三田中村(読み)みたなかむら

日本歴史地名大系 「三田中村」の解説

三田中村
みたなかむら

[現在地名]智頭町三田みた

智頭宿から南の土師はじ谷に入った辺りの村で、土師川下流域左岸に集落が発達する。南接する三田井上みたいのうえ村とともに古代の智頭郡三田郷(和名抄)の遺称地。文明一二年(一四八〇)二月一五日の譲状(因幡志)木原善棟から息子おき法師に譲られた木原きのわら名の西・北は「三田さかへ」を限りとしていた。また享禄二年(一五二九)四月一九日の木原元信譲状(因幡民談記)によると木原元信(善棟の孫か)から亀松に譲られた同名の四至のうち西は「三田坂井(境)山ノ大峯」、北は「三田ウネホキ坂井」に限られていた。「因幡志」などによると、かつて当地に応福おうふく寺と号する寺院があり、同寺の僧が武蔵坊弁慶の母イタ御前の帰依を受けていたため、イタ御前が死んだ際、当地に葬ったとの逸話が残されている。「蔭涼軒日録」文明一八年五月二六日条によれば、京都鹿苑ろくおん寺梵桂維馨の吹挙状を帯して「因幡国応福寺」が寺領の安堵を申請しており、この頃応福寺は鹿苑寺の末であったと考えられる。同書同年六月二日条・同年七月二三日条などによると、応福寺は正平一六年(一三六一)山名時氏から寺領を寄進され、また足利義満の祈願寺となり、播磨守(山名満幸か)からも寄進を受けるなど数通の支証があったため安堵が決定され、紳瀑岩座元に安堵状が渡されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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