月にかけて存在した東北諸藩を中心とする反維新政府攻守同盟ないし地方政権。同年正月の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いののち、維新政府は徳川勢力の一掃と全国平定を開始、2月には九条道孝(みちたか)を奥羽鎮撫(ちんぶ)総督に、薩摩(さつま)藩士大山綱良(つなよし)、長州藩士世良修蔵(せらしゅうぞう)を参謀に任命して仙台に派遣した。総督府は東北諸藩に会津征討を命じたが、仙台、米沢(よねざわ)を中心とする諸藩は白石(しろいし)に会議して、戦争を回避し会津救済を図るため、嘆願書を提出したが却下されたため、新政府軍との対決の姿勢を強めた。5月3日東北25藩は仙台に会合し、仙台藩を盟主として同盟を締結、ついで長岡など6藩がこれに加入し、奥羽越列藩同盟が成立した。同盟は白石に公議府、福島に軍事局を置いた。旧幕臣、新選組、彰義隊(しょうぎたい)残党など佐幕派も合流した。6月に輪王寺宮(りんのうじのみや)公現法親王(後の北白川宮能久(きたしらかわのみやよしひさ)親王)が上野を退去して会津に入ると、諸藩は宮を盟主にいただき、白河(しらかわ)に公議府を移して、地方政権の性格を濃くしていった。
一書によると、大政の元号を用い、宮を東武皇帝とし、九条道孝を関白太政(だじょう)大臣、仙台藩主伊達慶邦(だてよしくに)を権征夷(ごんせいい)大将軍、会津藩主松平容保(かたもり)を副将軍とする東国政権の構想があったという。上野の彰義隊を撃滅して関東を平定した維新政府は5月同盟諸藩への攻撃を開始した。戦局は新政府軍に有利に進展し、同盟諸藩の離脱、降伏が相次いだ。9月に入ると仙台、会津が降伏し、列藩同盟は名実ともに崩壊した。
[井上 勲]
『原口清著『戊辰戦争』(1963・塙書房)』▽『石井孝著『維新の内乱』(1968・至誠堂)』▽『村上一郎編『明治の群像之戊辰戦争』(1968・三一書房)』
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戊辰戦争に際し,東北・北陸諸藩が結んだ反薩長同盟。1868年(明治1)3月下旬,奥羽鎮撫総督九条道孝は,参謀大山綱良(つなよし),世良修蔵らとともに仙台に入り,東北諸藩に会津藩征討の命を発した。仙台藩と米沢藩は,会津藩の謝罪と寛典の斡旋を行い,閏4月11日,盛岡,二本松など14藩の重臣を仙台藩白石城に集め,総督府に列藩連署の嘆願書を提出した。しかし,謝罪の時すでに遅しとする総督府は,これを拒否して即刻出兵を命令し,処分強硬派と目された世良が暗殺される事件が起きた。5月3日,再び白石城に26藩重臣が集まり,太政官あての会津征討中止の建白書を作成し,統一して行動する盟約書も採択された。ついで会津藩と盟約を結んでいた長岡藩,新発田藩などの北陸6藩も同盟に加わり,反新政府急進派の仙台藩を盟主とする奥羽越列藩同盟が成立した。6月に,盟主は,輪王寺宮に変えられて,諸藩の平等な連合の性格が打ち出され,公議府を白石城に置いた。総督に仙台藩主伊達慶邦(よしくに)と米沢藩主上杉斉憲(なりのり),参謀に旧幕臣の小笠原長行(ながみち),板倉勝静(かつきよ)を任じて指導部とし,全国的な反新政府の戦略を構想し,新政権樹立を意図する動きもあった。同盟軍は,一部で勝利を収めたものの,北陸では,かなめとなる長岡藩が7月に敗北し,東北でも,同じく7月に秋田藩が同盟を脱退して苦境に陥った。9月,米沢藩,仙台藩が降伏して,同盟は崩壊した。
→会津戦争
執筆者:井上 勝生
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戊辰(ぼしん)戦争時に明治新政府に対抗して結ばれた奥羽・北越諸藩の同盟。1868年(明治元)3月,会津藩追討令をうけた東北諸藩は,14藩連署の会津藩赦免願が鎮撫総督府に拒否されると,5月3日に25藩による同盟を結成し,これに長岡などの北越6藩も加わり,仙台藩を盟主とした。しかし新政府軍の進攻で敗北や脱落があいつぎ,6月には輪王寺宮を軍事総督に迎えたが,9月に仙台・米沢両藩が降伏して崩壊した。
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…1868年(明治1)1月の鳥羽・伏見の戦後,新政府は,会津藩主松平容保(かたもり)を徳川慶喜に次ぐ朝敵とし,奥羽鎮撫総督に沢為量(ためかず),のち九条道孝を任命し,会津処分を決定した。これに対し,米沢藩,仙台藩を中心とする東北諸藩は,閏4月,処分強硬派の新政府軍参謀世良修蔵暗殺事件を機にして攻守同盟を結び,5月には,北越諸藩に及ぶ30余藩の奥羽越列藩同盟へと発展させて新政府軍に対抗した。新政府軍は,白河口,平潟口,越後口から進撃し,6,7月の激戦の後,会津領内に入り,列藩同盟諸藩もしだいに脱落した。…
…1860年(万延1)奉行となり,幕政協調と藩財政のたて直しを基調とする漸進的改革政策をとった。大槻磐渓の親露開国説の影響を受け,戊辰戦争にあたり会津・庄内両藩の謝罪寛典,薩長専横の排撃と〈真勤王〉を主張して奥羽越列藩同盟の中心となり,交戦に至る。降伏後,東京に護送され麻布の仙台藩邸で斬罪に処せられた。…
※「奥羽越列藩同盟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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