朝日日本歴史人物事典 「山名満幸」の解説
山名満幸
生年:生年不詳
南北朝時代の武将。師義の子。義幸の弟。 弾 正 少弼,播磨守。兄義幸病弱のため代官として在京,室町幕府将軍足利義満にその才を認められ,至徳1/元中1(1384)年6月,義幸に代わって侍所頭人に抜擢された。翌年末,同職は土岐満貞に更迭されたが,同3年9月には再任され,また同じころ叔父山名氏清も山城守護に在任しているから,一時は叔父甥で山城一国の遵行と検断を独占していたことになる。至徳2/元中2年7月には,やはり兄義幸が更迭されたあとを襲って丹後守護に補任され,翌年同国を義幸に返還する代わりに出雲守護を得た。明徳の乱(1391)直前には丹波守護をも取り戻している。明徳1/元中7年3月義満から従弟山名時煕・氏幸らの討伐を命ぜられ,氏幸の分国を制圧して伯耆,隠岐の守護を加えられたが,翌年秋,出雲横田荘の横領を咎められて出雲を失い,その憤懣から叔父氏清を唆して義満に背いたが山城内野で敗北。いったん山陰に逃れ,筑紫まで逃げたが,洛中五条高倉に潜伏中,侍所京極高詮により殺された。明徳の乱の張本人だが,その怯懦な性格は『明徳記』に批判されている。
(今谷明)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報