下名寄村(読み)しもなよろむら

日本歴史地名大系 「下名寄村」の解説

下名寄村
しもなよろむら

[現在地名]中川(なかがわ)郡美深町字大通北(おおどおりきた)・字大通南(おおどおりみなみ)・大通南(おおどおりみなみ)・字西一条北(にしいちじようきた)・字西一条南(にしいちじようみなみ)・西一条南(にしいちじようみなみ)・西二条南(にしにじようみなみ)・西三条南(にしさんじようみなみ)・西三条北(にしさんじようきた)・字東一条北(ひがしいちじようきた)・字東一条南(ひがしいちじようみなみ)・東一条南(ひがしいちじようみなみ)・字東二条北(ひがしにじようきた)・字東二条南(ひがしにじようみなみ)・東二条南(ひがしにじようみなみ)・字東三条北(ひがしさんじようきた)・字東三条南(ひがしさんじようみなみ)・東三条南(ひがしさんじようみなみ)・字東四条北(ひがしよじようきた)・東四条南(ひがしよじようみなみ)・東五条北(ひがしごじようきた)・字東五条北(ひがしごじようきた)・字東六条北(ひがしろくじようきた)・字東六条南(ひがしろくじようみなみ)・字西町(にしまち)・字北町(きたまち)・字南町(みなみまち)・字若松町(わかまつちよう)・字開運町(かいうんちよう)・字美深・字辺渓(ぺんけ)・字仁宇布(にうぷ)・字菊丘(きくおか)・字敷島(しきしま)・字吉野(よしの)・字川西(かわにし)・字六郷(ろくごう)・字玉川(たまがわ)・字泉(いずみ)・字富岡(とみおか)・字斑渓(ぱんけ)・字紋穂内(もんぽない)・字西里(にしさと)・字大手(おおて)・字報徳(ほうとく)・字恩根内(おんねない)・字小車(おぐるま)・字楠(くすのき)・字清水(しみず)、名寄市字智恵文(ちえぶん)

明治三〇年(一八九七)より大正九年(一九二〇)まで存続した村。明治三〇年六月中川郡下名寄村が成立。同三四年四月中川郡が上川支庁に編入され(勅令第一三号)、また剣淵(けんぶち)外三ヶ村戸長役場の管轄となる。同三五年上名寄村外二ヶ村戸長役場に所属、同四〇年三月下名寄村外一ヶ村戸長役場(ほか一村は中川村)が村内に設置された(市町村沿革台帳・美深町史)。大正四年四月一級町村制施行、大字は編制していない。「天塩川沿岸のアイヌ」に「ペケルヽと称する地に上陸したる時には、幸ひにアイヌの建てたる小屋あり、主は遠く出て行きたりと見えあらざりしが、住宅の掘り建小屋は、茅にて屋根を葺き、周囲は茅を束ねて掩護し、素より床なくして室内は皆な土間、煙出しの窓の上に向て開けあり」と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報