日本歴史地名大系 「上下村」の解説 上下村じようげむら 広島県:甲奴郡上下町上下村[現在地名]上下町上下上下川上流域に位置し、北は有福(ありふく)・二森(ふたもり)、南方は深江(ふかえ)・井永(いなが)の各村に接する。集落は村の南の上下川南岸に集まり、その東南に翁(おきな)山がある。文禄三年(一五九四)九月三日付の毛利輝元の林志摩守元善に宛てた知行宛行状(「閥閲録」所収林平八家文書)に「備後国神怒郡上下村四百拾七石弐斗」とあるが、暦応三年(一三四〇)正月に長谷部信吉が上下村の地頭職に任ぜられた(旧版「広島県史」)という伝えもあり、早くから開かれた地と思われる。元和五年(一六一九)の水野氏入封の折の石高は一千一五一石余であったが(備後国知行帳)、漸次増加して明治初年には一千一八六石余とある(旧高旧領取調帳)。 上下村じようげむら 福岡県:嘉穂郡嘉穂町上下村[現在地名]嘉穂町牛隈(うしくま)貞月(さだつき)村の東にあり、東は上山田村(現山田市)。江戸時代は福岡藩領。小早川時代の指出前之帳では上下村の田四五町九反余(分米五五〇石余)・畠九町三反余(分大豆四七石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高一千四一六石余、うち大豆一一六石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高四〇八石余、人数一五〇(田圃志)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by