衣川村(読み)きぬがわむら

日本歴史地名大系 「衣川村」の解説

衣川村
きぬがわむら

[現在地名]大津市衣川一―三丁目・本堅田ほんかたた五丁目

下仰木しもおうぎ村の東、雄琴おごと村の北、琵琶湖岸に立地し、北東は本堅田村。西近江路(北国海道)が通り、衣川宿が置かれた。「輿地志略」によればもとは二町ほど西にあったが、駅馬の便が悪いとして移転したという。中世衣川郷などとみえ、また絹河などと記される(太平記・本福寺跡書)。北部を流れる天神てんじん川はもと衣川とよばれていたが、天文六年(一五三七)佐々木高頼が当地に天神社を勧請したので改めたという。中世以来、堅田のうちとして位置づけられることが多く、慶長七年(一六〇二)の本堅田村検地帳(本堅田共有文書)では本堅田・今堅田・衣川の三地域にわたっている。寛永石高帳に村名がみえ、高六二二石余で幕府領と考えられる。慶安高辻帳では田四〇二石余・畑八五石余・永荒一三四石余。元禄一一年(一六九八)より堅田藩領で、元禄郷帳では高五四一石余。


衣川村
ころもがわむら

面積:一六四・五〇平方キロ

胆沢郡の南端に位置し、西と北は胆沢町、北から東にかけては前沢まえさわ町、南は西磐井にしいわい郡平泉町・一関市。村の西境にはこび(六八三・六メートル)高檜能たかひのう(九二七・一メートル)すずヶ森(七五二・七メートル)がそびえ、東部に向かうにつれ高度を下げ、東端は北上川と衣川の合流地点近くに至る。北の胆沢町・前沢町との境界は胆沢扇状地の南端で丘陵が起伏し、そこを衣川が南東流し、村の南部を北東流してきた南股みなみまた川を合せて北上川に注ぐ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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