戦国時代の末から江戸時代の初期にキリシタン宗門の洗礼を受けた戦国大名。江戸時代の大名と異なって豪族をも大名と称したから、その数はかなり多いが、キリシタン信仰が豊臣秀吉(とよとみひでよし)や徳川家康によって禁じられると、彼らの大部分は信仰を棄(す)てたり、あるいは少なくとも表向きには異教徒と変わらない態度をとり、その信仰を貫いた者はわずか数名にすぎない。
日本で最初にキリシタンとなった大名は、肥前の大村純忠(すみただ)で1563年(永禄6)に受洗し、ドン・バルトロメオの教名を与えられた。同年の夏から翌年にかけて、五畿内(きない)では高山飛騨守(ひだのかみ)、三ケ(さんが)サンチョ(頼照(よりてる))、池田丹後守教正(たんごのかみのりまさ)らの豪族や城主が改宗した。小西隆佐(りゅうさ)・行長(ゆきなが)父子、高山飛騨守の長男右近(うこん)らが初期の改宗者に属する。大村純忠の兄有馬義貞(よしさだ)は1576年(天正4)に受洗したが、同年の末に早く世を去った。高山右近と並ぶ代表的キリシタン大名、豊後(ぶんご)(大分県)の大友宗麟(そうりん)がフランシスコの教名で受洗したのは1578年のことで、その少し前に宗麟の甥(おい)で女婿の一条兼定(かねさだ)が改宗している。本能寺の変(1582)のあと、秀吉が大坂城を築いたころ、同城を中心に一種の改宗ブームが起こり、蒲生氏郷(がもううじさと)、黒田孝高(よしたか)ら有力者が受洗した。これには高山右近の感化が大いに影響している。細川忠興(ただおき)自身は、右近から感化されながらも受洗しなかったが、忠興の妻たまが受洗してガラシャの名で著名となる。1587年に豊臣秀吉は九州征伐の帰途博多(はかた)においてバテレン追放令(宣教師追放令)を発し、諸侯がキリシタンになることを禁じるが、このときには大友宗麟、大村純忠、京極高吉(きょうごくたかよし)、一条兼定らは死去しており、高山右近は秀吉の意に背いて信仰の堅持を表明したので、明石(あかし)の領地および大名の地位を奪われた。このとき、秀吉の怒りに触れなかった小西隆佐・行長、黒田孝高、安威了佐(あいりょうさ)、有馬晴信、蒲生氏郷、大村喜前(よしあき)、小早川秀包(ひでかね)、伊東祐兵(すけたけ)らは、表向きにせよキリシタン信仰を棄てることを誓ったものと推察される。秀吉の晩年にも改宗者がかなり出たなかには、京極高次(たかつぐ)・高知(たかとも)、寺沢広高(ひろたか)、宗義智(そうよしとし)、織田秀信(おだひでのぶ)(信長の孫)らをあげることができるが、いずれも早く信仰を棄てることを余儀なくされた。小西行長は一時信仰に動揺をきたしたが、1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに敗れ、処刑されるまで信仰をもち続けていたといわれる。高山右近は生涯信仰を堅持し、模範を示しつつ14年マニラに流され、翌年客死した。
[松田毅一]
『松田毅一著『キリシタン大名』(『探訪大航海時代の日本3』所収・1978・小学館)』▽『岡田章雄著『キリシタン大名』(教育社歴史新書)』
キリスト教を信仰した大名。ポルトガル語のセニョール・キリシタンSenhor Christãoがこれに当たる。ザビエルは初め最高支配者としての権力をそなえた国王に謁して布教許可を得ようとしたが挫折し,戦国社会の現実に即して個々に各地の有力大名を庇護者として獲得することを余儀なくされた。彼のあとに来た宣教師も封建領主を現存の最上の布教者と見たて,彼らへの接近を図った。九州の諸大名は金や軍需品などの獲得のためにポルトガル船の寄港を望み,宣教師の領内布教を許した。1563年(永禄6)肥前の大村純忠は改宗して最初のキリシタン大名となり(霊名バルトロメイ),長崎の地をイエズス会に寄進した。豊後の大友宗麟(義鎮)は78年(天正6)に改宗しフランシスコと称したが家運はすでに傾いていた。大友,大村両氏とともに遣欧使節を送った有馬晴信は80年に受洗した(プロタジオ)。畿内では大名の保護を直接得られず民衆への布教から始まったが,1563年松永久秀の家臣結城忠正らがキリスト教糾明を契機にして改宗し,高山友照(ダリオ)・右近(ジュスト)父子も受洗した。畿内の武将は人間を超絶した唯一神の存在を知って転換期の現実生活における不安を克服した。八木城主内藤如安(ジョアン)は失脚後,小西行長(アウグスティノ)の部将となり1614年(慶長19)高山右近とともにマニラに追放された。右近は熱心に信仰を説き,蒲生氏郷(レオン),黒田孝高(よしたか)(シメオン),牧村政治らを改宗させた。しかし豊臣秀吉による右近の改易により教会は有力な庇護者を失った。右近のあと教会の後見人的地位にあった行長も関ヶ原の戦に敗北して斬られ,大村喜前(サンチョ)は日蓮宗に転宗し,有馬晴信も失脚した。キリシタン大名は,その信仰によって家臣・領民の統制を強化することをもくろみ,絶対者としての神(デウス)を守護神として仰いだため領内の神社仏閣をことごとく焼き払ってしまい,かえって公儀や近隣諸大名の反発を買い,禁教令施行の一因となった。
執筆者:五野井 隆史
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戦国期~江戸初期にキリシタンの洗礼をうけた大名。イエズス会はまず領主を信者にしたうえで領民を集団改宗させるという布教方針をとり,領主もポルトガル船がもたらす貿易品の獲得とキリシタンのもとでの統治を志向し,両者の利害の一致から多数出現した。江戸幕府のキリシタン禁教が徹底されると,高山右近など一部を例外として多くが棄教した。
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…竜造寺氏の勢力は衰退し,代わって鍋島氏,松浦氏,大村氏,有馬氏などが戦国大名として肥前国の覇を争うことになった。
[キリシタン大名]
1550年(天文19)6月ポルトガル船が平戸に入港したのを契機として,肥前国各地(主として現在の長崎県下)にヨーロッパ船が入港し,戦国大名との間で貿易を行い,鉄砲をはじめとする新兵器を提供した。またフランシスコ・ザビエルが50年8月平戸に立ち寄りキリスト教を布教したので,松浦,大村,有馬氏領内には多くのキリスト教信者が生まれた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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