平安時代の陸奥国の豪族。安倍頼時の嫡子。通称厨川二郎。1056年(天喜4)結婚を拒否されたことを恨んで,陸奥権守藤原説貞(ときさだ)の子光貞・元貞を襲撃し,前九年の役を起こし,陸奥守源頼義らと戦うに至った。57年に父頼時が戦死してからは,安倍一族の総帥となり,同年冬には黄海(きのみ)(岩手県一関市の旧藤沢町)において頼義軍を破った。しかし62年に出羽国の清原氏が頼義軍に加わってからは,小松柵・衣川(ころもがわ)柵・鳥海柵と敗戦がつづき,同年9月17日,本拠の厨川柵(岩手県盛岡市)において敗死した。源義家が〈衣のたてはほころびにけり〉とうたいかけ,貞任が〈年をへし糸のみだれのくるしさに〉とこたえたという故事は,衣川柵脱出のときのことという。享年は44歳ともいう。
執筆者:大石 直正
貞任・宗任兄弟は,逆賊として追討されるが,10余年にわたって頼義軍を悩ましたその武勇は,人々に強い印象をあたえ,しだいにこれを巨人視する風潮が生じた。前九年の役のてんまつを記した《陸奥話記》には,貞任は身のたけ6尺余,腰の周り7尺4寸という色白の巨漢であったとあるが,巨人貞任のイメージは時代が下るとともにますます誇張され,たとえば《義経記》では,〈これら兄弟,たけの高さ唐人にも越えたり。貞任が丈は9尺5寸,宗任が丈は8尺5寸,何れも8尺に劣るはなし〉と,貞任をはじめとする安倍一族の人々をすべてずぬけた大男として描き出している。貞任は厨川で死ぬが,宗任は泥中に身を隠して逃れ,のち降人として義家に仕えることになる。《古今著聞集》によると,あるとき義家は宗任を供につれて狩に出,1匹の狐を射た。わざとねらいを外して射たが,その弓勢に驚いて狐は気絶する。宗任が地面に刺さった矢を抜きとって差し出すと,義家はむぞうさに背を向けて箙(えびら)にこれを差させた。郎等たちは,宗任の害心を懸念したが,義家の度量に心服した宗任は,命じられるままに箙に矢を納めたという。のち宗任は大宰府に流され,この地に永住,松浦(まつら)党の祖になったと伝えられる。
→安倍宗任
執筆者:梶原 正昭
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平安後期の奥羽の武将。俘囚長(ふしゅうちょう)で「奥六郡の司」を称した安倍頼時(よりとき)の次子。厨河(くりやがわ)次郎の名があり、安倍氏の領土のうち、北のさいはて厨川柵(くりやがわのき)(盛岡市)を守った。前九年の役(1051~1062)も、貞任が源頼義(よりよし)に不当に殺されようとするのに対する抗戦として、全面戦争になった。父頼時敗死の後は、安倍の抗戦の総指揮をとり、とくに1057年(天喜5)11月の黄海(きのみ)(岩手県東磐井(いわい)郡)の会戦では、敵将頼義主従をわずか7騎にまで追い込む戦いぶりをみせた。しかし1062年(康平5)出羽(でわ)国山北(せんぽく)の俘囚主清原武則(きよはらのたけのり)らが1万の兵を率いて参戦、源氏に味方したので戦況不利となり、衣川(ころもがわ)、鳥海(とりみ)と敗れ、厨川柵で全軍滅亡、貞任も敗死した。
[高橋富雄]
?~1062.9.17
平安中期の陸奥国の豪族。頼時の子。厨川(くりやがわ)二郎と称する。1056年(天喜4)陸奥権守藤原説貞(あきさだ)の子弟を襲撃し,前九年の役が勃発。翌年,父が戦死したあと,弟宗任(むねとう)とともに源頼義の軍を破ったが,62年(康平5)頼義が清原武則の支援をうけて攻勢に転じ,厨川柵(現,盛岡市)の戦で負傷し捕らえられ死亡。34歳または44歳ともいう。衣川柵(現,岩手県平泉町あるいは奥州市衣川区)の戦の際,源義家と交わした問答歌の逸話は有名。
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…出勤の太夫は竹本大和掾,2世竹本政太夫,初世竹本春太夫,初世竹本染太夫ほか。前九年の役後,安倍貞任・宗任兄弟と一族家臣らの再挙のための苦心譚を主材とし,謡曲《善知鳥(うとう)》の世界と,安達ヶ原の鬼女伝説を配した。安倍の忠臣善知鳥安方が文治と名を変えて,安倍貞任の子の千代童の身を守護している。…
…しかし1056年武人として有名な源頼義が陸奥守になると安倍頼良はこれに服従し,名前も頼義と同音なのをはばかって頼時と改めた。ところが同年権守藤原説貞(ときさだ)の子光貞・元貞の人馬が何者かによって殺傷される事件がおこり,源頼義がこれを頼時の子安倍貞任のしわざと見て罰しようとしたため,頼時は貞任をかばって反乱を起こすにいたった。翌57年7月安倍頼時は鳥海柵(岩手県金ヶ崎町)で戦死したが,その後は貞任が一族を率いて戦い,同年11月の黄海(きのみ)(岩手県東磐井郡)の戦では大勝を得るという勢いだった。…
…そのほか,《古今著聞集》《古事談》や《陸奥話記》《奥州後三年記》《源平盛衰記》などの説話や軍記物に所伝が頻出する。有名なものとしては,前九年の役の衣川(ころもがわ)の戦で敗走する安倍貞任(さだとう)に〈衣のたては綻(ほころ)びにけり〉とうたいかけたところ,貞任が〈年を経し糸のみだれのくるしさに〉と答えたので,その教養に感じて矢をおさめたという話(《陸奥話記》),京へ帰って貞任討伐の自慢話をしたところ大江匡房に〈惜しむらくは兵法を知らず〉と言われ,かえって喜んで匡房に弟子入りして兵法を学んだこと,そして〈兵野に伏すとき,雁列を破る〉との兵書の教えから,後三年の役では斜雁の列の乱れをみて伏兵を知ることができたとの話(《奥州後三年記》)などがあげられる。 義家伝説を大別すると,(1)戦闘での武勇伝と,従者や武勇之仁に対する武将としての思いやりを描いたもの,(2)そこから派生して義家の名や声を聞いただけで猛悪な強盗も逃げ出すというような,〈同じき源氏と申せども,八幡太郎は恐ろしや〉(《梁塵秘抄》)に発展する類のもの,(3)さらに義家によって物の怪(もののけ)や悪霊さえも退散するという神格化された武勇神とでもいうべき義家像を描いたもの,の3種がある。…
※「安倍貞任」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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