上山田村(読み)かみやまだむら

日本歴史地名大系 「上山田村」の解説

上山田村
かみやまだむら

[現在地名]西京区嵐山あらしやま朝月あさつき町・内田うちだ町・上海道かみかいどう町・上河原かみかわら町・北松尾山きたまつおやま元録山げんろくざん町・虚空蔵山こくぞうやま町・たに辻子つじこ町・茶尻ちやじり町・中尾下なかおした町・西一川にしいちかわ町・東一川ひがしいちかわ町・東海道ひがしかいどう町・かみ町・風呂ふろはし町・宮町みやまちみやきた町・みやまえ町・もりまえ町・薬師下やくしした町・山田やまだ町・やました町〉

村の北・東は桂川に面し、南は松室まつむろ村、西は丹波国境に接する。村域の大部分は山間部であるが、渡月橋とげつきようより東南の桂川右岸には四条街道が走り、中近世を通じ京郊の要衝の地。

村名は古代の山田郷(和名抄)に由来する。「大日本地名辞書」は当所を櫟原いちはら郷とし、山田郷を上嵯峨かみさが(現右京区)にあてるが、近年の条里復元結果によれば下原田里・大豆田里は現西京区松室付近にあたり、寛平八年(八九六)二月二五日山田郷長解(東文書)と対照して右二里は山田郷内であることが明白なので、山田郷は平安期より桂川南岸(右岸)の当地一帯をさしたと考えられる。

上山田村
かみやまだむら

[現在地名]宇ノ気町上山田

河北潟の北方、もり村の東方約一キロにある丘陵麓の集落がもと村で、森村に隣接する出村を和田わだという(三州地理雑誌)。北東の気屋けや村の北に位置する貝原かいわらも当村の飛地。もとは下山田村とともに山田村と称したという。

中世は北英田きたあがた保の内で、山田氏(広瀬氏)が居住した。「天文日記」天文五年(一五三六)三月二九日条に河北郡の三人の旗本の一人として「山田四郎衛門」がみえる。山田四郎右衛門は小川坊城家知行笠野かさの(現津幡町鳥越・倉見・笠池ヶ原付近)の代官で(同書同年一〇月一日条)、一向一揆統制下の河北郡五番組の旗本とされる。「天文日記」同六年九月一四日条によれば、倉見くらみの番頭らが番田ばんだ山を盗伐したのを注意されたため、番頭らは人数を集めて山主を打擲するという刃傷事件を起こした。これを成敗した鳥越弘願とりごえぐがん寺らが、その旨を山田四郎右衛門に届けたところ、番頭側に参加した莇谷あざみたにの衆が四郎右衛門の親類であったため、四郎右衛門はこの成敗を承諾しなかったとある。

上山田村
かみやまだむら

[現在地名]川辺町上山田

中山田村の南に位置し、万之瀬まのせ川の支流大谷おおたに川の源流域にあたる。牧之田まきのだ本門もとかど有木ありのき君野きみの山下やました中福良なかふくら坂下さかした大丸おおまる久保くぼ小原こばる松園まつぞの田之頭たのかしら小河路こがわじ土喰つちくれ屋敷平やしきひら川原山かわはらやま森山もりやま諸麦もろむぎ庭月野にわつきの打木谷うちきだに田代たしろ桐木平きのきひらの集落がある。中世は山田村に含まれていた。嘉元四年(一三〇六)四月一四日の千竈時家譲状(千竈文書)によると、時家の妻(いやくまの母)に一期分として「かミやまたのその田」などが譲られており、時家の三男熊夜叉丸への譲与分のうち「ひらやまのむら」と「大とまりの津」の間の文字は「かみやまたのむら」と判読される。

上山田村
かみやまだむら

[現在地名]山田市上山田

下山田村の南東に位置し、東は豊前国田川郡木城きしろ村など(現川崎町)、西は益富ますとみ山を境界として中益なかます(現嘉穂町)元禄国絵図には山田川西岸に上山田村、東岸に当村の内としてむかい村・木城村猪鼻いのはな村がみえ、田圃志は枝村として木城・猪鼻をあげる。文明一六年(一四八四)九月吉祥日の射手引神社再興棟札銘(嘉穂郡誌)に「神主大里右京太夫吉文 願主上山田村産徒中」とあり、天正一六年(一五八八)一一月吉日の同社境内香椎宮神体銘(同書)には「中納言隆景」とある。小早川時代の指出前之帳では上山田村の田三六町二反(分米三三二石余)・畠六町五反余(分大豆三二石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高六八四石余、うち大豆六七石余(慶長石高帳)

上山田村
かみやまだむら

[現在地名]邑久町上山田

千町せんちよう平野の東端から南へ是安これやす川に沿って入込んだ谷の奥にある。南は山塊を境に千手せんず村および鹿忍かしの村、東は小津おづ村・奥浦おくうら(以上現牛窓町)。貞治元年(一三六二)三月書写の建久六年(一一九五)八月日付の豊原御庄内邑久郷大山四箇所内仏神領注文(黄薇古簡集)に「山田」がみえ、得貞名・重清名などに四町余があった。文亀二年(一五〇二)一二月一三日の重清三郎右衛門・嫡子二郎三郎連署売券(本蓮寺文書)で、孕月里二五坪にあった山田村重清名内の田一段が、石原佐渡守の加賀女房に売却されている。

上山田村
かみやまだむら

[現在地名]山田町山田・後楽町こうらくちよう

関口せきぐち川の上流域にあって、南東は下山田村。建武元年(一三三四)三月三日の北畠顕家国宣(遠野南部文書)に名がみえる大沢おおさわ牧を狼藉した山田六郎の所領跡地であった関口川上流のせきは、大久保昔書遺翰(大久保文書)によれば、北畠氏の一族といわれる袰綿氏の被官白根氏が預かり次男治郎忠清に譲ったという。関口の集落からさいかみ峠を越えて豊間根とよまね宇名田うなだに至る道は中世の街道で、才の神辺りには関所、あるいは木戸が設けられ、付近を関とよんでいたと思われる。

上山田村
かみやまだむら

[現在地名]羽茂町上山田

羽茂川の支流山田川沿いの沢間を望む洪積台地上にある。集落は東から東組・中組・西組に分れるが、もとはこの沢間に居住していたと思われる。西は村山むらやま村に接し、村境は入会になって明確でない。北は小泊こどまり村、東は大崎おおさき村、南は羽茂本郷はもちほんごう村。元禄七年(一六九四)検地帳(上山田区有)では田二二町九反余・畑二〇町七反余。屋敷地は洪積台地上にあって、立野たての稲場いなば石畑いしはた高野こうや十二じゆうにだいら上野うわの大平おおだいらむかいなどの地名がみられる。

上山田村
かみやまだむら

[現在地名]いわき市山田町やまだまち

さめ川支流の山田川流域にあり、南は下山田村、南西は井上いのうえ村。嘉吉三年(一四四三)四月二六日の岩城清隆去状(上遠野文書)によれば、「菊田荘上山田郷」が竜六郎に去渡されている。菊多きくた郡に属した。慶長八年(一六〇三)の常世之内北野村縄打帳(福島県史)に上山田村とみえるので、この頃は棚倉藩領であろうか。正保郷帳では田方七九二石余・畑方一九九石余で、泉藩領。元禄郷帳では上山田村は高三三二石余、枝郷の下山田村は高五六三石余、同小砂村は高一二〇石余で、いずれも棚倉藩領。天保郷帳に「古者 上山田村・下山田村・小砂村三ケ村」とみえる。旧高旧領取調帳では上山田村は高三八八石余、下山田村は高六五五石余で、いずれも棚倉藩領。

上山田村
かみやまだむら

[現在地名]福山市熊野くまの

中山田なかやまだ村の南に位置する。「備陽六郡志」には渡辺越中守兼が宮信元を討取った賞として毛利元就から山田を与えられ、当地に一乗山いちじようさん城を築いたとある。築城と同じ頃、日親を迎えて一乗山の麓に菩提寺常国じようこく寺を建立したと思われる。常国寺は広昌山定親院常国寺といい、日蓮宗。かつては京都本法ほんぽう寺末。兼は山田の住民を日蓮宗に改宗させ、寺院も改宗させて常国寺の末寺としたようである(備陽六郡志)。この時他所に逃れていった寺に山南さんな(現沼隈郡沼隈町)光林こうりん寺、鞆の明円とものみようえん(もと法泉寺という)などがある。常国寺は「福山志料」には二子院六坊ありとみえ、かなりの大寺であったようだ。

上山田村
かみやまだむら

[現在地名]野田川町字上山田

下山田村南部水戸谷みとだに口から四辻よつつじに至る間の村で、野田川を挟んで石川いしかわ村に相対する。

丹後国田数帳に「山田郷 廿七町卅四歩内」とある山田郷の一地域。中世末の丹後国御檀家帳は、

<資料は省略されています>

と記す。慶長検地郷村帳に高一〇四八・五八石「上山田村」とあり、延宝九年(一六八一)の延高で一千二四九石余となった(天和元年宮津領村高帳)。約一割九分のこの地方の最低率の増加である。宮津藩領。

上山田村
かみやまだむら

[現在地名]西山町上山田

北は灰爪はいづめ村、南は平坦な耕地続きで伊毛いも村、東は別山べつやま村・尾野内おのうち村、西は浜忠はまつだ村。中央を別山川が南流して両側の耕地に灌漑している。元和二年(一六一六)から椎谷藩領。正保国絵図に高一五九石余。

上山田村
かみやまだむら

[現在地名]村上市上山田

門前もんぜん村北方の山間から流れ出て西北に流れ三面みおもて川に注ぐ山田川右岸にある。下流は下山田村、北は山を越えて笹平ささだいら(現岩船郡朝日村)へ至る。永正六年(一五〇九)九月一一日の耕雲寺領納所方田帳(耕雲寺文書)に「入山田村平士五郎 七百地入山田名之内役二百十文 鮎川殿之分」などとみえる。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図に「鮎河分入山田村 下」とみえ、本納二一石一斗三升・縄高五〇石七升一合、家三軒とある。

上山田村
かみやまだむら

[現在地名]湖北町上山田

下山田村の北東に位置。北西に山田山、南方に小谷おだに山がある。山田郷山年貢等覚(東浅井郡志)によれば天正一六年(一五八八)の家数七一、山年貢高は同一八年が三石余で、文禄四年(一五九五)が四石余、天正二〇年の屋敷高は二〇石。

上山田村
かみやまだむら

[現在地名]久山町山田

犬鳴いぬなき山の南西に位置し、北から西は山田村。同村の枝郷(天保郷帳など)。元禄二年(一六八九)山田村から分村して成立したという(続風土記拾遺)。石高書上帳案では上山田村の郡帳高一千一四七石余。天明六年(一七八六)の竈数八二・人数三六六、牛五八・馬一六(「久原触中人数・竈数・牛馬数書上」河辺家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報