石見(いわみ)国鹿足(かのあし)郡津和野(島根県津和野町)に置かれた外様(とざま)藩。この地域は戦国大名毛利(もうり)氏の支配に属していたが、1600年(慶長5)関ヶ原の戦い後、毛利氏が防長2か国に減封されるに伴い、同年10月坂崎直盛(なおもり)が津和野3万石に封ぜられた。直盛は1615年(元和1)大坂の陣の功により1万石加増されたが、翌年いわゆる「千姫(せんひめ)事件」で家臣に殺され(自殺ともいわれる)、坂崎家は断絶、廃藩となった。17年因幡鹿野(いなばしかの)藩4万3000石の藩主亀井政矩(まさのり)が津和野へ転封され、以後亀井氏がこの地を支配し、茲政(これまさ)、茲親(これちか)、茲満(これみつ)、茲延(これのぶ)、茲胤(これつぐ)、矩貞(のりさだ)、矩賢(のりかた)、茲尚(これなお)、茲方(これかた)、茲監(これみ)と続き明治維新に至る。所領は鹿足郡の大部分と美濃(みの)郡の約半分、那賀(なか)郡・邑智(おおち)郡の一部で合計135か村。藩政初期には藩内主導権をめぐる内紛「塩冶(えんや)騒動」が起こったが、それに勝利した多胡真清(たこさねきよ)およびその子の3兄弟らが、新田開発、コウゾ(楮)・ハゼ(櫨)・ウルシ(漆)の栽培奨励、石見半紙の開発・専売などにより藩財政を大いに豊かにした。幕末の長州征伐には中立的立場をとり、明治新政府にも藩主茲監、藩士福羽美静(ふくばびせい)・大国隆正(おおくにたかまさ)ら人材を送り込んでいる。1871年(明治4)廃藩、藩領は浜田県に合併され、76年島根県となった。
[松尾 寿]
『沖本常吉著『津和野藩』(1968・津和野歴史シリーズ刊行会)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…これによって毛利の配下にあった吉見・益田など石見の豪族の多くは毛利を頼って長門国へ移った。翌01年家康は吉見の故地津和野に坂崎直盛を封じ津和野藩が成立したが16年(元和2)除封,17年亀井政矩を因幡国鹿野から津和野へ移した。19年古田重治が伊勢国松坂から中部の浜田に新封され浜田藩が成立し,石見銀山を中心とした東部4万5000石余が幕府の直轄領となった。…
…13世紀末に吉見頼行が津和野に入り三本松城を築き,14代300余年石見西部を支配したが,関ヶ原の戦後長州に移った。1601年(慶長6)坂崎直盛(出羽守)が津和野に封じられ津和野藩が成立した。坂崎は三本松城に大改修を加え,防塁的山城とし,また城下町の経営にもあたった。…
※「津和野藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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