日本歴史地名大系 「上古賀村」の解説
上古賀村
かみこがむら
上古賀村
かみこがむら
[現在地名]安曇川町上古賀
安曇川の北に位置し、下古賀村の西に接する。中世は古賀庄のうち。江戸初期より若狭小浜藩領。寛永石高帳では高六二二石余。慶安高辻帳では田方五五八石余・畑方六三石余。宝暦九年(一七五九)の家数一五六。文化四年(一八〇七)の家数一七〇・人数八三九(高島郡誌)。寛政四年(一七九二)あるいは天保九年(一八三八)の幕府巡見使に差出した村明細帳(同書)によれば、家数一七六・人数七七九、馬二・牛六八で、免は七ツ五厘、幕府に対して椿山と松林山の小物成(山年貢)米五石を納める。村高のうち大工高が六五石余あり、この分は助郷などが免除されていた。当村の大工は高島郡の大工組四組のうち霜降組に属した。
上古賀村
かみこがむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

番及知行之」とある。またこの地は少弐満貞の「御不快」により一時不知行化していたようである。小早川時代の指出前之帳の上古賀村の田三三町五反余(分米四二〇石余)・畠一町三反余(分大豆一〇石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高は五一〇石余(慶長石高帳)。