三雲村(読み)みくもむら

日本歴史地名大系 「三雲村」の解説

三雲村
みくもむら

[現在地名]甲西町三雲

吉永よしなが村の東にあり、北を野洲やす(横田川)が西流し、南は飯道はんどう山に続く山地。東海道が通じ、主集落はこれに沿って街村をなす。江戸時代は同地を田川たがわ(田河)と称した。当村でそま街道が分岐する。東方、野洲川対岸に位置するいずみ(現水口町)との間には古くから橋や渡しが置かれた(水口町の→横田川渡。なお中世から近世にかけて当地より下流域を甲賀下郡、あるいは下甲賀と称した。三雲の名は奈良時代から知られ、中世は三雲郷として推移、六角氏麾下の国人三雲氏の支配を受けた。天正一一年(一五八三)八月の浅野長吉知行目録(浅野家文書)に三雲村とあり、八五〇石が羽柴秀吉から長吉に宛行われている。また同一九年四月の徳川家康知行目録写(大谷文書)によれば、村内のさと村・田河村合せて六五九石余が家康の在京賄料に充てられた。

三雲村
みくもむら

面積:一九・三三平方キロ

一志郡の東部に位置し、北は雲出くもず川を境として津市と香良洲からす町に接し、東は伊勢湾に面し、南は三渡みわたり川を経て松阪市に、西は嬉野うれしの町に接している。舞出まいで地区の一部を除き、標高五メートル以下の沖積低地で、一部零メートル以下の所もある。西部を国鉄紀勢本線が通り、中央部を国道二三号が縦貫し、三渡川を渡った小津おづで南勢バイパス(新国道二三号)に分岐する。

三雲村
みくもむら

[現在地名]前原市三雲・曾根そね

井田いた村の南に位置し、東端川原かわばる川、西部を瑞梅寺ずいばいじ川が北流する。西に曾根原の台地が広がる。小早川時代の指出前之帳では高祖たかす村の内。慶長七年(一六〇二)検地高一千四二五石余、うち大豆二三七石余(慶長石高帳)。福岡藩領。元禄五年(一六九二)の高一千四七六石余、うち畠二二〇石余、反別一一九町五反余、家数七二・人数四九六、社一(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も一千四七六石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報