日本歴史地名大系 「上神殿村」の解説
上神殿村
かみこうどのむら
〔中世〕
薩摩国建久図田帳に伊集院のうちとして「上神殿十八町 万得」とみえ、大隅正八幡宮(現鹿児島神宮)の万得領であった。鎌倉時代後期と推定される薩摩伊集院分造宇佐宮用途支配注文(島津家文書)によれば、上神殿は豊前宇佐宮造営用途五〇疋・人夫食料米一石一升三合五勺を賦課されていた。文永八年(一二七一)一二月一六日、尼成阿は伊集院下司持時(迎慶)が訴えている上神殿村内の田地は本主である紀姓伊集院清忠の認状によって成阿が多年知行しており、なにごとかあれば本主に訴訟すべきなのに、末葉に訴えるのは濫訴であると主張している(「比丘尼成阿請文」島津他家文書)。成阿は紀姓伊集院氏の清忠(古城主来由記「纂修伊集院系譜」東京大学史料編纂所蔵に伊集院郡司とみえる)流から出て紀姓伊集院一流の慶西(時村)に嫁したと思われる。持時は清忠・慶西とは別流の紀姓伊集院氏であろう。
上神殿祐継が上神殿内の田地について訴訟を起こしたのに対し、永仁六年(一二九八)八月一〇日、僧俊助は質券買得地は同年六月より沙汰に及ばなくなったと答えている(「僧俊助請文」島津家文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報