日本歴史地名大系 「上津見保」の解説 上津見保うわつみほ 富山県:東礪波郡城端町上津見保城端町上見(うわみ)に比定される。山田(やまだ)川の支流二ッ屋(ふたつや)川が平地にでた所に位置した。南北朝争乱期には国衙領としての由緒により、大覚寺統・南朝方の支配を受ける状況にあったようである。興国二年(一三四一)六月一四日、後村上天皇は勲功の賞として嵯峨源氏渡辺党の滝口蔵人(照)に上津見保を宛行っている(「後村上天皇綸旨」遺編類纂所収渡辺文書)。同様に射水(いみず)郡東条(とうじよう)庄地頭職も宛行っている(同年正月三〇日「後村上天皇綸旨」同文書)。なお渡辺党は鎌倉時代以来、大覚寺統との関わりが深かったが、ことに承久の乱後関東に祗候して以来御家人として、越後赤田(あかだ)保(現新潟県刈羽村)地頭職を重要な拠点としていたから、同じ名越氏の守護支配下である越中においても所領を得ていたとみられる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by