コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

安倍貞任 あべのさだとう

7件 の用語解説(安倍貞任の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

安倍貞任
あべのさだとう

[生]寛仁3(1019)
[没]康平5(1062).9.17. 陸奥,厨川
平安時代中期の武将。頼時の子。通称厨川二郎。永承6 (1051) 年,父とともに朝廷に反抗,陸奥守藤原登任の軍を破り,次いで着任した源頼義に帰順したが,天喜4 (56) 年,貞任が権守の子弟を夜襲したという嫌疑をかけられたことから頼義と安倍一族の戦いが再開された (→前九年の役 ) 。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

あべ‐の‐さだとう〔‐さだたふ〕【安倍貞任】

[1019~1062]平安中期の陸奥(むつ)の豪族。頼時の子。厨川次郎(くりやがわじろう)ともいう。前九年の役源頼義義家父子と戦い、敗死。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

安倍貞任【あべのさだとう】

平安後期の陸奥(むつ)の豪族。頼時の嫡子(ちゃくし)。厨川(くりやがわ)二郎と称。父とともに陸奥で反乱。1056年朝廷は源頼義に討伐を命じたが,翌年貞任は頼義軍を破った。
→関連項目秋田氏阿倍氏安倍宗任安東氏厨川柵

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

安倍貞任 あべの-さだとう

?-1062 平安時代中期の豪族。
安倍頼時(よりとき)の次男。父の戦死後,弟宗任(むねとう)ら一族とともに鎮守府将軍源頼義・義家父子の軍とたたかう。出羽(でわ)の清原氏が源軍に味方したため,陸奥(むつ)の小松柵(さく),衣川柵,鳥海(とりみの)柵と各地で敗れ,厨川(くりやがわの)柵の戦いで捕らえられて康平5年9月17日死んだ(前九年の役)。享年34歳とも44歳ともいわれる。通称は厨川二郎。

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版の解説

あべのさだとう【安倍貞任】

1029?‐62(長元2?‐康平5)
平安時代の陸奥国の豪族。安倍頼時の嫡子。通称厨川二郎。1056年(天喜4)結婚を拒否されたことを恨んで,陸奥権守藤原説貞(ときさだ)の子光貞・元貞を襲撃し,前九年の役を起こし,陸奥守源頼義らと戦うに至った。57年に父頼時が戦死してからは,安倍一族の総帥となり,同年冬には黄海(きのみ)(岩手県東磐井郡藤沢町)において頼義軍を破った。しかし62年に出羽国の清原氏が頼義軍に加わってからは,小松柵・衣川(ころもがわ)柵・鳥海柵と敗戦がつづき,同年9月17日,本拠の厨川柵(岩手県盛岡市)において敗死した。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

あべのさだとう【安倍貞任】

1019?~1062) 平安後期の陸奥むつの豪族。頼時の子。前九年の役で弟宗任むねとうとともに源頼義・義家らと戦う。厨川柵くりやがわのさくで敗死。通称、厨川二郎。軍記物・歌舞伎などに脚色される。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

安倍貞任
あべのさだとう
(1029?―1062)

平安後期の奥羽の武将。俘囚長(ふしゅうちょう)で「奥六郡の司」を称した安倍頼時(よりとき)の次子。厨河(くりやがわ)次郎の名があり、安倍氏の領土のうち、北のさいはて厨川柵(くりやがわのき)(盛岡市)を守った。前九年の役(1051~1062)も、貞任が源頼義(よりよし)に不当に殺されようとするのに対する抗戦として、全面戦争になった。父頼時敗死の後は、安倍の抗戦の総指揮をとり、とくに1057年(天喜5)11月の黄海(きのみ)(岩手県東磐井(いわい)郡)の会戦では、敵将頼義主従をわずか7騎にまで追い込む戦いぶりをみせた。しかし1062年(康平5)出羽(でわ)国山北(せんぽく)の俘囚主清原武則(きよはらのたけのり)らが1万の兵を率いて参戦、源氏に味方したので戦況不利となり、衣川(ころもがわ)、鳥海(とりみ)と敗れ、厨川柵で全軍滅亡、貞任も敗死した。[高橋富雄]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典内の安倍貞任の言及

【奥州安達原】より

…出勤の太夫は竹本大和掾,2世竹本政太夫,初世竹本春太夫,初世竹本染太夫ほか。前九年の役後,安倍貞任・宗任兄弟と一族家臣らの再挙のための苦心譚を主材とし,謡曲《善知鳥(うとう)》の世界と,安達ヶ原の鬼女伝説を配した。安倍の忠臣善知鳥安方が文治と名を変えて,安倍貞任の子の千代童の身を守護している。…

【前九年の役】より

…しかし1056年武人として有名な源頼義が陸奥守になると安倍頼良はこれに服従し,名前も頼義と同音なのをはばかって頼時と改めた。ところが同年権守藤原説貞(ときさだ)の子光貞・元貞の人馬が何者かによって殺傷される事件がおこり,源頼義がこれを頼時の子安倍貞任のしわざと見て罰しようとしたため,頼時は貞任をかばって反乱を起こすにいたった。翌57年7月安倍頼時は鳥海柵(岩手県金ヶ崎町)で戦死したが,その後は貞任が一族を率いて戦い,同年11月の黄海(きのみ)(岩手県東磐井郡)の戦では大勝を得るという勢いだった。…

【源義家】より

…そのほか,《古今著聞集》《古事談》や《陸奥話記》《奥州後三年記》《源平盛衰記》などの説話や軍記物に所伝が頻出する。有名なものとしては,前九年の役の衣川(ころもがわ)の戦で敗走する安倍貞任(さだとう)に〈衣のたては綻(ほころ)びにけり〉とうたいかけたところ,貞任が〈年を経し糸のみだれのくるしさに〉と答えたので,その教養に感じて矢をおさめたという話(《陸奥話記》),京へ帰って貞任討伐の自慢話をしたところ大江匡房に〈惜しむらくは兵法を知らず〉と言われ,かえって喜んで匡房に弟子入りして兵法を学んだこと,そして〈兵野に伏すとき,雁列を破る〉との兵書の教えから,後三年の役では斜雁の列の乱れをみて伏兵を知ることができたとの話(《奥州後三年記》)などがあげられる。 義家伝説を大別すると,(1)戦闘での武勇伝と,従者や武勇之仁に対する武将としての思いやりを描いたもの,(2)そこから派生して義家の名や声を聞いただけで猛悪な強盗も逃げ出すというような,〈同じき源氏と申せども,八幡太郎は恐ろしや〉(《梁塵秘抄》)に発展する類のもの,(3)さらに義家によって物の怪(もののけ)や悪霊さえも退散するという神格化された武勇神とでもいうべき義家像を描いたもの,の3種がある。…

※「安倍貞任」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

安倍貞任の関連キーワード安倍頼時厨川柵黒沢尻後三年の役陸奥話記安倍安倍高星安倍則任清原武貞藤原清衡母

今日のキーワード

大寒

二十四節気の一つ。元来,太陰太陽暦の 12月中 (12月後半) のことで,太陽の黄経が 300°に達した日 (太陽暦の1月 20日か 21日) から立春 (2月4日か5日) の前日までの約 15日間で...

続きを読む

コトバンク for iPhone

安倍貞任の関連情報