日本歴史地名大系 の解説 三栖半町・三栖町一丁目―同五丁目・三栖向町みすはんまち・みすちよういつちようめ―ごちようめ・みすむこうちよう 京都市:伏見区伏見町第四区三栖半町・三栖町一丁目―同五丁目・三栖向町阿波橋(あわばし)西詰南側が三栖半町で、宇治(うじ)川派流の西側に沿って南へ、三栖一丁目・二丁目と続き、宇治川本流北岸の五丁目に至る。三栖向町は対岸肥後橋(ひごばし)東詰の町。三栖半町は、濠(ほり)川が南流してきて宇治川派流と合流する地点の西側にあり、城下町時代には蜂須賀阿波守屋敷があった。このため濠川対岸の村上(むらかみ)町との間に架けられた橋は、阿波殿橋とよばれ、後に阿波橋となったという。町地化したのは、伏見廃城に伴う阿波守屋敷廃絶後、当町の南で高瀬(たかせ)川を東流させ宇治川派流とつないだ慶長末年頃からと思われる。寛文一〇年(一六七〇)山城国伏見街衢並近郊図でみると、高瀬川と濠川との合流地点の北部、すなわち三栖半町の南西隅に、石垣で土台を高く築きあげた上に平屋建の家が見え、「高瀬番所」と記されている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by