三箇城跡(読み)さんがじようあと

日本歴史地名大系 「三箇城跡」の解説

三箇城跡
さんがじようあと

[現在地名]大東市三箇六丁目

干拓以前の深野ふこの池北東部の島中にあり、東方に飯盛いいもり野崎のざき両城、西方十七箇所じゆうしちかしよ(榎並)(現城東区)を控える北河内要衝。「経覚私要鈔」文明三年(一四七一)七月二〇日条に「遊佐五郎、河内三个ト云所ニ取陣在之」とある。応仁の乱の最中に、西軍の畠山義就が若江わかえ(現東大阪市)の畠山政長に対抗して北河内を抑えるため、当所に陣地を構築したというもので、これが三箇城の原形となったと考えられる。次いで足利義稙が河内に出陣していた明応二年(一四九三)二月の記録に「河内ハ十七ケ所・三ケ各没落、(斎)藤罷入云々」(「大乗院寺社雑事記」同月一四日条)とあり、高屋たかや(現羽曳野市)本拠をすえる畠山基家の支城となっており、この時、幕府軍に攻撃されて陥落したことがわかる。明応六年一一月、畠山尚順が紀伊から和泉を経て河内国に侵入して諸城を陥れたとき、「三ケニテ尾張殿方ノ遊佐勢多被打之、又和田兄弟打死云々」(「師淳記」同月一三日条)とあり(尾張殿は尚順のこと)、当城が北河内を支える要衝である状況がうかがわれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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