安倍貞任(読み)アベノサダトウ

デジタル大辞泉 「安倍貞任」の意味・読み・例文・類語

あべ‐の‐さだとう〔‐さだたふ〕【安倍貞任】

[1019~1062]平安中期陸奥むつの豪族。頼時の子。厨川次郎くりやがわじろうともいう。前九年の役源頼義義家父子と戦い、敗死。

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精選版 日本国語大辞典 「安倍貞任」の意味・読み・例文・類語

あべ‐の‐さだとう【安倍貞任】

  1. 平安後期の武将。陸奥厨川(くりやがわ)に住み、厨川二郎と称する。父頼時とともに朝廷にそむき、源頼義、義家の追討を受け、厨川柵(き)で敗死。歌舞伎奥州安達原」などの題材となる。寛仁三~康平五年(一〇一九‐六二

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改訂新版 世界大百科事典 「安倍貞任」の意味・わかりやすい解説

安倍貞任 (あべのさだとう)
生没年:1029?-62(長元2?-康平5)

平安時代の陸奥国の豪族。安倍頼時の嫡子。通称厨川二郎。1056年(天喜4)結婚を拒否されたことを恨んで,陸奥権守藤原説貞(ときさだ)の子光貞・元貞を襲撃し,前九年の役を起こし,陸奥守源頼義らと戦うに至った。57年に父頼時が戦死してからは,安倍一族の総帥となり,同年冬には黄海(きのみ)(岩手県一関市の旧藤沢町)において頼義軍を破った。しかし62年に出羽国の清原氏が頼義軍に加わってからは,小松柵・衣川(ころもがわ)柵・鳥海柵敗戦がつづき,同年9月17日,本拠の厨川柵(岩手県盛岡市)において敗死した。源義家が〈衣のたてはほころびにけり〉とうたいかけ,貞任が〈年をへし糸のみだれのくるしさに〉とこたえたという故事は,衣川柵脱出のときのことという。享年は44歳ともいう。
執筆者:

貞任・宗任兄弟は,逆賊として追討されるが,10余年にわたって頼義軍を悩ましたその武勇は,人々に強い印象をあたえ,しだいにこれを巨人視する風潮が生じた。前九年の役のてんまつを記した《陸奥話記》には,貞任は身のたけ6尺余,腰の周り7尺4寸という色白の巨漢であったとあるが,巨人貞任のイメージは時代が下るとともにますます誇張され,たとえば《義経記》では,〈これら兄弟,たけの高さ唐人にも越えたり。貞任が丈は9尺5寸,宗任が丈は8尺5寸,何れも8尺に劣るはなし〉と,貞任をはじめとする安倍一族の人々をすべてずぬけた大男として描き出している。貞任は厨川で死ぬが,宗任は泥中に身を隠して逃れ,のち降人として義家に仕えることになる。《古今著聞集》によると,あるとき義家は宗任を供につれて狩に出,1匹の狐を射た。わざとねらいを外して射たが,その弓勢に驚いて狐は気絶する。宗任が地面に刺さった矢を抜きとって差し出すと,義家はむぞうさに背を向けて箙(えびら)にこれを差させた。郎等たちは,宗任の害心を懸念したが,義家の度量に心服した宗任は,命じられるままに箙に矢を納めたという。のち宗任は大宰府に流され,この地に永住松浦(まつら)党の祖になったと伝えられる。
安倍宗任
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「安倍貞任」の意味・わかりやすい解説

安倍貞任
あべのさだとう

[生]寛仁3(1019)
[没]康平5(1062).9.17. 陸奥,厨川
平安時代中期の武将。頼時の子。通称厨川二郎。永承6 (1051) 年,父とともに朝廷に反抗,陸奥守藤原登任の軍を破り,次いで着任した源頼義に帰順したが,天喜4 (56) 年,貞任が権守の子弟を夜襲したという嫌疑をかけられたことから頼義と安倍一族の戦いが再開された (→前九年の役 ) 。安倍氏は集団的な同族支配を行い,奥6郡では頼時の諸子が分割支配し,貞任は岩手郡厨川柵 (くりやがわのき) に拠った。天喜5 (57) 年,父頼時は戦死したが,貞任のもとに固く結束した安倍一族は,河崎柵に頼義の軍勢を破った。その後数年間,衣川以南の内郡にも勢力を張ったが,康平5 (62) 年,頼義が出羽俘囚 (ふしゅう) の長清原光頼,武則兄弟との同盟に成功するや,貞任はこの連合軍に衣川,鳥海両柵を奪われ,ついに本拠厨川柵に敗死,その首は京都西獄門にさらされた。容貌魁偉,身長6尺 (180cm) 余,腰囲7尺4寸 (222cm) と伝えられる。衣川の戦いで,源義家が「衣のたてはほころびにけり」と歌いかけたとき,貞任が即座に「年をへし糸のみだれのくるしさに」と答えたので,義家は感心して矢をはずして引揚げた,という説話は有名。

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百科事典マイペディア 「安倍貞任」の意味・わかりやすい解説

安倍貞任【あべのさだとう】

平安後期の陸奥(むつ)の豪族。頼時の嫡子(ちゃくし)。厨川(くりやがわ)二郎と称。父とともに陸奥で反乱。1056年朝廷は源頼義に討伐を命じたが,翌年貞任は頼義軍を破った。しかし1062年出羽(でわ)の清原武則(たけのり)の助けを得た頼義軍に厨川(岩手県盛岡市)で討たれた。→前九年・後三年の役
→関連項目秋田氏阿倍氏安倍宗任安東氏厨川柵

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「安倍貞任」の意味・わかりやすい解説

安倍貞任
あべのさだとう
(1029?―1062)

平安後期の奥羽の武将。俘囚長(ふしゅうちょう)で「奥六郡の司」を称した安倍頼時(よりとき)の次子。厨河(くりやがわ)次郎の名があり、安倍氏の領土のうち、北のさいはて厨川柵(くりやがわのき)(盛岡市)を守った。前九年の役(1051~1062)も、貞任が源頼義(よりよし)に不当に殺されようとするのに対する抗戦として、全面戦争になった。父頼時敗死の後は、安倍の抗戦の総指揮をとり、とくに1057年(天喜5)11月の黄海(きのみ)(岩手県東磐井(いわい)郡)の会戦では、敵将頼義主従をわずか7騎にまで追い込む戦いぶりをみせた。しかし1062年(康平5)出羽(でわ)国山北(せんぽく)の俘囚主清原武則(きよはらのたけのり)らが1万の兵を率いて参戦、源氏に味方したので戦況不利となり、衣川(ころもがわ)、鳥海(とりみ)と敗れ、厨川柵で全軍滅亡、貞任も敗死した。

[高橋富雄]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「安倍貞任」の解説

安倍貞任
あべのさだとう

?~1062.9.17

平安中期の陸奥国の豪族。頼時の子。厨川(くりやがわ)二郎と称する。1056年(天喜4)陸奥権守藤原説貞(あきさだ)の子弟を襲撃し,前九年の役が勃発。翌年,父が戦死したあと,弟宗任(むねとう)とともに源頼義の軍を破ったが,62年(康平5)頼義が清原武則の支援をうけて攻勢に転じ,厨川柵(現,盛岡市)の戦で負傷し捕らえられ死亡。34歳または44歳ともいう。衣川柵(現,岩手県平泉町あるいは奥州市衣川区)の戦の際,源義家と交わした問答歌の逸話は有名。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「安倍貞任」の解説

安倍貞任 あべの-さだとう

?-1062 平安時代中期の豪族。
安倍頼時(よりとき)の次男。父の戦死後,弟宗任(むねとう)ら一族とともに鎮守府将軍源頼義・義家父子の軍とたたかう。出羽(でわ)の清原氏が源軍に味方したため,陸奥(むつ)の小松柵(さく),衣川柵,鳥海(とりみの)柵と各地で敗れ,厨川(くりやがわの)柵の戦いで捕らえられて康平5年9月17日死んだ(前九年の役)。享年34歳とも44歳ともいわれる。通称は厨川二郎。

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旺文社日本史事典 三訂版 「安倍貞任」の解説

安倍貞任
あべのさだとう

1019〜62
平安中期の陸奥の豪族
1056年,父頼時と前九年の役をおこし,源頼義・義家に征討され,'62年衣川・厨川 (くりやがわ) 柵によって抗戦したが敗死。

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世界大百科事典(旧版)内の安倍貞任の言及

【奥州安達原】より

…出勤の太夫は竹本大和掾,2世竹本政太夫,初世竹本春太夫,初世竹本染太夫ほか。前九年の役後,安倍貞任・宗任兄弟と一族家臣らの再挙のための苦心譚を主材とし,謡曲《善知鳥(うとう)》の世界と,安達ヶ原の鬼女伝説を配した。安倍の忠臣善知鳥安方が文治と名を変えて,安倍貞任の子の千代童の身を守護している。…

【前九年の役】より

…しかし1056年武人として有名な源頼義が陸奥守になると安倍頼良はこれに服従し,名前も頼義と同音なのをはばかって頼時と改めた。ところが同年権守藤原説貞(ときさだ)の子光貞・元貞の人馬が何者かによって殺傷される事件がおこり,源頼義がこれを頼時の子安倍貞任のしわざと見て罰しようとしたため,頼時は貞任をかばって反乱を起こすにいたった。翌57年7月安倍頼時は鳥海柵(岩手県金ヶ崎町)で戦死したが,その後は貞任が一族を率いて戦い,同年11月の黄海(きのみ)(岩手県東磐井郡)の戦では大勝を得るという勢いだった。…

【源義家】より

…そのほか,《古今著聞集》《古事談》や《陸奥話記》《奥州後三年記》《源平盛衰記》などの説話や軍記物に所伝が頻出する。有名なものとしては,前九年の役の衣川(ころもがわ)の戦で敗走する安倍貞任(さだとう)に〈衣のたては綻(ほころ)びにけり〉とうたいかけたところ,貞任が〈年を経し糸のみだれのくるしさに〉と答えたので,その教養に感じて矢をおさめたという話(《陸奥話記》),京へ帰って貞任討伐の自慢話をしたところ大江匡房に〈惜しむらくは兵法を知らず〉と言われ,かえって喜んで匡房に弟子入りして兵法を学んだこと,そして〈兵野に伏すとき,雁列を破る〉との兵書の教えから,後三年の役では斜雁の列の乱れをみて伏兵を知ることができたとの話(《奥州後三年記》)などがあげられる。 義家伝説を大別すると,(1)戦闘での武勇伝と,従者や武勇之仁に対する武将としての思いやりを描いたもの,(2)そこから派生して義家の名や声を聞いただけで猛悪な強盗も逃げ出すというような,〈同じき源氏と申せども,八幡太郎は恐ろしや〉(《梁塵秘抄》)に発展する類のもの,(3)さらに義家によって物の怪(もののけ)や悪霊さえも退散するという神格化された武勇神とでもいうべき義家像を描いたもの,の3種がある。…

※「安倍貞任」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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