甲奴郡(読み)こうぬぐん

日本歴史地名大系 「甲奴郡」の解説

甲奴郡
こうぬぐん

面積:二一九・一二平方キロ
総領そうりよう町・甲奴こうぬ町・上下じようげ

県東部、旧備後国のほぼ中央に位置し、南は世羅郡・府中市、東は神石じんせき郡、北は庄原市、西は双三ふたみ郡に囲まれる。郡内の中央やや南寄りに分水嶺があり、北側の水は上下川・田総たぶさ川に集められ、西流する馬洗ばせん川を経てごうの川となり日本海に注ぐ。南側は芦田あしだ川の上流矢多田やただ川に集められ瀬戸内海に流入する。郡内の平地はこれら河川の流域に点在し、平均標高は約四〇〇メートル。四周は北の鷹志風呂たかしぶろ(七〇八メートル)こう(五五六メートル)、南の弘法こうぼう(五八四メートル)だけ(七三九メートル)など四〇〇―七〇〇メートルの山がそびえる。

〔原始・古代〕

旧石器時代の遺物はまだ発見されていない。縄文時代になると、上下町最南端の扇原おうぎはらから前期・中期・後期の土器・石器が、総領町黒目の岩屋堂くろめのいわやどうからは後期・晩期の土器が出土。扇原出土の遺物は芦田川、岩屋堂出土の遺物は帝釈峡たいしやくきよう遺跡群の系統に属する。弥生時代の遺物は中期の土器片が上下町深江ふかえ井永いなが、総領町亀谷かめだに甲奴町梶田かじたからそれぞれ一片ずつ発見された。後期の遺跡は多いが、その代表は上下町の道城どうじよう遺跡で、多数の土器片と住居跡が発見されている。古墳は、上下町小塚おづかに中期以降のものと思われるものがあるが、あとは後期古墳が多い。ほとんどが円墳で、前方後円墳は上下町水永みずなが・小塚、甲奴町大山おおやま池・天神てんじん山に各一個ずつそれらしいものが確認されているにすぎない。

「続日本紀」和銅二年(七〇九)一〇月八日条に「備後国葦田郡甲努村、相去郡家、山谷阻遠、百姓往還、煩費太多、仍割品遅郡三里、隷葦田、建郡於甲努村」とあり、この時葦田あしだ郡に属した甲努村を独立郡としたことが知れる。なお「続日本紀」永正本には「仍割品遅郡三里、隷葦田郡甲努村」とあるが、地理的に品遅ほむち郡は葦田郡を挟んで南にあり、品遅郡三里はこの時甲努郡独立の代りに葦田郡に属させたものと考えられる。郡名を六国史などは「甲努」と記すが、「和名抄」は「甲奴」と記し「加不乃」と訓じ、「延喜式」神名帳も「甲奴カフノ郡」とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報