日本歴史地名大系 「上波田村」の解説 上波田村かみはだむら 島根県:益田市上波田村[現在地名]益田市波田町益田川支流の波田川流域に位置し、日晩(ひぐらし)山(七四三・五メートル)の西麓にあたり、険しい山脈が北と南に並列する。東は朝倉(あさくら)村(現美都町)、南は澄川(すみかわ)村(現匹見町)、西は馬谷(うまだに)村・東長沢(ひがしながさわ)村、北は下波田村。地名は岩倉(いわくら)山に降臨した羽田津見命に由来するという(石見風土記)。村の中央集落から原(はら)村を通り都茂(つも)村(現美都町)に向かう村道があり、往時は津和野藩の奥筋の要路であった。江戸時代の支配の変遷は益田村と同じ。元和五年(一六一九)の古田領郷帳に村名がみえ、高四一九石余、年貢は田方一五三石余・畑方二七石余。正保四年(一六四七)の古田領郷帳では高四一九石余、免五ツ五朱。 上波田村かみはたむら 長野県:東筑摩郡波田町上波田村[現在地名]波田町上波田江戸時代の松本藩領島立(しまだち)組の一村で、西部山麓地帯から東方平地に展開する村で、東は下波田村に接する。天正検地の際は下波多村を含む波多(はた)郷として一千三八石四斗二升六合と高付けされている。寛永六年(一六二九)には上波多村・下波多村に分離し、上波多村六七八石五升四合の村高となる。「信府統記」によると「御朱印高四百八十二石八斗八升七合」で、享保九年(一七二四)当時の石高七八七石八升七合、寛文年間(一六六一―七三)の田一六町六段二畝二〇歩、畑五五町三段三畝一六歩とある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by