山名満幸(読み)やまなみつゆき

日本大百科全書(ニッポニカ) 「山名満幸」の意味・わかりやすい解説

山名満幸
やまなみつゆき
(?―1395)

南北朝時代の守護。父は師義(もろよし)。兄義幸(よしゆき)の病弱により、父師義の丹後(たんご)・出雲(いずも)守護職を継承した。しかし山名氏惣領(そうりょう)職は、師義、時義(ときよし)、時煕(ときひろ)と継承されたため、時煕との対立を深めた。山名一族内紛に介入した将軍足利義満(あしかがよしみつ)は、1390年(元中7・明徳1)叔父氏清(うじきよ)と結んだ満幸に時煕・氏幸(うじゆき)らを討たせた。これにより満幸は、伯耆(ほうき)・隠岐(おき)守護職を獲得し、四か国の守護職をもつ大守護となった。しかし、まもなく仙洞料所(せんとうりょうしょ)の押領(おうりょう)などで義満と対立、翌91年氏清とともに義満に反して明徳(めいとく)の乱を起こしたが敗れ、95年(応永2)京都で京極高詮(きょうごくたかあきら)に殺された。

田沼 睦]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山名満幸」の意味・わかりやすい解説

山名満幸
やまなみつゆき

[生]?
[没]応永2(1395).3.10. 京都
南北朝時代の武将。播磨守。弾正少弼。師義の子。父師義の死後,山名氏の家督は時義,その後は時煕が継承したが,満幸はこれを不満として,叔父山名氏清を誘って,将軍足利義満に訴えた。義満はこの内紛を利用して,山名氏の勢力削減を策し,時煕の討伐を命じた。満幸,氏清は時煕を備前追放,満幸は伯耆,隠岐の守護職を与えられた。しかし,まもなく義満と反目し,明徳の乱を起し,敗れて山陰に逃れた。応永2 (1395) 年京都の旧臣宅で,侍所所司京極高詮に誅された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山名満幸」の解説

山名満幸 やまな-みつゆき

?-1395 南北朝-室町時代の武将。
山名師義(もろよし)の4男。丹後,出雲(いずも)の守護。一族の内紛に介入した将軍足利義満の命で,山名氏清とともに山名時煕(ときひろ),山名氏幸を討って伯耆(ほうき),隠岐(おき)の守護職もえる。明徳2=元中8年仙洞(せんとう)料所の押領問題から氏清をさそって明徳の乱をおこし,応永2年3月10日京極高詮(たかのり)に討たれた。

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世界大百科事典(旧版)内の山名満幸の言及

【明徳の乱】より

…1391年(元中8∥明徳2)に山名氏清,山名満幸らが反幕府的行動を起こし,討たれた乱。山名氏は清和源氏新田氏の一族で,足利尊氏の挙兵に応じて活躍し,山陰地方を根拠として勢力を拡大した。…

【山名氏清】より

…南北朝時代の武将。時氏の第4子。丹波・和泉守護。時氏没後,兄の師義が家督を継ぐが,師義も死没して弟時義が惣領となる。1389年(元中6∥康応1)時義が没すると,将軍足利義満は俗に〈六分一衆〉と呼ばれるほど強大化した山名氏の内部分裂を画策し,氏清が生前の時義と不和であったのを利用して,まず氏清,満幸(氏清の女婿)に命じて時義の子時熙(ときひろ),氏幸を討たせ,時熙の分国但馬を氏清に与えるなどした。時熙らは備後に逃れた。…

※「山名満幸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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