智頭町(読み)ちずちよう

日本歴史地名大系 「智頭町」の解説

智頭町
ちずちよう

面積:二二四・六一平方キロ

八頭郡の南部に位置し、北は用瀬もちがせ町・船岡ふなおか町・八東はつとう町,東は若桜わかさ町、南は岡山県英田あいだ西粟倉にしあわくら村、同県勝田かつた郡勝田町・奈義なぎ町・勝北しようぼく町、西は同県苫田とまた加茂かも町・阿波あば村。町内東部には鳴滝なるたき山・とう山・おきノ山など標高一〇〇〇メートル級の山々がそびえ、南には一二〇〇メートルを超える那岐なぎ山がある。また西部の桜尾さくらお山、北部のかご山、智頭集落周辺の穂見ほのみ山・海上かいじよう山も六〇〇―九〇〇メートルの標高があり、町の九〇パーセント余は山林原野である。千代川は当町南東部から蛇行しながらほぼ北西流し、北股きたまた川・土師はじ川・新見にいみ川などの支流を合せ、用瀬町へ抜ける。主要交通路は千代川沿いに走り志戸坂しどざか峠をトンネルで抜け西粟倉村に向かう国道三七三号(旧智頭街道)土師川に沿って南下して黒尾くろお峠を経て奈義町に続く国道五三号(旧備前街道)のほか新見川に沿い物見ものみ峠から加茂町に至る主要地方道津山―智頭―八東線などがある。鉄道はJR因美線が通る。

縄文時代の遺跡は確認されていないが、弥生時代後期の段山だんやま遺跡からは弥生土器・石槍などが、また弥生後期の後半に属する埴師の長瀬向和はにしのながせむかえ遺跡から器台や壺が、そして高下こうげ古墳周辺からは後期の壺・甕・高坏などがそれぞれ出土している。古墳は後期に属し八基の古墳で構成される中田なかだ古墳群のほか富沢とみざわ古墳・篠坂しのざか古墳、圭頭大刀・銅鋺などが出土した黒本谷くろもとだに古墳がある。このほか三田の岩宮みたのいわみや神社旧跡近くの経塚から建長元年(一二四九)の写経の入った経筒が発見されている。古代から智頭郡に属し、「和名抄」に載る同郡五郷のうち土師・日部くさかべ・三田の三郷があったとされ、土師郷は土師川中流域から上流域に、日部郷は千代川上流域の山形やまがた山郷やまさと地区に、三田郷市瀬いちのせ・智頭および新見にいのみ谷一帯にそれぞれ比定される。また志戸坂峠越の古代の官道が通っており道俣みちまた駅が設けられていた。中世に入ると草部くさかべ保と千土師ちはじ郷が史料に現れる。草部保は古代の日部郷、千土師郷は土師郷・三田郷の郷域を含むとされる。千土師郷は東方と西方とに分れていたが、東方が土師郷、西方が三田郷と推定されている。東方上村は東六郎盛義の所領であったが、その三分の一は元亨元年(一三二一)称名しようみよう(現神奈川県横浜市金沢区)領となり、まもなく全部同寺領となった。当地は前述の峠越えの道を通じて美作や播磨との関係が深く、播磨姫路にある広峯ひろみね神社の信仰が早くから浸透していた。同社社家肥塚家の天文一四年(一五四五)二月吉日の檀那村付帳に町域内のものと思われる地名が多くみられるが、その位置を確定できないものもある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「智頭町」の意味・わかりやすい解説

智頭〔町〕
ちづ

鳥取県南東部,岡山県と接する町。千代川の上流域を占める。 1914年町制。 1954年山郷村を編入。中心集落の智頭は江戸時代智頭街道宿場町として発展。スギの美林が多く,製材,木工業が盛ん。河岸の小平地では,米作,果樹栽培,ウシ飼育が行なわれる。智頭西郊にある豊乗寺は国宝の絵画『普賢菩薩像』を所蔵することで有名。東部の沖ノ山,岡山県境にある西部の那岐山一帯は氷ノ山後山那岐山国定公園に属する。 JR因美線,智頭急行,国道 53号線が通じ,智頭で 373号線を分岐。面積 224.70km2。人口 6427(2020)。

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事典 日本の地域遺産 「智頭町」の解説

智頭町

(鳥取県八頭郡智頭町)
日本で最も美しい村」指定の地域遺産。
智頭町(ちづちょう)は、鳥取県の東南に位置する。周囲は1000m級の中国山脈の山々が連なる。総面積の9割以上が山林で、吉野・北山に並ぶ歴史ある林業地として全国的にも評価が高い。江戸時代から県内最大の宿場町として栄えた

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

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