大東市(読み)ダイトウシ

デジタル大辞泉 「大東市」の意味・読み・例文・類語

だいとう‐し【大東市】

大東

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日本歴史地名大系 「大東市」の解説

大東市
だいとうし

面積:一八・四三平方キロ

北河内の南端、大阪市の東に位置し、生駒山地西斜面から河内低地の東部に広がる。山地の一部は金剛生駒国定公園に含まれる。北から東にかけては門真かどま市・寝屋川市・四條畷しじようなわて市、南東の一部は奈良県生駒市、南は東大阪市に接する。最高地点は奈良との府県境に近い独峰の三七九メートル、四條畷市との境には飯盛いいもり城で知られる飯盛山(三一四・三メートル)があり、その南方、標高約二五〇―三〇〇メートルの山頂平坦面に竜間たつまの集落がある。古来の集落は山地西斜面断層崖下の標高五―二〇メートルの扇状地に立地し、これを南北に貫いて標高約一〇メートルの線を東高野街道(国道一七〇号)が通る。それより西は標高一―三メートルの淀川・大和川の氾濫原が広がり、最低は諸福もろふく七丁目の〇・六メートル。当地域では、平安後期頃から自然堤防上に集落を営み、漁獲に依存しながら周辺微高地を開墾し、あるいは遠くから来住して低湿地を干拓するなど、たゆみない耕地造成が進められた。そしてこれらの集落を連ねて北走するのが河内街道、西から東に結んで直交するのが古堤ふるづつみ(「こで」とも読む)街道となったが、なお氾濫原の一部は江戸時代前期末まで深野ふこの池として残った。市名は昭和三一年(一九五六)市制施行にあたり、大阪市の東に位置することにより称したものである。

〔原始〕

縄文時代の遺跡は寺川の堂山下てらがわのどうやました中垣内の鍋田川なかがいとうのなべたがわがあり、ともに格子目の押型文をもつ尖底土器片が出土した。弥生時代になると、前期の中垣内遺跡からは方形竪穴住居跡や溝壁とみられる杭列が発見されたほか、全期にわたる土器や石器、獣骨・貝殻・炭化米などが出土した。中期の遺跡は北条の宮谷ほうじようのみやだに野崎の福蓮寺のざきのふくれんじのほか、標高二メートル前後の新田しんでん・諸福・灰塚はいづかからも、多数の石器類や土器・木器・骨製品が出土している。後期では野崎の標高約八〇メートルの山間地で、人骨を納めた短頸壺形土器が出土した。古墳時代になると、寺川の堂山古墳群がある。

〔古代〕

当市域の東半は讃良さらら郡の南部を占め、西半は茨田まんだ郡の南東の一角になる。讃良郡の条里制は崖下扇状地に施行され、南から中垣内が一条、長濃ながの川を境に二条、廿田にじゆうでん川で三条となり、寺川と野崎がこれにあたり、併せて南条なんじようとよんだ。野崎なか川より北が四条、宮谷川を境に五条となり併せて北条である。六条以北は現四條畷市域に入る。地割は南東を起点とする千鳥形で、施行の東限は東高野街道より山麓に及びほぼ直線状であるが、西限は河内湖(のちの深野池を含む)の汀線が湾曲するため定かでない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大東市」の意味・わかりやすい解説

大東〔市〕
だいとう

大阪府東部,生駒山地西斜面から河内平野に広がる市。 1956年住道町,四条町南郷村が合体して市制。江戸時代中期に深野池 (ふこのいけ) が干拓され,新田化した平野部では米作や集約的な野菜栽培が行なわれる。中心市街地の住道付近は,第2次世界大戦前から紡績業が盛んで,戦後は電気機器や魔法瓶工場などが進出した。山麓には鉄線金網などの中小工場が分布。東高野街道沿いの野崎には「野崎参り」で知られた慈眼寺 (野崎観音) がある。飯盛山など東部の山地一帯は金剛生駒紀泉国定公園に属する。 JR片町線,国道 170号線が通じる。面積 18.27km2。人口 11万9367(2020)。

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