現在は建築のための木工に従事する職人を大工と呼ぶが,そのほかに,荷車等をつくる車大工(くるまだいく),木造船をつくる船大工,家具をつくる家具大工なども存在した。建築に従事する大工を特に家大工(やだいく)と呼んだこともある。またそのなかでも神社・寺院の建築に従事するものは宮大工(みやだいく),堂宮大工(どうみやだいく)と呼ばれている。
大工の意味には時代により変遷がある。まず,奈良時代以前は一種の官名で,〈大匠〉とも書かれ,〈おおきたくみ〉と読んだ。639年(舒明11)に百済川畔に大宮,百済大寺を造った際,書直県(ふみのあたいあがた)が大匠に任命され,699年(文武3)には〈大工二人於山科山陵,並分功修造焉〉と《続日本紀》に書かれているのがその例である。大匠の語源は,中国の建設担当役所の長官である〈将作大匠〉を略したものと思われ,《日本書紀》孝徳天皇の白雉元年(650)10月条に〈将作大匠荒田井直比羅夫を遣して宮の堺標を立つ〉とあるのは,略さずに官名を使ったのであろう。
次に,律令期においては,国家の建設事業担当役所である木工寮(もくりよう)の技術系の長官が大工であり,その下に少工(すないたくみ)/(しようく),長上(ちようじよう)工,番上(ばんじよう)工があった。行政事務官の職制は頭(かみ),助(すけ),允(じよう),属(さかん)の4等官に分かれていたが,大工と少工は各1人で,このうちの頭と助の関係に似た存在であり,いわば技術系の長官と次官である。長上工は木工,土工,瓦工,轆轤(ろくろ)工,檜皮(ひわだ)工,石灰工,鍛冶工たちで,大工および少工はその統率者として設計などに従事し,重要な工事では現場に出て指導もした。長上工の中心は木工で,大工,少工はこの木工から昇進したようである。木工は人数も多く,そこからの昇進は当然であるが,また日本の建物は木造であるため,木工が重要な役目を果たすのは必然であり,後世,大工が木工と同じ意味に転化するきざしがすでにみえるのである。律令政府の建設担当技術者の最高官位にあった大工は,造宮大工すなわち平安京建設役所の長官を勤めた物部多芸連建麻呂が外従五位上,東大寺を建てた造東大寺司の大工猪名部百世が従五位下であったように,従五位下程度の位階を得ている。中央では少納言,地方では上国の国司に相当し,収入も多く,社会的にも高い名誉ある地位であった。
平安時代から中世にかけて〈大工〉の意味はしだいに変化する。たとえば1208年(承元2)の興福寺北円堂造営では,番匠(ばんじよう)大工2人・引頭(いんどう)8人・長(おさ)20人・連(むらじ)11人,瓦葺き大工2人・引頭2人,瓦造大工1人,鍛冶長2人,鋳物師大工1人が参加しており,大工は番匠,瓦葺き,瓦造,鋳物師の統率者としての役名あるいは肩書となっている。構成は律令期の大工,少工,長上工,番上工とちがって大工,引頭,長,連となっており,大工はそれぞれの職種ごとにその長を示している。中世に座が結成されるようになると,建築関係の職人も座を結成したが,その統率者は,造営において最高責任者となる者が勤めることになる。すなわち大工,引頭,長,連という造営時の階級のうちの大工が,座の統率者になる。その結果,大工という語は,座の統率者という意味も持った。したがって工事規模が小さくても,また座の規模が小さくても,統率者は大工である。大工の人数は増加し,かつての従五位下の位階を持つような,そして工事全体を統轄するような役目の者を大工と呼ぶことができなくなり,全体を統轄するものを惣大工,御大工,棟梁などと呼ぶようになった。
また,中世には木工の長を示す語として〈番匠〉の語が使われている。木工の長であるから木工大工と呼ぶべきだが,律令時代以来の木工寮の大工である木工大工とまぎらわしいため,避けたのであろう。番匠が木工の長の意味で使われた理由は,長上工の下にいた番上工の半数以上が木工であったため,番上が木工の代名詞的に使われるようになり,それが番匠に変化したものであった。各職ごとの長であり座の統率者でもある大工は,建物が木造であり木工が中心であるために圧倒的に番匠が多く,いつしか大工といえば木工そのものを示すようになり,番匠という語もしだいに使われなくなっていった。
江戸時代における幕府の建設工事は,作事方を中心とする役所が担当した。作事奉行の下に位する大工頭が工事全体を統轄し(被官,勘定役,定普請同心,諸棟梁などを支配し,工事の検査,出費のチェックなどを行う),その下の大棟梁が設計面の管理や諸職人の手配などを受けもった。幕府の大工頭は江戸前期には鈴木,木原,中井(中井正清),片山の4家,大棟梁には甲良(こうら)(甲良宗広),平内(へいのうち)(平内政信),鶴,辻内の4家があり,いずれも家職として代々世襲された。
江戸時代の大工は,住んでいる地域の大工組(大工仲間ともいう)に所属し,大工組の規約に従って営業していた。規約は大工組によってさまざまだが,幕府や藩の命に応じて労働を提供すること,他人の仕事場に勝手に出入りしないこと,大工組構成員から徴収する経費を滞納しないこと,親方の指示をよく守ること,けんかや口論をしないこと,などを決めている。規約に違反すると営業停止などの制裁も加えている。大工組によっては正規の構成員であることを証明する札を発行し,これを印札,竈(かまど)印札,竈札などと呼んでいる。そして札の枚数すなわち構成員の人数をやたらに増やさぬようにして営業権を守り,欠員は子や弟子から選ぶ。実子がない場合に養子をとることが多いのは,欠員補充を円滑に行うための知恵でもあった。大工組内部の相談は,太子講の席で行うことが多い。大工の祖とされて信仰された聖徳太子の画像を掛け,毎月一定日に集まり,相談をし,また懇親を深めた(太子信仰)。
明治時代に入り,各地の大工組はしだいに崩壊した。旧来の藩などにもとづく組織がそのままでは存続できず,また仕事の内容も新しい建築法の登場とともに変化したためだが,大工たちは大工組合を組織するなど新時代への対応に努力している。
→木工具
執筆者:西 和夫
木材の豊富な地域,豊富であった時代には,木造建築が多く建てられた。近代においても,スカンジナビア諸国,東欧諸国,ロシア,アメリカ,カナダなどは基本的に木造建築の国である。木材が乏しく,日乾煉瓦や焼成煉瓦や石で建てなければならない地域でも,屋根や二階床組みには木材の梁を用いたため,大工と大工技術はほとんどすべての文明圏に存在したということができる。
一般に大工carpenterは建物の構造部分を担当し,丸太や角材を積んだ壁,骨組構造の支柱や外壁,間仕切壁,屋根の小屋組みなどをつくるので,大工仕事を荒木工事rough carpentry(軸組工事)ともいう。これに対し,より精密で見栄えのよさを必要とする木工事は指物(さしもの)工事joinery(造作工事)と呼び,指物師joinerは壁板,壁パネル,床,天井,扉,窓,階段,家具,備品を担当した。このように日本の大工,建具職,指物師とは仕事の分担がかなり異なっている。大工道具は鋸(のこぎり),手斧(ちような),金槌,木槌,錐(きり),鑿(のみ),鉋(かんな)などで,それぞれに多数の変種があることは東西共通しているが,鋸と鉋を押して使う点が,引いて使う日本と異なる。継手(つぎて)と仕口(しぐち)は,江戸時代の日本の大工工事ほど精妙ではないが,これは主として堅木を使用するためで,その点を考慮すればほぼ同様の継手,仕口を発展させているといえる。
古代ギリシア・ローマの大工工事は残存していないが,遺跡や資料から多大の木工事が行われていたことがわかり,木骨煉瓦造の建築がかなり建てられ,大材を用いて大径間(最大30m前後)のトラスや木造アーチもつくられたと推定される。劇場,競技場,闘技場などの観覧席も,はじめは木造でしだいに石造に建て替えられていったことがわかる。一般建築も含め,二階梁は太い角材を密に並べることが特色で,きわめて頑丈であった。中世の西欧,特に北フランス,イギリス,ドイツなど比較的木材が豊富であった地域では,ハーフティンバーと呼ばれる真壁(しんかべ)造の木造建築が発展したが,これらは枘(ほぞ)差し・込栓(こみせん)打ちの骨組みの隙間を細木を編んだ下地や煉瓦で埋めて漆喰(しつくい)仕上げし,骨組みを内外にあらわにしたもので,上階を下階より張り出したり数階建ての高さに建てられるほど強固なもので,古代とは異なった面で高度に発達した大工技術を示している。これらに対し,アルプス地方やスカンジナビア,東欧およびロシアでは,丸太や角材を水平に積み上げて壁をつくる,いわゆる丸太小屋式の木造建築がつくられたが,骨組構造に厚板の壁をはめ込んだノルウェーのステーブ式教会stave churchのような大工工事もあった。
ルネサンス以降になると,古代以来の建築用材および燃料としての消費と大規模な艦隊建造のために木材が急速に欠乏し,合理的な木材の使用,すなわち比較的細い木材を組み合わせて必要な強度を得る大工技術がくふうされた。しかし木材の不足は著しく,かつ都市の稠密(ちゆうみつ)化も進んだので,防火対策上,大都市の木造建築は急速に煉瓦造建築に移行し,大工仕事は床組みと小屋組みに限られるようになっていった。さらに19世紀に入ると,鉄骨の小屋組みや鉄骨と煉瓦を用いた耐火床の発明により,木造建築が主流の国を除き,大工工事は大幅に衰退した。ただし,スカンジナビア,東欧,ロシア,アメリカ,カナダでは,大都市以外の住宅は第2次大戦終了まで70%以上が木造であり,大工の仕事はまだ失われるどころではなかった。しかしその一方,19世紀のアメリカでは,中西部開拓のためいわゆるツーバイフォー(2インチ×4インチの断面)の規格木材を釘打ち接合で組み立てる工法が発明され,これは大量の住宅需要と熟練した大工の不足に対応するものではあったが,伝統的な大工技術を決定的に衰退させたといえよう。
第2次大戦以後,鉄筋コンクリート造の急速な普及により,大工工事はほとんど小規模な住宅に限られるようになった。しかし,コンクリートの型枠には木材と大工仕事が必要であり,大工の栄光の時代は過ぎ去ったとはいえ,やはり大工職は建築工事に欠くことはできず,他方,古建築の維持保存にも熟練した大工が必要であり,今後もその役割がまったく失われることはないであろう。
→木造建築
執筆者:桐敷 真次郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
木造建築の職人。5世紀には木工(こだくみ)とよばれた。8世紀ごろ、大工(だいこう)とは技術官人の最高者の職名であり、木工・鍛冶(かじ)や壁塗(左官)職のそれぞれに大工(だいこう)が存在した。11世紀になって木工は独立した職人となって、年間のうち一定期間を上番して労務にあたるところから番匠(ばんじょう)ともよばれた。そして、16世紀に入ってから、一般に木工・番匠を大工と呼び習わすようになった。このころより建築技術は長足の進歩を遂げ、まず木割(きわり)術(建築各部材の大きさの割合を決める工法。つまり柱の径、柱間などを基準にして部材の大きさを決定する)が確立された。さらに、18世紀には、立体幾何の図式解法である規矩(きく)術が体系づけられ、それに伴い工作法も一段と高度化し、必然的に専門の家大工、宮大工、船大工、車大工、水車大工、機大工などに分化していった。
家大工は数も多く、大工といえば家大工が代表格であったが、19世紀になると有力な大工の親方や棟梁(とうりょう)が請負師の職も兼ねるようになったため、一般の大工の仕事は賃仕事でしかなくなった。さらに、近代に至って請負師を源流とする建設業者により、大工をはじめとする建設職人は下職または下請けといった立場に置かれた。これにより住宅の注文建築は激減し、さらに第二次世界大戦後に至り、新しい建築工法、新建材の誕生、電動工具の開発などによって、木割・規矩術を生かした伝統的建築はほとんどみることができなくなってきている。
宮大工は、17世紀以前、社寺の建築・改築を主なる業として、このほかに一般の住宅建築も行っていた。それが近世以後は住宅専門の家大工と分離し、社寺専門となった。社寺の建築においては、伝統を守らなければならず、やたらに新しい工法を取り入れることは許されない。今日、彼らは、文化財である社寺の修理・改築等を受け持つが、工具は伝統の槍鉋(やりがんな)、両刃(銀杏(いちょう)刃)、鑿(のみ)、手斧(ちょうな)などを使い、用材もヒノキを主とし、ケヤキ、クスノキ、スギ、マツなどに限定されている。このように宮大工に関しては、伝統技術は現在も後の世代に受け継がれており、その存在は貴重といえよう。
船大工は、古代・中世における造船技術の停滞を打ち破って、近世に大和(やまと)型とよぶ準構造船をつくった。大和型とは、肋(ろく)材は未熟・幼稚な代物であったものの、横木(ぬき)が船体補強の役割を果たす、当時としては注目に値する造船技術の粋といえた。大型荷船としては千石船があり、このほかに川船、関船(せきぶね)(軍船)、荷船など中小型船もつくった。用材は海船と川船では違い、前者の場合はクスノキ・ケヤキを、後者ではマキを中心に使用し、ヒノキ・スギは両方に使ったとする。技術面では、当然、木割・規矩術に頼ったが、宮大工のように厳しい制約はなく、外来のコンパスも大いに利用した。
19世紀後半以後、大型船は木造鉄船を経て鉄鋼船となったため、船大工は木造の中小荷船、漁船、川船などをつくるのみとなった。さらに現代に至ると、中小型船も原動機付きとなり、船大工に対する新規注文はばったりとだえた。しかも、彼らには宮大工のように文化財補修というような仕事もないため、伝統的技術は衰退の一途をたどっている。
[遠藤元男]
『西和夫著『江戸時代の大工』(1980・学芸出版社)』▽『西岡常一・青山茂著『斑鳩の匠・宮大工三代』(1977・徳間書店)』▽『須藤利一編「船」(『ものと人間の文化史 1』1968・法政大学出版局)』
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…建築の分野に限定しても住宅産業の市場規模は14兆円(1982年度)に達しており,関連分野を含めればその規模はさらに大きくなる。日本においては,住宅の生産と販売は,従来大工の棟梁,あるいは比較的零細な工務店が鳶職,屋根職,建具工,ガラス工その他の専門的技能者を下職(したしよく)として配下に組織するという生業的な形で行われていた。1960年代以降は,大手企業による建売住宅やマンションの供給が住宅建設において重要な役割を果たすようになっており,業界構造が変化してきている。…
…門記集(門),社記集(鳥居,神社本殿,玉垣,拝殿等),塔記集(塔と九輪),堂記集(寺院の本堂,鐘楼,方丈等),殿屋集(主殿,塀重門,能舞台等)の5巻から成り,それぞれの木割と,和歌山天満宮,出雲大社などの見聞録とを記す。吉政の奥書には,大工は五意(式尺の墨(すみかね),算合,手仕事,絵用,彫物)に達者でなければならぬと書かれ,木割をよく知り,積算,手仕事ができ,絵心があって彫刻も上手だというのが,大工の理想像であったことが知られる。【西 和夫】。…
…この弘法大師がまた聖徳太子と混同して語り伝えられ炭焼きも太子様を信仰した。 関西以西では木樵,木挽,炭焼きのほかに大工,左官,石屋,桶屋などの職人ももっぱら太子様を信仰し,太子講を組んでまつりをした。これは農村の大師講すなわちダイシコウと区別してタイシコウと呼ばれ,祭日も大師講とちがっているのが普通である。…
…近世の都市において手工業技術者である職人の集住する町。近世初頭の城下町建設期に,領主は築城などの土木建築工事や武器武具類の製作修理など,主として軍事上の必要から大工,左官,鍛冶屋をはじめとする手工業者を城下に集住させる必要があった。そのため,御用手工業者の棟梁には領内における営業権など種々の特権を与え,1町ないし数町の土地を拝領させ,国役(くにやく)または公役としてそれぞれに仕事を請け負わせた。…
…石川県白山山麓の山村では,嫁入前の娘たちが京都や大阪へ女中奉公や子守りとして数年間出稼ぎし,ここで結婚のための仕度金をつくり,行儀を見習う習慣があり,これをしないと一人前の娘とみなされなかった。 出稼ぎ職人として有名なのは,会津,筑波,信州などの屋根葺き職人や杜氏,鍛冶屋,石屋,大工などである。杜氏は酒の醸造にたずさわる職人で,雪国や山国の冬期間の出稼ぎ者が多かった。…
…中世では武家の一門など血縁集団や,一国・一郡といった地域集団,また寺社の衆徒などを統率する人物をいった。中世末から近世にかけ大工・左官をはじめとする職能集団の指導的人物を指すようになる。
[武家の棟梁]
棟梁の中で歴史学上もっとも重要なのは,武家の棟梁で,源義家が〈武士の長者〉(《中右記》)と呼ばれたのは同じ意味である。…
※「大工」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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