三田村(読み)みたむら

精選版 日本国語大辞典 「三田村」の意味・読み・例文・類語

みたむら【三田村】

姓氏の一つ。

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日本歴史地名大系 「三田村」の解説

三田村
さんだむら

[現在地名]三田市横山町よこやまちようみなみおか一―二丁目・狭間はさまおか武庫むこおか西山にしやま一―二丁目・天神てんじん一―三丁目・相生町あいおいちよう対中町たいなかちよう八景町はつけいちよう

三田町の西から南にかけて、武庫川長尾ながお川に挟まれた平地および段丘に立地する。南は宅原えいばら村・道場河原どうじようがわら(現神戸市北区)てら村、東から北は高次たかすぎ村・三輪みわ村・川除かわよけ村、西は下深田しもふかた村・上深田村。寛正七年(一四六六)正月一六日の松林庵宗趣灯油料田寄進状(清水寺文書)によると、「摂州有馬郡三田村松林庵」の宗趣が買得田二反を清水きよみず(現社町)に寄進している。

江戸時代三田村内に三田藩の陣屋が置かれ、三田町が成立し分離。領内においては別に高付されたが、郷帳類では江戸時代を通して三田村一村で高付けられた。

三田村
みたむら

[現在地名]上野市三田

大谷おおたに村の西。高さ三五〇メートル前後の木津きづ(三田)断層崖が東の外山とやまから西のしまはら(現阿山郡)辺りまで東西に走り、その山麓集落。南部を柘植つげ川が西流し、西南部で服部はつとり川と合流する地域にも村有地がある。山麓の漆原うるしはらから弥生中期の土器が出土し、石室を有する古墳もある。北の高石たかいし、さらに奥の標高約四五〇メートルの遠見塚とおみづか、高石の西の尾崎谷おざきだになどにも後期古墳がある。中央部の平地の三田地みたじ宮之腰みやのこしからは弥生中期から古墳期に至る土器が出土した。条里遺構は西隣の野間のま村との間に確認できる。「日本書紀」宣化紀に「阿倍臣、宜遣伊賀臣運伊賀国屯倉之穀」とあるが、屯倉みやけ屯田みたの一つが当村にあったので三田郷の名称も御田・屯田に由来するといわれる。

三田村
みたむら

[現在地名]浅井町三田

村の西に位置。南辺をあね川が、北辺を草野くさの川が西流し、権現ごんげんひがしさとを水源とする五百いお(三田村川とも)が西端で姉川に合流する。東部に野神塚のがみづか古墳があり、北東を北国脇往還が通る。詳細は不明だが、永享一一年(一四三九)一二月五日、佐々木五郎が「江州三田村中西具足事」を幕府に訴えたことが「政所方書」に記録されており、嘉吉三年(一四四三)五月には堀部熊千代の訴えを受けて、幕府は隣接する堀部春近地頭職の遵行を三田村に命じている(同月二五日付「幕府奉行人連署奉書」建内記)。文明一一年(一四七九)の旱魃の年には姉川の用水をめぐってであろう、対岸の上坂こうざか(現長浜市)と激しく争っており、同年七月二三日の用水相論は合戦にまで発展し、双方で六〇〇余人の死者を出した(晴富宿禰記)

三田村
みたむら

[現在地名]安佐北区白木しらき町三田

高田郡の最南端に位置する村で、北は市川いちかわ村、北東が秋山あきやま村。南東は賀茂郡(現東広島市)、西南は高宮たかみや郡。三篠みささ川に沿い、一般に「三田三里」と称されるように、東北から西南に長く、二里一二町ある。田畠は三篠川両岸にあり、舟運も盛んであった。「芸藩通志」に「民産、舟運漁業あり」と記す。村内の小字はいずれも郷をつけてよばれる。

「和名抄」所載の高田郡三田郷の地であるが、古代の三田郷は現白木町一帯を含み、三田村域のみではない。ただし鎌倉中期頃のものと思われる安芸国衙領注進状(田所文書)に「三田郷九町」とあるのが古代の三田郷より井原いばら志路しじ小越おこえなどを除いた地で、近世の三田村に近いかもしれない。

三田村
さんだむら

[現在地名]厚木市三田

荻野原おぎのはら台地東側縁辺部と、その下段中津なかつ川に沿った自然堤防上に成立した村である。東に中津川が流れ、南は妻田つまだ村、西は下荻野しもおぎの村、北は棚沢たなざわ村に接する。大山道が村の西側を南から北に通じている。

観応三年(一三五二)六月一三日の将軍足利尊氏禁制写(県史三)に「覚薗寺領相模国毛利庄内、妻田・散田・荻野郷」とある。至徳三年(一三八六)六月一五日、官宣旨(同書)に「散田」、応永二六年(一四一九)六月三日、関東公方足利持氏御教書(同書)では「相模国散田郷」とある。この史料によると散田さんだ(三田)郷内の用水は川入かわいり郷の用水の流末を利用していたので、川入郷より井料の提出を求められた。

三田村
みたむら

[現在地名]岸和田市三田町・ひがしおか

摩湯まゆ村の南、牛滝うしたき川中流右岸に位置し、同川が開析した山直やまだい谷の開口部の河岸台地上に立地する。牛滝川は包近かねちか村・新在家しんざいけ村との村境を北西流し、牛滝街道が南の村境を走り新在家村へ入る。村高は文禄三年(一五九四)の検地高一千五一石余(延宝七年「検地帳」和田・西川家文書)。正保二年(一六四五)は一千四一九石余(「和泉国村高帳」鬼洞文庫蔵)

三田村
さんだむら

[現在地名]君津市三田

砂田すなだ村の東にあり、上総丘陵中、東から西に向かって浸食された三田谷(沢)に立地。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三四三石。元禄郷帳では高二九八石余、天保郷帳・旧高旧領取調帳では高三七一石余。寛文四年(一六六四)には久留里藩領で(寛文朱印留)、以降の領主の変遷は山本やまもと村と同じ。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳によると家数四二。元禄五年(一六九二)には長谷川はせがわ堰の水懸りであった(吉田家文書)。明治九年(一八七六)砂田村を合併。字いち作台さくだい浅間せんげん神社、字さくに弁財天社(三宝荒神)がある。

三田村
みつだむら

[現在地名]倉敷市三田

窪屋くぼや郡の東端に位置し、東は都宇つう二子ふたご村。村名の起源については数説あるが、村内の御神山がもと松島まつしま村の五座ござ八幡宮の社領であり、その貢を奉じたため貢田といったのが転訛した、あるいは御供田として長田・挟田・平田の三田が置かれ、これを地名にしたなどと伝える(備中誌)。吉備津神社の流鏑馬料足納帳に文明一〇年(一四七八)分として「弐貫五百文 三田 路銭三百文」とある。

三田村
みたむら

[現在地名]目黒区三田一―二丁目・中目黒なかめぐろ一―二丁目・目黒一丁目、渋谷区恵比寿南えびすみなみ三丁目など

目黒川の中流、北東岸に展開し、南は中目黒村、西は上目黒村。初め幕府領で、寛永二年(一六二五)旗本高木正長に「荏原郡弥陀郷百石」が宛行われている(記録御用所本古文書)。田園簿に三田村とみえ、田方一六二石余・畑方一四九石余、幕府領。元禄郷帳では高二六七石余。以後漸減し、旧高旧領取調帳では幕府領三田町と記され、高二四五石余となっている。村内に鎗ヶ崎やりがさき千代ヶ崎ちよがさきの二つの小名があり、千代ヶ崎の由来は新田義興の侍女千代がこの地にあった池に身を投じたことによるという。

三田村
みたむら

[現在地名]清水町三田

遠井とい村の東南に位置し、村の南限は有田川。村は上谷かみたに下谷しもたに打井原うついばらに分れ、「続風土記」は「三田は御田にして古は寺原村八幡宮の神戸ならむ」という。

慶長検地高目録によれば村高一九三石余、小物成二石九斗五升。寛政一一年(一七九九)の三田村持高当作高并人別御調ニ付書上帳(堀江家文書)によれば家数五〇(寺一・高持三七・無高一二)、人数二〇六(僧一・男一一一・女九四)、牛二二。大工職二人、木挽職一人、鍛冶職四人、屋根葺職一人、桶屋職一人、紙漉奉公一人、江戸詰中間奉公二人、奉公一五人、日々稼一人がいた。文政三年(一八二〇)の山保田組在々家数人数并牛馬増減調帳(同文書)では家数五四で内訳は高持四〇・無高九・無高隠居家四・寺一、居村稼人一八七、他組奉公稼一、他郡出稼八、牛二一、馬三。

三田村
みたむら

[現在地名]八尾町三田

奥田おくだ村の西方にあり、赤江あかえ川が北流する。寛永一八年(一六四一)頃の諸寺道場締役覚書(聞名寺文書)に「三田村善十郎」とみえ、八尾聞名寺役として綿高一四匁余・代銀二匁余を納めていた。正保郷帳に村名がみえ、高九二二石余、田方六〇町余・畑方一町五反、新田三五石余。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では高九〇三石余。寛政二年(一七九〇)の古高八九九石余・定免五ツ二歩五厘、新田高三八石余・平均免一ツ一歩九厘余、銀納畠は一千二四四歩(一〇〇歩につき一匁五分)、小物成銀は山役一七三匁余(高物成品々手鏡)

三田村
さんでんむら

[現在地名]勝山町三田

旭川の西岸、福谷ふくたに川・新庄しんじよう川の河口に位置。旭川対岸は高田たかた村、北は本郷ほんごう村、西は羽別はべち村、南は江川えがわ村。高田町分とはなか橋・しも(現鳴門橋)によって往来し、新庄川に沿って東城とうじよう往来が通る。「作陽誌」によれば、もと散田村と称したが、「散」の字を忌んで「三」と改めたという。正保郷帳に散田村とみえ、田高六四石余・畑高四三石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳にも散田村とあり、村位は中、改出高二八石余・開高三石余。

三田村
さんでんむら

[現在地名]能都町山田やまだ

山田川左岸に位置し、対岸は木住きずみ村。正保郷帳では高一五九石余、田方七町六反余・畑方二町九反余、新田高六六石余。承応三年(一六五四)の村御印の高二二六石余、免四ツ六歩(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高二四〇石、免五ツ、小物成は山役一一一匁・炭竈役二五匁(三箇国高物成帳)。元禄(一六八八―一七〇四)頃にも炭焼が行われた(国産抄)。明治八年(一八七五)当村は木住村など三村と合併して山田村となる。

三田村
みたむら

[現在地名]安曇川田中たなか

馬場ばば村・仁和寺にわじ村の西に位置する。かつて阿弥陀あみだ(太山寺)繁栄の際この付近の通行路を弥陀畷みだなわてと称し、のちに三田の字に改めたという(輿地志略)。中世には田中郷のうち。寛永石高帳に村名がみえ、高四四八石余で膳所藩領。慶安高辻帳では田方四〇〇石余・畑方一八石余・永荒三〇石余。元禄郷帳では同高で膳所藩領。

三田村
みつだむら

[現在地名]岡山市庭瀬にわせ

足守あしもり川の左岸に位置し、北は平野ひらの村。平野村新田分と同じく近世初頭の開発であろう。当初は庭瀬藩戸川氏領であったが、延宝七年(一六七九)旗本撫川戸川氏が本家遺領中から四千石を加増された際、その領分に組込まれたと思われる。元禄郷帳に平野村枝郷と注記して三田村とあり、撫川戸川領。以後幕末まで同領。天保郷帳にも同じく平野村枝郷の注記があり、高一〇五石余。

三田村
さんだむら

[現在地名]魚津市三田

片貝かたかい川扇状地の扇央部にあり、南西は本江ほんごう村。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高八一石・免五ツ、明暦三年(一六五七)の新田高三石、小物成は野役四匁(三箇国高物成帳)

三田村
さんだむら

[現在地名]上越市三田

三田新田の南、戸野目とのめ川沿いに位置。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「三た川」右岸に集落が描かれ、「柿崎分此外九方分三田村 中」とある。本納三五石一斗六升・縄高八九石一斗二升・家七軒・二一人。正保国絵図に村名がみえるが高は不記載。

三田村
みたむら

[現在地名]上中町三田

小原おはら村の北に位置し、東に山を負い西方に鳥羽とば川が流れて平地が開ける。弘治二年(一五五六)六月の明通寺鐘鋳勧進算用状(林屋辰三郎氏蔵)に「弐百八十七文 三田」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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