上衣川村(読み)かみころもがわむら

日本歴史地名大系 「上衣川村」の解説

上衣川村
かみころもがわむら

[現在地名]衣川村上衣川

現衣川村の東部地域を除く大部分を占め、村は北又きたまた(北股・北俣)と南又(南股・南俣)に分れる(安永風土記)北股きたまた(衣川)が北部を、南股川が南部を流れて村の東端で合流、下衣川村を経て北上川に注ぐ。村域のほとんどが山地台地。字名が多く、「管轄地誌」は北股川流域の増沢ますざわ石生いしゆう古戸ふるど、南股川流域の石神いしかみ鷹巣たかのすなど計七三を記す。平安時代後期から末期にかけて安倍氏・藤原氏の膝下の領地であり、中尊寺・毛越もうつう寺に近いため、それらにかかわる旧跡が多い。当地には中尊寺領もあり、同寺領への公事課役をめぐる同寺と葛西氏の争いを裁許した正応元年(一二八八)七月九日の関東下知状(中尊寺文書)に北股村、永和二年(一三七六)二月二五日の行栄譲状(同文書)南俣みなみまたがみえる。なお康永三年(一三四四)六月五日の平忠泰打渡状(同文書)に「伊沢郡(中略)北股村」とあり、後述の胆沢郡式内社いわ神社の存在と合せて考えると、当地は古代から胆沢郡に含まれていたとみられる。

近世初期には下衣川村と合せて一村をなしていたと思われるが、分村の時期は不明。正保郷帳に村名がみえ、田方七六貫二二六文・畑方二三貫七二四文、ほかに新田高一九貫二一七文。「安永風土記」では田一三〇貫八五九文・畑四一貫七六六文(うち茶畑二二九文)、うち蔵入五九貫九五四文・給所一一一貫六七一文・百姓知行一貫文。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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