上萩原村(読み)かみはぎわらむら

日本歴史地名大系 「上萩原村」の解説

上萩原村
かみはぎわらむら

[現在地名]塩山市上萩原

中萩原村の東にあり、おも川上流左岸沿いの東西に長い村。対岸上小田原かみおだわら・下小田原の両村。大菩薩だいぼさつ峠の西麓にあたり、東の大菩薩嶺(二〇五六・九メートル)から南へ高山が連なって北西下りの村落。村名は「かみはぎはら」ともよばれる。天正一〇年(一五八二)一一月三日の徳川家印判状写(「古文書雑集」若尾資料)に「甲州上萩原之郷」とみえ、同所二五貫文の地と夫丸三人被官等が本給として加藤五郎作に安堵され、棟別諸役免除は軍役衆と同前とされた。

慶長古高帳に村名がみえ、高二八九石余、幕府領。ほかに裂石さけいし(現雲峰寺)領二石余と岩間いわま大明神(現神部神社)領一石余がある。寛永一〇年(一六三三)徳美藩領となって以後の支配は福生里ふくうり村と同じ。正徳三年(一七一三)検地により高七七二石余、反別は田二町六反余・畑一〇五町二反余(うち屋敷一〇町一反余)になる(「検地帳」県立図書館蔵)。宝永三年(一七〇六)の宗門改手形(沢田博家文書)によると人数九七二(男五五四・女四一八)、延享三年(一七四六)の家数三一四(本百姓二九二・水呑一〇・寺院一一・神主一)・人数一千一七六(「村明細帳」古屋信義家文書)、文化(一八〇四―一八)初年の家数二九三・人数一千一七、馬六六(甲斐国志)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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